太田述正コラム#0050(2002.7.22)
<本居宣長>
本コラムの一読者から、本居宣長(1730-1801)は面白いというお話をうかがって、大学時代に買って本棚に放り込んであった「うひ山ふみ 鈴屋答問録」(岩波文庫。「うひ山ふみ」=「初山踏」=「入門」)と「秘本玉くしげ」(「近代日本の名著2 先駆者の思想」(徳間書店1966年)に収録)を埃を払って取り出し、読み返してみました。このほか、日本古典文学愛好家の菊地孝仁氏のサイトで、同氏ご推奨の「紫文要領」(紫式部論)や「石上私淑言」(いそのかみのささめごと。和歌論)にも目を通してみました。
(http://homepage2.nifty.com/kotenmura/norinaga/norinaga-top.html。7月19日アクセス。)
私の印象に残った箇所は次のとおりです。(なお、読んだ五編中、最後の二編からは引用していません。また、現代仮名遣いに改めました。)
「学者はただ、道を尋ねて明らめ・・て、そのむねを、人にもおしえさとし、物にも書遺しおきて、たとい五百年千年の後にもあれ、時至りて、上にこれを用い行い給いて、天下にしきほどこし給わん世をまつべし。これ宣長が志也。」(「うひ山ふみ」文庫29-30頁)
これは、宣長の自信と決意の披瀝ですね。現在の日本には、政府におもねる人文・社会科学系の御用学者は沢山いますが、宣長のような心構えの学者は少ないのではないでしょうか。
「すべて神の道は、儒佛などの道の、善悪是非をこちたくさだせるようなる理屈は、露ばかりもなく、ただゆたかにおおらかに、雅たる物にて、歌のおもむきぞよくこれにかなえりける。」(同上45頁)、「或は此天地の道理はかようかようなる物ぞ、人の生るるはかようかようの道理ぞ、死ぬればかようかようになる物ぞなどと、実は知れぬことをさまざまに論じて、己が心々にかたよりて、安心をたて候は、皆外国の儒佛などのさかしらごとにて、畢竟は無益の空論に候。凡てさようのことは、みな実は人の智を以てはかり知べきことにはあらず候」(「鈴屋答問録」文庫86-87頁)
宣長の宗教・イデオロギー批判です。既成の宗教・イデオロギーの思考枠組みをとっぱらって、自分自身の目で素直に物事を見よ、これが日本人の本来の物の見方だ、と言っているわけです。
「御国にては人のみにあらず、龍雷のたぐい、或は虎狼などの類いにても、凡て神霊あるもの、又畏る可きをば、直に其物を指てかみと云。」(同上105頁)、「皇統の動きたまはぬを本として、其外にも他国にまされることの多きぞ、天照大神の御本国のしるしにして、他に異なる也。」(同上118頁)
ここは日本論です。現在のわれわれにとってはあたりまえのことですが、200年以上前に、市井の一町人学者たる宣長が、これらをさらっと口にしたことに敬意を表したいですね。
「天地は一枚なれば、皇国も、漢国も、天竺も、其余の国々も、皆同一天地の内にして、皇国の天地、漢国の天地、天竺の天地と別々にあるものには非ず。然れば其天地の始まりは、萬国の天地の始まり也。然れば、古事記、日本紀に記されたる天地の始まりのさまは、萬国の天地の始まりさまにあらずや。」(同上127-128頁)
「世々の物知り人たち・・神典を私にさまざまと、あらぬさまに説曲げ、天地の始まりの神たちをも、日神をも、にほんばかりの神の如く説て、みずからの道を小く卑くなすは、いかなる心ぞや。・・神道者は、他国の説によりて、吾古典をとりさばく也。吾は吾古典によりて、他国の説をとりさばく也といえり。」(同上133頁)
宣長は、日本が特殊だと自己卑下する通弊をなげうち、日本の中に普遍に通じるものを発見し、世界に向かって発信せよと言っているのです。
「今日眼前の利益を思わば、まずその根本を正さずにあるべからず」(「秘本玉くしげ」徳間書店228頁)
「百姓町人大勢徒党して強訴濫放・・の起こるを考うるに、後にいずれも下の非はなくして、みな上の非なるより起これり。」(同上236頁)
ここは、鋭い体制批判であり、宣長の没後三分の二世紀後に起こった明治維新を先取りしていると言ってもいいでしょう。
「惣じて、古より唐土の風俗として、何事によらず、ふるきによることをばたっとばず、ただ己が私智をもって考えて、萬のことを改め変えて、功を立てんとするならわしなり。これはただ己が才智を恃みて、まことの道を知らざるものなり。ゆえに、その考えたるところの議論理屈は、いかほどもっともにて的当したるように聞こえても、実事になりてはその議論のごとくには行われず、思いのほか失あるは、まことの道理にかなわざるところあるがゆえなり。」(同上230頁)、
宣長の中国論です。20世紀後半に毛沢東率いる中華人民共和国で中国人民に降りかかることとなる災厄を予言したかのような斬新な指摘ですね。
読者のみなさんの宣長論もお聞かせ下さい。