太田述正コラム#5053(2011.10.15)
<イギリスにおける近代議会の誕生(その2)>
3 イギリス議会
(1)序
ジェンキンスは、次のように言っています。
「戦争にはカネが必要だったが、これは、<国王が納税者達からの>苦情<(陳情)>を処理する見返りとしてのみ納税者達から提供された。
ケルト達の「粉砕者(hammer)」と称されたエドワード(Edward)1世でさえ、「今まで気前よくかつ善意で我々に支払われてきた」税金が、「将来、隷属的義務にならないか」という懸念を抱いたものだ。
<イギリス国内における>妥協なかりせば、イギリス国王達は戦うことができなかったということだ。
イギリスの歴代統治者達の戦闘性(belligerence)が皮肉にも、早くからの同意による統治の推進器であったというわけだ。」(C)
これは、国王が陳情の処理程度のサービスを提供すれば、主としてブリトン人からなる、イギリスの被支配者達は、「気前よくかつ善意で」税金を支払った、ということであり、それはすなわち、被支配者達が、国王や貴族達の生業が戦争であって、彼らがそれに従事することを当然視し、声援を送っていたからであるし、これほど被支配者達が鷹揚かつ協力的であったのは、一貫して、イギリスが、欧州に比較しても、突出して豊かで、被支配者達に十分すぎるほどの担税力があったからである、と私は考えています。
こんな予定調和的な支配者と被支配者の関係は、貧しく、かつ被支配者達が戦争を忌み嫌っていたと思われる欧州においては、およそ考えられないことだったのです。
「この<イギリス史という>物語には、一つの、他の全てに優先する英雄がいる。
それは議会だ。
<アングロ>サクソン人の初期の賢者集会(witans)から出現した議会は、14世紀には、既に今日の両院的性格を帯びるに至っていた。
それは<実質的な意味におけるイギリス>憲法において中心的な存在であり続けた。
議会は、<イギリス>内戦の苦悩をイギリスを操って潜り抜けさせた。
<また、>ハノーヴァー朝の下では、議会とその「諸政党」は、政府の旗手の座を獲得し、1832年の<チャーチスト>改革では、その操縦席を担った。
しかしながら、議会は、しばしばどれだけ「腐敗」していようとも、議論において節度(control)を失うようなことはなかった。
<まこと、>議会は<、イギリスの>政治的天才の被造物だったのだ。」(C)
私には、現時点で、到底、イギリスの内戦期以降までもカバーする能力と時間的余裕がないので、本日は、おおむね14世紀くらいまでのイギリス議会の発展を追うことでお許し願いたいと存じます。
(2)イギリス議会前史
–武装自由民総会–
まず、イギリス議会のご先祖様と言うべきものが、アングロサクソンを含むところのゲルマン人における「武装自由民総会(general assembly of the freemen in arms)」です。
この総会で、王は貴族達の中から選挙で選ばれました。
http://www.bible-history.com/maps/romanempire/Germania.html
すなわち、武装自由民総会の最大の仕事は、彼らの生業たる戦争を遂行する際の最高指揮官を選ぶことであったわけです。
それ以外は、平時においては政府があってなきが如しであったことから、武装自由民総会を開いてまで処理すべき案件などほとんどなかったのではないでしょうか。(コラム#81参照)
–人民集会–
大ブリテン島に侵攻したゲルマン人の混淆部族たるアングロサクソンの武装自由民総会は、「人民集会(folkmoot=folkmote=Thing)」と呼ばれたところ、その権限は通常の武装自由民総会より広範であり、当該部族の、地域社会ないし地区ごとに統治を行う機関として設置されました。
権限が広範なものになったのは、ブリトン人という、文化の異なる異民族を統治しなければならなくなったからでしょう。
この人民集会は、「賢者集会(witans=witenagemot)」の前身であって、それがある意味でまた近代議会の前身になりました。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thing_(assembly)
–賢者集会–
賢者集会が「ある意味で近代議会の前身」であるとされるのは、それが、近代議会の直接の前身ではないのであって、キュリア・レジス(Curia Regis)(後出)の前身であると言った方が正確であるからです。
賢者集会は、単に賢者(=顧問=Witan(上出))と呼ばれることもあり、それが機能したのは7世紀から11世紀にかけてであり、イギリスが統一されるまでは、アングロサクソン各王国にそれぞれ存在しました。
