太田述正コラム#4948(2011.8.23)
<赤露による支那侵略(その5)>(2011.11.13公開)
 「モスクワ孫文大学の講堂と食堂には、正面左右に孫文とレーニンの肖像画が掲げられ、「中ソ連合万歳!」、「中国革命成功万歳!」などのスローガンが中・露文併記で貼られていた。講堂のほうは、当初、両「国父」の肖像の間に「三民主義からレーニン主義へ」との大きなスローガンがあったとも伝えられている。・・・
 講堂の標語の方は、胡漢民に「レーニン主義から三民主義へ」と逆にすべきだと批判され、後に撤去されたという。
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<脚注:胡漢民>
 胡漢民(Hu Hanmin。1880~36年)。「1902年<に>・・・日本に留学し、弘文学院師範科で学ぶ。しかし、<支那人の友人>が日本政府と清国公使により日本から追い返される事件が発生し、胡は怒って退学、帰国した。<しかし、>・・・1904年・・・に再び日本へ留学し、法政大学速成法政科で学んだ。
 翌1905年・・・秋、孫文・・・が中国革命同盟会(まもなく中国同盟会と改名)を成立させると、・・・これに加入している。・・・1907年・・・春、孫が日本から国外追放されると、胡もこれに同行し、両広起義に加担している。起義失敗後、・・・1909年・・・10月、香港で成立した同盟会南方支部で支部長に任ぜられた。
 1911年・・・10月、武昌起義(辛亥革命)が勃発する。胡漢民は広東の革命派蜂起を指導して、11月・・・に広東の独立を宣布し、都督に推戴された。翌1912年・・・1月、南京臨時政府が成立すると、臨時大総統孫文を補佐する大総統秘書長に任ぜられる。袁世凱が孫から譲られて臨時大総統となった後の4月、胡は広東に戻り都督専任となった。8月、<自由民主主義者の>宋教仁<(コラム#234、2098、2100)>が同盟会を基に<孫文を名目的党首とする>国民党を結成すると、胡は広東支部長となる。
 1913年・・・3月、宋教仁が袁世凱の刺客に暗殺されると、胡漢民は反発の姿勢をとったが、6月には広東都督<を>罷免されてしまう・・・。そのため、胡は第二革命(二次革命)に大きな関与をなすこともできず、これに失敗した孫とともに日本へ亡命した。翌1914年・・・7月、東京で中華革命党が成立すると、胡は同党政治部長に任ぜられている。1916年・・・4月、密かに帰国し、・・・反袁活動に与した。
 1917年・・・9月、孫文が護法運動を開始し、広州で護法軍政府(大元帥府)が成立すると、胡漢民は交通部長に任命された。しかし翌年5月に護法軍政府が・・・集団指導制に改組され、・・・孫<は>実権を奪<われたので、>孫や胡は怒って上海に去った。・・・1921年5月、孫が非常大総統となると、胡は総参議に任ぜられた。
 1924年1月、中国国民党<(上出の「国民党」の後継政党ではない(太田))>が結成されると、胡漢民は中央執行委員会委員に選出された。9月、孫文が北伐を開始すると、胡は広東の留守をつとめて大元帥の職権を代行し、広東省長を兼ねている。・・・
 1925年・・・3月、孫文が死去すると、胡漢民は大元帥代理としての職務をとることになる。以後、胡は反共右派の立場を明らかにし始め、国民党右派の西山会議派には直接参加しなかったものの、中国共産党粛清の提案を開始するようになる。ところがその矢先の8月・・・に、<中国国民党の>容共左派の指導者・・・が暗殺されてしまった。胡は首謀者と疑われて失脚し、9月からソビエト連邦へ赴くことになる。1926年・・・4月末に胡はようやく帰国したが、しばらくは表立った活動を控えることになった。
 翌1927年・・・4月、蒋介石が上海クーデター(四・一二事件)を起こし、汪兆銘(汪精衛)らの武漢国民政府に対抗して南京国民政府を樹立すると、胡漢民はこれに協力する形で復帰し、<他の3名>と共に南京国民政府常務委員の地位についた。<中国>国民党においても、中央政治会議主席、中央執行委員会常務委員兼宣伝部長、中央軍事委員会常務委員などの要職を得ている。さらに『訓政綱領』と『国民政府組織法』の制定を主導し、1928年・・・10月にこれらを公布した。これらに基づいて蒋は国民政府主席に、胡は立法院長にそれぞれ就任している。
 <しかし、>蒋介石が次第に軍・党で強力な権限を掌握していくと、次第に胡漢民はこれに反発<し>始める。・・・ついに業を煮やした蒋介石は、1931年・・・2月・・・に胡を立法院長から解任・・・軟禁する挙に出る。・・・結局、蒋介石は10月・・・に胡漢民を釈放<するとともに、>国民政府主席を辞任、下野<する。>・・・<そして胡漢民は、>1935年・・・12月、<中国>国民党・・・中央執行委員に<改めて>選出されている。
 1936年・・・5月・・・、胡漢民は広州にて脳溢血のため急死した。享年・・・満56歳・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E6%BC%A2%E6%B0%91
               
<脚注:三民主義>
 三民主義(Three Principles of the People=Three People’s Principles=San-min Doctrine)の形成は、「1905年に中国同盟会が創設されたときに「韃虜の駆除・中華の回復・民国の建立・地権の平均」の「四綱」が綱領として採択され、孫文はこれを民族(韃虜の駆除・中華の回復)・民権(民国の建立)・民生(地権の平均)の三大主義と位置づけた。そして1906年に「四綱」を「三民主義」へと改めた。1924年1月から8月まで、孫文は16回にわたって三民主義の講演をおこない、民生主義の部分が孫文の病死によって未完のままに終わったが、講演内容は『三民主義』にまとめられ出版された」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B0%91%E4%B8%BB%E7%BE%A9
というものだ。
 三民主義は、孫文が、漢人として身に付けていた常識レベルの儒教と彼が米国や香港滞在中にききかじった欧米の政治思想とを混淆させたところの、様々な解釈が可能な、およそ「思想」の名に値しないところの、政治的スローガンを列挙したものに毛が生えた程度の代物である、というのが私の見解だ。
 英語ウィキペディア
http://en.wikipedia.org/wiki/Three_Principles_of_the_People
は、蒋介石の中国国民党、中国共産党、そして汪兆銘政権のそれぞれの三民主義解釈を説明しているところ、それぞれ、ファシスト的、共産主義的、自由民主主義的解釈と言ってよかろう。
 孫文自身は、晩年、共産主義的解釈をとるに至っていた、と考えられる。
 また、現在の台湾でとられているのは最後の解釈である、ということになる。
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→胡漢民は、彼と同じ日本留学組たる急進的自由民主主義者の宋教仁(1882~1913年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E6%95%99%E4%BB%81
に協力する一方で、左の共産主義にも右の蒋介石(ファシズム)にも反対したことからも分かるように、一貫して急進的自由民主主義者であることを貫いた人物です。
 しかし、以前に(コラム#234で)記したように、明治維新直後の日本以上に、当時の支那においては、自由民主主義の即時実現など夢物語に等しく、従って袁世凱の追求した帝政復活か、汪兆銘が追求することとなる日本との提携路線しかありえなかった激動の支那において、こんな胡漢民が、(いささか早かったとはいえ、)自然死を迎えることができたのは不幸中の幸いでした。
 孫文大学を訪問した時、胡漢民が、あのような批判をした理由は、彼は三民主義を自由民主主義的に解釈していたのでしょうが、よく分かりますね。(太田)
(続く)