太田述正コラム#4916(2011.8.7)
<イギリスと騎士道(その4)>(2011.10.28公開)
エ エドワード3世
ソールは、<次の>フェーズを、エドワード3世(Edward III<。1312~77年
http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_III_of_England
>)<(コラム#4572)>の長い治世(1327~77年)を典型的な事例とするところの、「騎士的な国王(Chivalric Kingship)」のフェーズと呼ぶ。
この国王は、スコットランドとフランスで戦い、クレシー(Crecy)で自ら大勝利をあげた<(コラム#726、741、1695、2276)>が、フランスの地における多くのイギリス人を襲った手詰まりの占領や砦でのやる気を失わせる生活を目撃することにもなった。
彼は騎士道の文化を抱懐し、円卓の騎士団(Order of the Round Table)をウインザー城において作り出し、アーサー王的連帯感(fellowship)のお馴染みの諸テーマを14世紀の男達と若干の女達の生活に持ち込むことによって、騎士道を強化した。
これらの儀式とガーター勲章(insignia)は現在に至るまで生き残っている。」(A)
「エドワード3世は、1346年にクレシーの戦いでフランスの騎兵を潰走させたが、それは、部分的にはより優れた戦術、そして部分的にはその数年後のガーター騎士団(Order of the Garter)の創設に反映されたところの、彼の騎士的取り巻き達を一致団結させた騎士的規範(code)に帰せしめられる。」(B)
「エドワード3世の国王道は、彼の祖父の<エドワード1世の>それと同じ鋳型にぴったりあてはまる。
しかし、エドワード3世の野心は、<祖父>より、イギリスの騎士道についての彼らの意識(identity)を研ぎ澄ますと意味での影響力は大きかった。
名誉と評判、それと同時に、役務の過程で勝ち得た獲物と身代金、の分け前の魅力(lure)は、ここでの強力な要因だった。
主として彼がクレシーでの大いなる勝利を挙げた戦場での仲間たちであった指導的貴族たる指揮官(captain)達の中から最初の団員達が選ばれたところの、ガーター騎士団の創設は、軍事役務を魅惑的なものとする輝かしい一撃(stroke)だった。
それに関連するところの、エドワードの聖ジョージ崇拝(cult)の売り込み(promotion)と聖ジョージの採択は、国王(crown)への役務<の提供>は、同時に王国の公共の福祉(common weal)への役務でもあるということを饒舌に明言した。
イギリスにおいて、「外地における戦争の追求を良き国王道の基盤と考え、戦争における成功はイギリス王国に対する神の祝福の程度を示す」という、強力に強化された認識は、エドワードの時代が過ぎてからも容易に拭い去られることはなかった。
この信念(conviction)は、ヘンリー5世(Henry V<。1386~1422年。国王:1413~22年
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_V_of_England
>)<(コラム#4180、4312、4317、4478)>によるフランスにおける深刻な戦いの再開と彼のアジンコート(Agincourt)における顕著なる勝利<(コラム#3604、4180、4307)>によってもう一度再確認された。」(C)
(4)騎士道の変貌
「後に、ヨーク党(Yorkist)の時代とそれ以降においても、攻撃的な「外での戦争(werre outward)」は、多くの人々によって、ヘンリー6世(Henry VI<。1421~71年。国王:1422~61年、70~71年
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_VI_of_England
>)<(コラム#90、812、916、3471、3804、4312、4478)(注4)>の治世における諸大災厄の後の国家的再生(national renewal)への最も確実な方法であると見られ続けた。
(注4)無能であったため、彼の治世中に王位継承戦争であるバラ戦争(1455~85年)が始まる。また、精神障害を発症したこともあり、自分の妃に実権を奪われ、彼自身のランカスター家は没落し、ヨーク家が勃興した。(ヘンリー6世の英語ウィキペディア上掲及び
http://en.wikipedia.org/wiki/Wars_of_the_Roses )
しかし、15世紀において、一つの決定的な点で、事情は変わってしまった。・・・
ヘンリー5世のあげた何度かの勝利は、イギリスの騎士達と紳士達が軍事的役務を引き受けて、エドワード3世の何度かの勝利の時のように、成功裏の作戦の栄光と利潤の分け前を追求する、という心構えを再点火させることはなかった。
騎士達の、国家社会と国家的威信(dignity)における役割において、変移(shift)が起こっていたのだ。
騎士道の軍事的罠かけ(trapping)であるところの、紋章(heraldic arm)、真鍮の全身甲冑や教会の記念碑たる墓彫刻の姿での顕彰(commemoration)、自分達の自宅のそこから矢や鉄砲を射撃するための定間隔のすき間のあいた城のてっぺんにある城壁(crenellation)
< http://ejje.weblio.jp/content/crenellation >
、は、領主たる貴族達にとっては貴重であり続けたが、それは今や、軍事的な役割というよりは、主として、彼らの社会的地位(standing)と家系や、イギリス王国の政府及び行政機構(magistracy)における彼らの非軍事的役割、の視覚的表現として愛でられるようになった。
ソールの表現によれば、彼らの騎士道は、「騎士的冒険を求めての彷徨(knight errantry)
< http://ejje.weblio.jp/content/errantry >
ではないところの国家の役務に馬具でつながれた(harness)新騎士道」になりつつあったのであり、この新騎士道は、この素晴らしい本の中心的テーマに彼がしたところの、より古い、具体的には軍事的騎士道、とは強調点において区別できるのだ。」(C)
→騎士道の変貌もまた、イギリスにおいて内生的に起こったということになります。(太田)
(続く)
イギリスと騎士道(その4)
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