イギリスの貴族及び僧侶中の重要人物・・総督(earl。数州(shire)を束ねていた)、州代官(ealdorman)、王の近侍の武士(thegn=thane)、上級僧侶(senior clergy)等がその議員であり、主たる任務は、討論の上、重要な全国的または地方的事項について国王に助言することでした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Witenagemot
http://www.answers.com/topic/witenagemot
それは、ゲルマン人における武装自由民総会が、アングロサクソンが多数のブリトン人を支配することとなった時点で人民集会となり、やがてアングロサクソン人とブリトン人との間に一体感が醸成される一方で、アングロサクソン武装自由民がブリトン人の上に君臨する貴族や上級僧侶となったことに伴い、全自由民による集会が貴族及び上級僧侶による賢者集会へと変貌を遂げた、ということであろう、と私は考えています。
賢者集会は、かなりの力を持っていました。
アングロサクソン各国や、その時々の国王によって議員となる資格や賢人会議の機能はまちまちでしたが、法律、租税、外交、国防、特権的領地の授与(bestowal of privileged estates)にあたって、この集団の助言と同意が通常国王によって求められたからです。
賢者集会が直接国王に反対するようなことは稀であったでしょうが、国王をチェックする機能は果たしていたと考えられています。
しかも、余り記録は残っていませんが、少なくともウェセックス(Wessex)・・イギリスを統一することになる・・の賢人会議は、国王選出権を持っていた可能性があるのです。
国王の地位は子孫に受け継がれるのが普通でしたので、通常はこの権限は象徴的な意味しかありませんでしたが、時には実際に賢者集会が国王を選出したことがあるのです。
http://www.answers.com/topic/witenagemot 上掲
人民集会同様、賢人会議の権限は広範であったわけですが、権限が強かったのは、被支配者たるブリトン人の自治の精神が後押しをしたのであろう、と私は考えています。
賢人達は、恐らく、ブリトン人の意向にも十分配慮してこの権限を行使した、と思われるのです。
–キュリア・レジス–
この賢人会議が母体となって、1066年のノルマン・コンケスト以降、キュリア・レジス(Curia Regis)が生まれます。
キュリア・レジスは、荘園主(tenant-in-chief)・・国王から直接封、すなわち荘園の保有を認められた者・・達と聖職者(ecclesiastic)達から構成される会議体(council)であり、制定法の制定についてイギリス国王に助言を行いました。
ウィリアム征服王が、出身地のノルマンディーからイギリスに封建制度を持ち込んだことがその背景にあります。
封建制度の持ち込みとは、ウィリアムが、土地を自分にとって最も重要な軍事的支援者達に供与し、彼らは、更にその土地を彼らの支援者達に供与し、といった具合に、封建的階統制が作り上げられたことです。
彼の息子のウィリアム2世(1056?~1100年。イギリス国王:1187~1100年)(コラム#90、4924)は、絶対君主でしたが、制定法を制定する前に、しばしばキュリア・レジスの助言を求めました。
荘園主達は、しばしば、聖職者たる議員達や王と権力をめぐって争うやっかいな存在であったからです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Curia_Regis
この荘園主達は、恐らく、ノルマンコンケスト前の賢者達と同様の精神でもって権限行使を行ったことでしょう。
1215年に荘園主達は、ジョン王にマグナ・カルタに調印をさせ、(封建税を除き、)国王のための会議体(royal council)、すなわち、キュリア・レジス、の同意なしに税を課したり徴収したりすることができないことを認めさせました(注)。
(注)ジェンキンスは、次のような趣旨のことを言っている。
課税についてはマグナ・カルタの第12条に規定されている。
議会史と直接関係はないが、この条項と並んで重要なのが人身保護(habeas corpus)について規定した第39条「自由人は、同輩による合法的判断またはその地域の法に基づく場合を除き、逮捕、投獄、権利はく奪、無法者と宣言され、追放される等のいかなる形においても身を滅ぼされることはない」だ。
なお、マグナ・カルタは、ジョンが法王に訴えた結果、無効とされた。だから、シェークスピアの戯曲『ジョン王』にはマグナ・カルタへの言及は出てこない。
