太田述正コラム#4956(2011.8.27)
<戦間期日英関係の軌跡(その3)>(2011.11.17公開)
「アメリカが日英同盟を嫌悪していることは知られていた。・・・アメリカは共和国である中国に同情的で、日英同盟が日本の大陸進出を容認する役割しか果たさなくなっていると考えていた。また、海軍問題も重要であった。日英同盟はアメリカを標的としたものではなかったが、仮に日英両国の海軍が協力することになれば、アメリカにとってすら脅威となり得たのである。」(25頁)
→このような重要な記述に一切典拠が付されていないことに呆れます。
米国の、その人種主義に由来するところの、北東アジア覇権国たる日本に対する反感や、在支米国人宣教師達の反日感情の米本国への影響、等に言及がないことに違和感を覚えますし、後藤の記す、同じ共和国である(共和国になった)から米国は支那に同情的だった、というのは余り耳にしない話であり、少なくともここには典拠を付して欲しかったところです。(太田)
「日英同盟に対し賛否両論があったとはいえ、やはり、この時期のイギリスにとって何にもまして重要だったのは、圧倒的な経済力を誇るアメリカとの友好関係であった。確かに、ウィルソンの提案した国際連盟に、上院のヴェルサイユ条約批准拒否によってアメリカが参加しなかったことを、裏切り行為のように受け止める者もイギリスにはいた。イギリスは連盟自体への期待よりも、主としてアメリカとの良好な関係を考えて参加を決意していたからである。また、植民地支配に対するアメリカの姿勢もイギリス政府をいら立たせていた。しかし、第一次世界大戦は繁栄を誇ってきたイギリス経済に大きな打撃を与えていた。イギリスはアメリカからの借金に頼って戦争を遂行し、1914年から19年の間にイギリスが負う債務は、11倍に増大していた。1921年当時、イギリスは、大戦中の債権をアメリカが放棄することを期待していたのである。もちろん、アメリカが放棄すれば、イギリス自身もヨーロッパの連合国に対して持つ債権を放棄するつもりであった。1922年、実際にイギリスは連合国間での戦債の相殺を提案するが、これはアメリカには受け入れられなかった。一方、逆にもしアメリカとの関係が悪化して建艦競争となれば、イギリスの国家財政が破綻することは目に見えており、アメリカとの戦争は全く不可能となっていた。カーズンなど帝国を重視した政治家は、巨額の対米債務、アメリカの建艦計画などを大いに危惧していたのである。首相ロイド=ジョージも、アメリカとの何らかの合意に達することを最重視していた。
これらの思惑の結果、日英同盟に関しては、それをいかにしてアメリカも加えた取り決めとするかがイギリスの関心事となった。1921年7月、英米両国が東アジアと太平洋の問題を話し合うための会議開催を検討した時にも、イギリスは、同盟相手である日本よりもまずアメリカと意見を交わすことを選び、駐英中国公使の顧維釣にも計画を伝えた。そして、この姿勢は、日英同盟3か月延長問題をめぐって生まれていた日本のイギリスに対する不信をさらに強める結果ともなった。」(29~30頁)
→上掲のうちの長い第一段落については、その終わりに典拠が一つ付けられているだけであり、果たして、この段落がその典拠の忠実な要約なのかどうか、心もとない限りです。
また、債権問題は、敗戦国ドイツに課す賠償金問題とコインの表裏の関係にある
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%B3%A0%E5%84%9F
というのに、明示的に賠償金問題に言及することなく、いきなり「戦債の相殺」と記されても、それだけで後藤の言わんとするところを普通の読者に理解させるのは、およそ無理な算段です。
結局、この本は、学術論文としては、冗長であるだけでなく典拠の付け方一つとっても出来が悪いし、一般読者向けだとすれば、不親切極まりない、という誹りを免れません。
ただただ、国からおりる研究費を使い切るために、この本を出したのではないか、と勘繰りたくなってしまいます。
さて、第一次世界大戦(1914年7月~18年11月)を日英米(とフランス)が、手を携えて独墺と戦い、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
また、同じ諸国が手を携えて1920年6月までロシア干渉戦争(Siberian Intervention=シベリア出兵)で生誕したばかりの赤露と戦った・・ただし、日本は1922年10月までロシアから撤兵しなかった・・
http://en.wikipedia.org/wiki/Siberian_Intervention
というのに、英米間ないしは同盟関係にあった英日と米国間が、1921年当時、軍拡競争がいつ始まってもおかしくないほどの緊張関係にあった、という事実に注目すべきでしょう。
(その背景にも、後藤は触れるべきでした。)
このような状況下で、英国は、その相対的国力低下を踏まえ、世界覇権国からの漸進的撤退、とりわけ、白人植民地以外の植民地の漸進的独立、東アジア覇権の日本への漸進的禅譲、という方策を打ち出すべきだったのに、中東で新たな保護国をいくつも獲得する(コラム#4955)、といった逆コース的愚行を演じ、あまつさえ、英国は、米国にすり寄り、米国の意向に従って日本を切り捨て、日英同盟を終焉させる、という致命的ミスを犯すわけです。
この英国に輪をかけて愚かだったのが米国です。
自分が提案した国際連盟に結局加盟しなかっただけでなく、戦時債権の放棄ないし相殺に同意しないことでドイツを追い詰め、日英同盟を解消させたことでアジアにおける安定化の枠組みを破壊して日本を孤立させ、もって大戦の再発をもたらす結果を招来したからです。
せめて英国は、世界覇権国としての最後の矜持を奮い立たせ、1919年6月28日の国際連盟規約への創設諸国の調印と、翌1920年1月16日の国際連盟の発足
http://en.wikipedia.org/wiki/League_of_Nations
までの間に、米国の国際連盟加盟がなくなったことがはっきりした時点で、米国の背信行為と米国抜きの国際連盟の実効性への懸念を理由に日英同盟の堅持方針を樹立すべきだったのです。(太田)
(続く)
戦間期日英関係の軌跡(その3)
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