太田述正コラム#0049(2002.7.21)
<米国憲法第一条第八節第11項(追補)>
前に米国憲法第一条第八節第11項をとりあげました(コラム#41)。この関連でワシントン・ポスト紙の面白い記事を目にしたので、その要旨をご紹介します。(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A34812-2002Jul19.html。7月20日アクセス)
独立戦争当時の1779年9月、英国の東北沿岸のフラムボロー・ヘッド沖のフィレー湾で二隻
の英国海軍部隊と七隻の英領北米植民地の私掠船団との間で海戦が行われ、英国海軍は屈辱的な敗北を喫した。
英国海軍部隊の旗艦はHMSセラピス、植民地側の船団の「旗艦」は、船団の「司令官」ジョン
・ ポール・ジョーンズ「准将」の持船のボンノム・リチャードだった。(Bonhomme Richard。
Richardとは、"Poor Richard’s Almanac."の著者であるベンジャミン・フランクリンのこと。Bonhommeとは、「良い人」という意味のフランス語。この武装船は、独立戦争勃発後、フランス政府からジョーンズに供与されたので、フランス語を用いたと思われる。)
戦闘の経緯は次の通り。
英国の商船を掠奪しようと追いかけ回していたジョーンズの船団は、9月23日、上記英軍部
隊に発見され、戦闘が始まった。開戦後の最初の相互砲撃の結果、セラピスによってボンノム・
リチャードの42門の砲の約半分が破壊され、乗員にも多数の死傷者が出た。そこで、英軍側はジョーンズに降伏を勧告した。ところが、ジョーンズは、「まだ戦いは始まっていない」と答え、ボンノム・リチャードをセラピスに横付けし、乗員とともにセラピスに飛び乗って戦い、やがて、セラピス側は降伏した。しかし、砲撃の結果、大きな損害を受けていたボンノム・リチャードは、その四日後にフィレー湾の底に沈没した。
ジョーンズは、スコットランド人の庭師の息子として英国に生まれ、後に北米バージニアに移
住し、商船乗組員になった。1776年に米国独立宣言が発せられると、彼は植民地側に立って戦うことを決意し、武装船を植民地側に供与する意向を示したフランスに派遣され、フランス政府から供与された武装船7隻を受け取り、そのまま英国のヨークシャー沿岸で私掠活動に従事した。
上記海戦における植民地側の勝利は、北米大陸で戦っていた植民地軍を大いに勇気づけ、ジョーンズは北米植民地、すなわち米国にとって、最初の海軍のヒーローとなった。
ジョーンズは、拿捕したセラピスを新しい旗艦とし、フランスに戻り、セラピスをそこで改修した。そしてジョーンズは、フランス政府によってレジオン・ド・ヌール勲章を授与され、再び対英私掠活動に復帰した。
独立戦争終了後、ジョーンズは、エカテリーナ女帝当時のロシア海軍に入り、提督となった。やがてパリに戻ったジョーンズは、そこで1792年に逝去した。享年45歳。
1905年に至って、ようやくジョーンズの墓がパリで発見され、セオドア・ローズベルト大統領はその棺を四隻の巡洋艦を仕立てて本国に移送し、チェサピーク湾内では更に7隻の戦艦を随走させた。
今日、ジョーンズの遺骸は、アナポリスの米海軍兵学校の礼拝堂に安置されている。
そして四年前、ボンノム・リチャードの残骸がフィレー湾底で発見された。最近、残骸の中のお宝探しをしようとするグループが現れ、英国政府は、残骸の現状保全を命じた。米国政府は、残骸の引き上げ、本国移送を検討中という。(以上)
米国憲法第一条第八節第11項の由来がよく分かりますね。
それともう一つ。米国でもまさにそうであったように、アングロサクソンでは私掠船が海軍の
起源だとすれば、アングロサクソンが海上作戦において商船攻撃を重視することは、ごく自然なことでしょう。まさに、第一次世界大戦の時のドイツは、このアングロサクソン流のお株を奪って、潜水艦による商船攻撃に海軍の作戦の重点を置きました。それに比べて、旧日本帝国海軍は、潜水艦を連合国の商船や補給艦艇の攻撃に用いようとせず、また、自らの商船隊の護衛にも殆ど無頓着であったことは、敵について余りにも無知であったと言われてもいたしかたないでしょう。