http://www.guardian.co.uk/books/2011/oct/02/great-english-dates-1215
(10月3日アクセス)
(3)イギリス議会の成立
この国王のための会議体、すなわちキュリア・レジスがイギリス議会へと発展して行くのです。
議会(parliament)という言葉は、ラテン語ないしフランス語の議論ないし語りという言葉に由来するのであり、1230年代から使われるようになったのですが、最初から、象徴的な国王任免権と実質的な税金承認権に加えて、(コモンローの補充に過ぎないが)立法権(legislative power=制定法制定権)と、(最終審としての)司法権(judicial power)とを有していたと考えられています。
立法権と司法権については後述します。
さて、初期においては、議会が招集されるのは、基本的に、国王が税金をかけてカネを集める必要が生じた場合だけでした。
しかし、マグナ・カルタ以降、議会の招集が慣習化することになります。
議会の権威が増したことには、たまたまジョン王(コラム#90、2210、3467、3469、3471、4743、4920)が1216年に亡くなり、彼のまだ幼児であった息子のヘンリー3世(コラム#96、4468、4470、4476、4914、4920)が王位を継承した結果、有力な貴族や僧侶によって彼が成人になるまで統治が代行されたことが大いに寄与しています。
まさに、その間に、彼らはヘンリー3世に(無効化されていたところの、)マグナ・カルタを再承認させるのです。
ところが、成人になったヘンリー3世は、絶対君主的な統治を目指します。
そこで、1258年、有力な直臣(baron)達は、団結して、ヘンリーをオックスフォード条項(Provisions of Oxford)に同意させ、宣誓させるのです。
その結果、15人の直臣達が統治行為を行うと共に彼らを監視するために議会が年3回を目途に開かれる運びになります。
http://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_England
1261年に、今度は、ヘンリー3世は、オックスフォード条項を破棄します。
これに対し、有力な直臣のシモン・ド・モンフォール(Simon de Montfort, 6th Earl of Leicester。1208?~65年)(コラム#1334、3467)が他の有力な直臣達とともに叛乱を起こします。
彼は、1264年に国王軍との決戦(Battle of Lewes)を制し、ヘンリー3世及びその息子と弟を捕え、彼と他の2人からなる政府を樹立し、この政府を議会が効果的に監視できるようにするため、すべての州(county=shire)と若干の都市(borough)ごとに、それぞれ2人ずつの代表・・州については騎士、都市については市民(burgess)、騎士と市民の総称は郷紳(gentry)、議員としての総称はコモンズ(commons)・・を選出してこの議会に送るようにさせました。
騎士が議会に招かれたことは以前にもありましたが、市民が招かれたのは、この時が初めてです。
こうして1265年に開かれた議会(ド・モンフォールの議会)こそ、それまでの世界史上他に例を見ないところの、民主的代表議会制(democratic representative parliament)、つまりは間接民主制、の始まりなのです。
議会に代表を送ることができる都市は、国王が勅許状(Royal Charter)を与えることで次第に増え、最後の勅許状が1674年にニューアーク(Newark)市に与えられることになります。
なお、州選挙区に関しては、有権者は、40シリングの年間地代が得られる土地について自由保有権(freehold)を有するすべての者(Forty-shilling Freeholders)でしたが、都市選挙区に関しては、まちまちでした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Simon_de_Montfort,_6th_Earl_of_Leicester
(10月7日アクセス)(ただし、適宜、
http://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_England 前掲
で補足した。)
その後、州選挙区等の有権者資格が次第に拡大されて行き、最終的には、現在の普通選挙制が導入されることになるわけです。
