太田述正コラム#4946(2011.8.22)
<赤露による支那侵略(その4)>(2011.11.12公開)
3 「中国人のソ連留学とその遺産」より
 「民国期の中国人のソ連留学は、ヴィザもパスポートも持たない密航の形で行なわれたためその人数の正確な統計はないが、1920~30年代を通じておよそ2100人と推定されている。・・・
 なお、中国人のソ連で学んだ学校は、20年代前半はモスクワ東方大学(1921~38年)が、同後半ではモスクワ孫文大学(1925~30年、中山大学)が中心となるが、本稿では、中国人の大多数(推定約1600人)が学び、かつ、孫文の名を冠するように中国国民党とソ連との合作の産物であり、歴史的に重要な役割を果たした孫文大学を中心に分析を行なうこととする。」(173~175頁)
→国外に滞在する体験をし、外国語を習得する、という面では意義はあったにせよ、戦間期の前半期において、比較的上澄みの青年達が、何の役にも立たない勉強を何年かさせられたことは、その後の支那にとってどんなに大きな損失であったことでしょうか。(太田)
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<脚注>
 参考のために、戦前における、支那からの日本留学について触れておこう。
 「康有為・・・が、「広く日本書を訳して遊学を派せんことを請う摺」のなかで・・・日本書の組織的、体系的翻訳と日本への留学生派遣の必要性を強く奏議した。康有為の『日本変政考』は、明治維新の改革の措置を紹介し、「その効果がもっとも速く見え、その法律・礼儀などはもっとも整い、しかもわが国からもっとも近いのは日本である」、「日本の古い政治風俗はわが国と同じで、更新の方法は日本を離れて別途を選ぶことはできない」、「わが国の変法はただ日本の経験を参考にするだけで充分だ」と指摘した。
 こうした立場は康有為の弟子梁啓超によってさらに一歩進められた。・・・康有為や梁啓超らの努力によって、中国政府の日本への関心が高まり、反日感情を持っていた張之洞の対日観も修正を余儀なくされた。彼の有名な『勧学篇』が日本留学を推奨し、・・・日本留学ブームがもたされた。
 しかし、日本への留学は最新の西欧学術を日本に求めようとしたものではなかった。その理由は以下にまとめられる。一、旅費の経済は多数の学生を留学せしめ得ること。二、日本は中国に近いため視察しやすいこと。三、日本文は中国文に類似するため理解しやすいこと。四、米科学の粋を日本が十分に取り入れていること。従って日本語を学び、それを習得することは、いち早く西洋の文化を摂取する手段と考えられたのである。・・・
 <しかし、>辛亥革命後の中国の教育は欧米教育の影響を受け、殊に教会が教育権を握ってい<くことになる。>
 <また、>日本<が>「対華二十一ヶ条」要求を1915年1月1日に突きつけ<ると、>・・・中国全土に反日・排日ナショナリズムの運動が起こ<り、>・・・大正期に入って中国人の日本留学は急速にその数を減じた。また、日本側の留学生の受け入れ体制が不備なため、中国人の海外留学の流れがそれまでの日本留学中心から、アメリカ留学中心へと転換することになった。こうした中国教育界におけるアメリカの影響力の増大と、反日運動の拡大によって、日本外務省が同文会の在華教育事業に対する助成を行うことになった。
 さらに、1918年3月26日の第四〇帝国議会において可決された「日支文化の施設に関する建議案」には、「支那に於て日語学習の便を得しめんがために適当なる方法を講ずべき事」という希望条件が付けられた。・・・
 <これらを受け、>東亜同文会によって、南京・上海にそれぞれ・・・南京同文書院および東亜同文書院<が>・・・設立された」
 (中国華東師範大学 徐敏民教授『戦前大陸における「外国語」としての日本語教育』より)
 以上を踏まえると、留学の面でも、支那の留学生の行先について、辛亥革命後、日本から米国へと変更させる動きが米国人宣教師によってなされ、ロシア革命後は、日本からロシアへと変更させる動きが赤露当局によってなされたわけであり、この面でも、米国と赤露は、反日的行動を(結果として)共同してとった、ということが言えそうです。
 ちなみに、支那から日本への留学生の数は、下掲↓のものくらいしか見つけられませんでした。
 「中国人・・・の日本留学<生>・・・<の>人数については・・・最初のピークを迎えた1906年<、>・・・8,000人とも1万5千人とも言われている」
