太田述正コラム#0043(2002.6.25)
<日本型経済体制(その3)>

 私の日本型経済体制論は分かりにくい、とこぼしておられる方は少なくないと拝察します。

 拙稿を発表した頃、フォーリン・プレス・センター(外務省の外郭団体です。この拙稿を翻訳し、世界に配布してくれた話は既にお聞かせしました)が、外国人記者を対象に同センターにおいて拙稿の内容を説明する通訳付き講演会を企画してくれました。その時、私は次のような話から始めた記憶があります。

 あるモノを入手したいとします。そのとき、あなたは
?? そのモノを買ってくることができます、し
?? 自分でつくることもできます、が
?? そのモノについてあなたより詳しく、かつあなたのことを良く知っている人に依頼して調達してもらうこともできます。(このケースでは、依頼のしかたとして、買ってきてくれと頼むこともできるし、つくってくれと頼むこともできるし、具体的調達方法を指定せずに、買うかつくるかを含めてその人にまかせることもできるでしょう。当然、この人には調達経費に加えてお礼を渡すことになります。)

欧米型は、??の調達方法が、ソ連型は??の調達方法が、日本型は??の調達方法が優位にある経済体制です。・・・・・

 いかがでしょう。何となくで結構なのですが、イメージをつかんでいただけたでしょうか。
 前回のコラムで提示した当時の課題の第一番目、「白紙的に見て、産業社会は、いかなる条件下で欧米型、ソ連型、日本型各経済体制のいずれかを採用するに至るのか」については、個人の効用関数やリスク選好、はたまた市場の失敗、組織の失敗等の概念を駆使することによって、数理経済学的に解が出せそうだと思われませんか。
 残念ながら、私は理論経済学に通暁しておらず、数学のセンスもないため、気鋭の経済学者がこの課題に取り組んでくれることを期待したのですが、残念ながらこの期待にこたえてくれる人は未だ現れていません。
 
第二番目の課題、「実際に日本型経済体制はいかなる歴史的経緯をたどって日本において成立したのか(採用されたのか)」については、既にスタンフォード大学留学中に(私がビジネススクールに加えて在籍していた)政治学科マスターコースにおいて、イケ教授(日系人)との一対一のセミナーで提出したペーパーの中で一応の結論を出していました。
 当時、「日本型経済体制」そのものについては、まだ漠然としたアイディアの状態にとどまっていましたが、「日本型経済体制」の起源の方は一応の結論を出していたわけです。
 その一応の結論とは、
大正から昭和初期にかけて日本の政治経済システムは欧米化(より端的にはアングロサクソン化)していたところ、これが破綻し(たように見え)たため、当時の官軍エリート達の主導の下、「満州国」における試行を経て、先の大戦に至るまでの間に日本本土に新たな政治経済システムが導入された。政治にあっては大政翼賛会の成立(というよりアングロサクソン型二大政党政治の解消)であり、経済にあっては「日本型経済体制」の成立である、
というものでした。
しかし、拙稿を書き上げてからも、この考えを公表するのをさぼっていたところ、元大蔵官僚の野口悠紀夫氏が1990年代に入ってから、日本的雇用や間接金融システム等によって特徴づけられる戦後の高度成長期の経済体制が成立したのは1940年頃であると唱え始めました。(野口悠紀夫「一九四0年体制―さらば「戦時経済」」(東洋経済新報社1995年)等を参照。)
1990年代に入ってから、日本型経済体制が存在すること(=私が最初の主唱者)、そしてその起源が先の大戦の直前に求められること(=かねてから私が考えていたこと)が、ようやく日本で常識化するに至った観があります。
日本型経済体制の起源については、拙著「防衛庁再生宣言」(日本評論社2001年)の232-236頁でも触れていますので、ご参照下さい。

ところで、この日本型経済体制は、果たして先の大戦に至るまでの昭和期に、全く新たに創造されたのでしょうか。およそ歴史において、無から有が生じるようなことはありえないのではないでしょうか。
私は最近、日本型経済体制の淵源は江戸時代に求められる、と考えるに至っています。(続く)