1265年にモンフォールが戦死し、ヘンリー3世が再び実権を回復するのですが、ヘンリー3世もその子のエドワード1世(コラム#624、1334、2470-1、3842、4572、4912、4914、4916)>も、税金を課す時にはコモンズ込の議会を、単に助言を求める時にはコモンズ抜きの議会を、という形で議会を活用し続けます。
そして、議会は、エドワード1世の子供のエドワード2世(コラム#3465、3467、3471、3814、4572、4885)を退位させ、その子供のエドワード3世(コラム#726、1334、3158、3467、3804、4312、4478、4566、4572、4912、4916、4918、4920、4922)を即位させたことによって、その権威を確立するのです。
更に、1341年には、貴族と僧侶からなる議員達と、騎士と市民からなる議員達とが、別々に集まるようになります。上下両院制がここに、やはり世界で初めて成立します。
そして、エドワード3世が、英仏百年戦争のための資金を確保したかったことに付け込んで、議会は、上下両院の同意なくして法律を制定したり税金を課したりできない、というルールを確立します。
1376年には、下院議長(presiding officer。後にspeakerと呼ばれるようになった)の発意で下院が国王の大臣の問責(impeach)を行います。
議長は、これに怒った国王によって投獄されたものの、まもなく、エドワード3世の死の後、釈放されます。
また、エドワード3世の次のリチャード2世(コラム#726、916、3465、3471)の時には、下院は予算統制権も手中にします。
ちなみに、1707年以来、国王は上下両院を通過した制定法案(bill)への拒否権を行使しないまま、現在に至っています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_England 前掲
すなわち、14世紀末までには、イギリス議会は、立法権とともに、行政権を統制する最大手段たる租税承認権と立法権に加えて、国王のみならず、国王の閣僚達をも事実上任免する権限を持つに至ったのであり、いわゆる議院内閣制(英語では、Parliamentary systemという)
http://en.wikipedia.org/wiki/Parliamentary_system
の原型が、ここに成立したことになります。
(イギリス議会は、更に司法権も持っていた(後述)わけですが、これは、イギリスを始めとするアングロサクソン諸国以外には普及しませんでした。)
(4)コモンローと議会制定法
今までに「立法権」や「制定法」という言葉が登場しましたが、イギリスにおける法体系はどうなっているのでしょうか。
1066年のノルマンコンケストまでは、裁判は、主として州裁判所(shireないしcountyのcourt)において、教会法関係と世俗法関係が別個に、それぞれ、教区司教(diocesan bishop)と州長官(sheriff)によって主宰されてとり行われました。
プランタジネット朝初代のヘンリー2世(1133~1189年。イギリス国王:1154~89年)(コラム#1025、1064、1334、2384、3128、3790、3816、4468、4470、4472、4474、4476、4478、4531、4920)は、1154年にコモンロー(コラム#90)の集積、整理を行いました。
その方法ですが、中央から判事を全国の州長官主宰の裁判所に送り、その地の法や慣習に基づいて審理、判決させ、その結果を再びこれら判事に中央に持ち帰らせ、互いに議論をしながら集積、整理を行わせ、全国共通の先例集(stare decisis=precedent)へとまとめあげさせたのです。
爾後、判決を下すにあたって、判事はこの全国共通の先例集に拘束されることとなります。
これは、換言すれば、この先例集所載の先例に該当しない事案については、自由に判決を下せる、ということであり、その結果はやがて、節目節目における集積、整理を経て先例集に追加的に反映されていくことになりました。
これが共通法、すなわちコモンローなのです。
爾後、コモンローによる教会法の領域の侵食が始まります。
こうして起こったのが、前出のトマス・ベケット大司教殺害事件なのです。
13世紀後半に確立した議会で、制定法も制定されるようになりましたが、それはあくまでも、コモンローの上に付け加えられた二次的法源でしたし、またそうあり続けて現在に至っているのです。
なお、12世紀から13世紀にかけて、欧州ではローマ法の再発見が行われましたが、その頃までにはイギリスにはコモンローが根付いており、欧州で生じたようなローマ法の継受は、イギリスでは生じませんでした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Common_law