http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/812/1/culture5_11-24.pdf
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 「ソビエト政府は、・・・国際主義の理念と戦略、外国革命家の要望、また国内民族幹部養成の必要に基づき、・・・マルフレフスキー西方少数民族共産主義大学<と>・・・スターリン東方共産主義大学・・・を創立し・・・た。・・・<後者>は、1921年4月創立、・・・後に、外国人教育部門と連邦内の東方諸民族教育の部門が分離された。・・・ここには、劉少奇・朱徳・ホーチミン・ケニアッタ・ヤンジマ(スフバートルの妻)などの著名な外国共産主義者が学んだ。・・・中国部は1928年に孫文大学と合併された。1938年、廃校。
 ・・・孫文大学・・・は、・・・中国人のためだけに特別に設立されたものである。・・・
 ソ連当局は、孫文大学<を>・・・国立(すなわち教育人民委員部の管轄)とはせず、孫文大学支援協会・・・を設立し、その出資・運営という擬制をとった。・・・
 <これは、>列強からの、ソビエト国家が中国の革命・排外を扇動しているという非難を避けるためだったろう。・・・
 1925年3月19日、ロシア共産党政治局において最初に・・・<その>設置が討議された。3月12日の孫文逝去後、最初の政治局会議で提議・検討されていることは、ソ連当局が、孫文晩年に確立した国民党の連ソ容共・国民革命路線を永続化させるべく、革命運動家養成に取り組もうと決意していたことを示していた。・・・
 1925年10月7日、ボロジン顧問は広州・国民政府の会議において、モスクワに孫逸仙記念中国勤労者大学<(=孫文大学)>が創立されることを伝え、国民党が学生を派遣するよう求めた。・・・同年12月初めの広州からの留学生第一陣出発の歓送会での彼の演説<から、以下のことが分かる。>・・・
(一)孫文の「主義」と「事業」–晩年の連ソ容共・国民革命路線–を理解させ、中国国民革命を完成させること、そして、
(二)「帝国主義」即ち欧米や日本に留学した者に代わる親ソ的指導者を養成し、ソ連をモデルとして中国の変革を行わせることを期待していた<こと>・・・。
 ・・・国民政府は、・・・新聞で・・・中国国民党員<を対象に>・・・留学希望者約150名を公募した。・・<旅費・支度金は>150元自弁、中央党部より250元支給・・・、入学後は一切の費用は大学側から支給される<という条件だった。>・・・
 同様に広西省でも省政府教育庁により50名の留学生の公募が行なわれた。・・・
 以上の公募・試験による留学のほか、黄埔軍校、<及び>・・・軍隊に数十名の推薦枠が割り当てられ<るとともに、>・・・国民党高官の縁故者は、ボロジンの特別推薦枠により留学の機会を得た。蒋介石の子、蒋経国、・・・汪精衛の妻・・・の弟・・・などである。
 さらに、この公費ソ連留学の報を聞きつけて、地元の広東大学、省内の地方党部、農民協会から遠くクアラルンプルの国民党支部までが留学生を推薦してきており、党中央は断るのに苦労するほどであった。
 一方、国民党の公開活動ができない華北、華中では、国民党支部及び共産党組織が秘密に留学生の選抜を行ない、結果としてその多くは中共系(党員及び社会主義青年団員)となった。たとえば、国民党北京執行部では、40名を選抜したが、うち16名は共産党員・団員、9名は国民党員であった(他は不詳)。・・・
 また、フランス、ドイツなど留欧中国青年の転留学も見られた。パリからは中共旅欧支部の鄧小平・・・などがソ連に向かった。
 この他、北方の国民軍にも数十名以上がソ連留学が割り当てられたが、馮玉祥の子女<2名>・・・が孫文大学に行った<くらいだ。>」(178~184頁、186~187頁)
→汪兆銘(汪精衛)の場合は、留学したのが義理の甥ですからともかくとして、実子を孫文大学に送り込んだ蒋介石と馮玉祥は、共産主義に心酔していた、と解するのが自然でしょう。蒋介石自身は日本に留学
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3
しているだけに、確信犯的である、と言わざるをえません。馮玉祥の場合は、留学歴はありませんし、自ら洗礼を受けてキリスト教徒になったような人物
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AE%E7%8E%89%E7%A5%A5
ですから、子女の留学先として米国か赤露か悩んだ上で後者を選んだといったところでしょうか。(太田)
(続く)