(9月3日アクセス)
ここで忘れてはならないのは、コモンローの淵源となったイギリス各地の法が形成され、イギリス各地の慣習が認定されたのは、その大部分が陪審制的な裁判を通じてであったことです。
ゲルマン人には、一般に裁判員制があったらしいことが分かっていますが、大ブリテン島に到来したアングロサクソン人の裁判所において、最初から裁判員制ないし陪審員制的なものが存在したかどうかは定かではないようです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Conservator_of_the_peace
(9月4日アクセス)
確かなのは、アングロサクソン諸王国の頃から盛んにイギリスを襲ってきて、その一部がイギリスに定着したり、イギリス国王となったりしたバイキングについてです。(ノルマン人ももともとはバイキングですが、これは捨象しましょう。)
バイキングは訴訟大好き人間であり、その武装自由民は、しばしば、司法会議(thing)に集まっては裁判を行いました。この裁判員達は、自分達で捜査等も行いました。
これにヒントを得たと思われるのですが、エセルレッド無思慮王(Aethelred the Unready。908?~1016。イギリス国王:978~1013、1014~1016)
http://en.wikipedia.org/wiki/%C3%86thelred_the_Unready
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%892%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
の時に、小地区(wapentake)ごとに12人の下級貴族(thegn)達が宣誓の上、捜査等を行った後、裁判を行うものとされていたことが分かっています。
バイキングの場合は、自由民なら基本的に誰でも裁判員になれたけれども、ブリトン人を支配したバイキングやアングロサクソンは、全員が下級貴族以上相当であったため、裁判員には下級貴族があてられた、と考えられます。
ノルマンコンケスト後には、フランク族の陪審制がノルマンディー地方経由でイギリスに導入され、やがて、これが、やはりヘンリー2世の時に、上述したところの、イギリスに既に存在した一種の裁判員制度と融合し、同輩たる陪審員による陪審制がイギリスにおいて確立します。
他方、欧州の方では、ローマ法の再発見に伴い、陪審制度は消滅してしまったようです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jury_trial、
http://en.wikipedia.org/wiki/Jury
(9月4日アクセス)
(5)議会と司法権
イギリス議会は、つい最近まで最高裁判所としても機能してきました。
その始まりは、議会が、下級裁判所の判決を覆して欲しいとの陳情を受け付け始めたことです。
1339年に、下院はかかる陳情の受付を止めた結果、かかる陳情を受け付けるのは上院だけになり、上院がイギリスの事実上の最高裁判所、ということになりました。
その上院では、その後この機能が衰退し、1514年から1589年の間にはわずか5件しか上告(陳情)を受け付けませんでしたし、1589年から1621年の間には全く受け付けていません。
1621年から、ようやく上院は、活発な最高裁判所として機能するようになります。
2009年になって、英国最高裁判所(Supreme Court of the United Kingdom)が設置され、ついに上院のこの機能は廃止されるのです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Judicial_functions_of_the_House_of_Lords
(9月8日アクセス)
(6)議会主権
ここで改めて、強調しておきたいのは、イギリスは、議会が「成立」した時から、行政権、立法権、司法権が分立していないところの、単一主権の議会主権の国であり続けてきた、ということです。
イギリスは、国王主権の国でも、国民主権の国でもないのです。(コラム#1334)
すなわち、イギリス国王は、議会内の存在なのです。(国王が男性の時はKing-in-Parliament、女性の時はQueen-in-Parliamentの観念です。)(コラム#1334、1695、1789、1798、1805、1809、2244、2472、2482、2922、3828)
http://en.wikipedia.org/wiki/Queen-in-Parliament
ただし、つい最近、司法権だけは分立し、二権分立制となるに至った、というわけです。
ちなみに、日本の、大正デモクラシー以降の政府形態は、イギリスの議院内閣制の系譜に属するところの、King-in-Parliamentの、司法だけ分立した二権分立制である、と言えるでしょう。
ただし、ご存じのように、日本はコモンロー(プラス補助的法源たる制定法)の国ではなく、制定法の国なので、現時点では、日本の議会の方がイギリスの議会よりも強力である、と言えそうです。
(7)欧州の「議会」との違い
では、イギリスの議会と欧州の議会とはどこがどう違うのでしょうか。
欧州の最先進国のフランスの三部会(States-General=Estates-General)を例にとりましょう。
まず第一に、発足がイギリスの議会より遅いのです。三部会はフランス国王フィリップ3世(Philip the Fair)によって、1302年に設置されています。
恐らく、イギリスの議会を模倣して設置した、と考えられます。
第二に、三部会は、イギリスの議会と違って、持続的に発展することができませんでした。例えば、三部会は、1560年まで76年間開かれなかったことがありますし、1614年以降はほとんど開かれませんでした。
第三に、三部会の権限はイギリス議会の権限よりはるかに小さいものでした。
租税や制定法の決定権はなく、国王に供与される補助金の承認権こそあったけれど、基本的に、国王への陳情の取次と財政政策についての助言を行う、単なる助言機関に過ぎませんでした。
(ちなみに、フランスでは、国王には(直轄地のしかも一部を除いて)徴税権がなく、補助金の供与指示権しかありませんでした。)
また、イギリス議会は国王任免権を象徴的に有し、たまに実際に行使しましたが、三部会は、ルイ11世が死去した1484年にオルレアン公がシャルル8世の摂政になろうとした時に、シャルルの姉のアン・ド・ボジュー(Anne de Beaujeu)側についてこれを拒否したことがあるだけであり、果たして国王任免権を象徴的にせよ有していたかどうかも判然としません。
三部会には、司法権もありませんでした。
第四に、総括的に言えば、フランスの国王は、三部会の外(上)に存在しており、議会の中に存在していたイギリスの国王とは異なっており、このことは、三部会がイギリス議会とは、全く異なった範疇に属する存在であることを示しているのです。
ところで、日本語で三部会と呼ばれるのは、僧侶、貴族、市民がそれぞれ別個に集会(部会)を持ったからですが、市民と言っても、主要な特権的都市の代表であり、しかも一つの都市から僧侶、貴族、市民(burgess)たる三名が選出される決まりでした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Estates-General_of_France
4 終わりに
もともとは、スコットランドとウェールズ(、更にはアイルランド)の議会の歴史との比較や、古典ギリシャ(アテネ)と古代ローマの議会の歴史との比較もしようと思ったのですが、果たせませんでした。
また、断定的に書いていない部分は、十分調べることができなかった部分であることをお断りしておきます。
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<前半(コラム#5009)の補遺>
「・・・<現在の>イギリスのナショナリズムには、ウェールズとスコットランドのそれと比較して、穏やかならざる、人種的に排他的な要素がある。・・・」
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2011/oct/11/britain-model-unhappy-family
(10月12日アクセス)
「・・・最も最近の諸研究が見出したところによれば、それぞれの有権者達が選択を強いられた場合、イギリス人の52%、スコットランド人の19%、ウェールズ人の30%が、英国を、それぞれ、イギリス、スコットランド、及びウェールズよりも第一に選ぶ。・・・」
http://www.guardian.co.uk/uk/2011/oct/12/uk-citizens-reject-british-survey
(10月13日アクセス)
(完)
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太田述正コラム#5054(2011.10.15)
<2011.10.15オフ会次第(その1)>
→非公開
イギリスにおける近代議会の誕生(その2)
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