太田述正コラム#4970(2011.9.3)
<戦間期日英関係の軌跡(その11)>(2011.11.24公開)
「1927年3月21日、国民革命軍の接近に呼応して上海の労働者は蜂起し、24日にかけてのゼネストによって鉄道、市電、電話、電気、水道、すべてが止まった。ストの呼びかけがなされるや共同租界当局は戒厳令を布告し、鉄道、市電、電話、電気、水道、すべてが止まった。ストの呼びかけがなされるや共同租界当局は戒厳令を布告し、列強に陸戦隊を上陸させるよう要請した。22日夕方までに国民革命軍は上海市の中国人地域を占拠した。しかし、共同租界やフランス租界が国民革命軍に攻撃されることはなかった。イギリスはこれを、上海防衛のためのイギリス軍派遣による抑止効果が発揮されたものと考えた。
一方、日本陸軍は、中国の国権回復運動が共産主義そのものより重大な問題となる可能性を危惧し始めていた。参謀本部は国民党の親日的態度が一時的なものにすぎず、イギリスを中国から撤退させるという目的を達成すれば必ず日本を攻撃してくると観察していた。22日、東京駐在の外国人武漢を招待しての晩餐会で宇垣陸相はティリーに「租界の存在を脅かすような深刻な事態」が起こった場合には、日本陸軍は傍観したままイギリスだけを戦わせるようなことはしないと語っていた。」(113~114頁)
→「一方・・・観察していた」のくだりについては、末尾に典拠として参謀本部作成文書があげられていますが、帝国陸軍が、当時、赤露によって支那ナショナリズムが煽り立てられ、それが列強を分断する形で活用されている、という認識を持っていなかったはずがありません。
後藤は、「日本陸軍は、中国の国権回復運動が共産主義そのものより重大な問題となる可能性を危惧し始めていた」、つまり、帝国陸軍が支那ナショナリズムと赤露とを別個のものと見始めていたという点について、典拠の文言を直接引用する形で叙述していないところ、これは後藤の勝手な思い込みではないかと思います。(太田)
「3月24日、国民革命軍は南京に入城した。この時、外国人およびその財産が国民革命軍の制服制帽を着用した兵士に襲撃、没収略奪される、という一連の事件が起こった。<(注28)>いわゆる(第一次)南京事件(コラム#4950)である。>
(注28)「日1人、英2人、米1人、伊1人、仏1人、丁1人の死者、2人の行方不明者が出た。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(1927%E5%B9%B4)
日本領事館も午前7時ごろに襲撃され、そこに避難していた日本人居留民は約150人の中国人兵士から暴行を受けた。日本の租界警察署長は腕を撃たれ、駐在武官は殴打された。数百人の中国人が一物をも残さぬほどの略奪を行い、暴行は4時間以上続いた。11時ごろに国民革命軍の士官が到着し、「党軍の方針は飽迄外僑を保護し、特に日本に対しては好意を有するに拘わらず、無智なる軍隊か斯かる暴力をなしたることは深く遺憾とするところ」であると謝罪し、日本人保護の告示を張り出したことで事態はようやく沈静化した。(注29)
(注29)下掲に、事件の際の日本領事館での乱暴狼藉ぶりが詳しく出ている。(児島襄著 『日中戦争1』 文春文庫61~63pより)
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=5&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=362
死者も出・・・、総領事が負傷した・・・イギリス<、それ>とアメリカ側では、軍艦が英米人の避難を援護して南京の場内を砲撃し始めた。この砲撃による中国人の犠牲者は約2000人に達するとも言われる。しかし、日本の軍艦は砲撃に参加しなかった。シベリア出兵の際に<1920年3月に>ニコラエフスクで日本人が殺害された<(コラム#3772、4578)>ことを伝え聞いていた南京の日本人居留民は、同様の事件の起こることを心配して領事館および海軍士官に砲撃をしないよう要請したのであった。
南京在留日本人は、25日、駆逐艦檜に避難した。避難間際に<国民革命軍の>第六軍第17師団長・・・が森岡正平南京領事を訪れ、避難民一同の面前において日本語で事件に対し遺憾の意を述べた。<彼>は略奪が「在南京共産党部員が悪兵を扇動案内」したことによって起こったもので、すぐに徹底的に取締りを行い、外交部を設置したら賠償交渉にも応じるとも述べた。
28日、南京在留日本人は領事に先導され、軍艦に乗船して上海に避難した。・・・
29日、森岡領事の<国民革命軍>制裁要求が矢田<上海総領事>を通して幣原に送られた。・・・
<しかし、>幣原は<この国民革命軍の師団長>の情報により、南京事件が蒋介石を難局に立たせ失脚させようとする共産派の陰謀であると考えた。したがって彼は、この陰謀に引き込まれないよう努力し、蒋介石らの穏健派に事件を解決させるべきだと判断していた。上海日本商業会議所は、揚子江本流流域一帯における日本人の引き揚げや相当長期にわたる防備が必要だから至急十分な陸軍力を派遣すること、イギリスやアメリカは共産主義者を敵視する点で方針が一致するから日本政府もできるだけ協調することを建議した。日本人の間に、幣原の「軟弱外交」を排除し、強硬な対中姿勢を確立することを欲する意見が生まれていた。」(114~115頁)
→幣原は、森岡領事の要請や現地の日本人達の声を無視したわけですが、幣原は、どうして「士官」が「日本に対しては好意を有する」などという発言をしたのか、どうしてわざわざ日本語のできる師団長が謝罪にやってきたのか、といったことから、国民革命軍が、赤露の意向に沿って、日英の離間を図っている、と感じなかったのでしょうか。(太田)
「イギリス政府<から>・・・ティリー<駐日英大使>に送られた指示は次のようであった。すなわち、南京事件は「共産主義活動の第一段階にすぎず、中国におけるイギリスの地位の土台を崩すや、その力を他の外国人全員にそそぐだろう」し、日本の順番も確実に到来するから「両国政府が密接に協力して行動することはお互いのためである」と強調するようにとのことだった。
この指示を受け、ティリーは4月2日、幣原を訪れた。幣原は、日本としては、中国人全体を敵に回し貿易を損なう長期軍事占領のような手段を考えることはできない、とティリーに伝えた。ティリーが、中国人が時局を収拾できず中国全土に共産主義の広がる可能性に言及しても、幣原は「列国は寧ろ之を放任」してその結果を待つほかない、と語った。幣原は、国民党が穏健派と、南京事件の責任を負うべき共産主義者に分けられると考えており、穏健派と考えられる蒋介石<等>との関係を強めるつもりであった。・・・
一方、不安の生まれていた北京や天津の防衛に関してイギリス外務省は、4月13日、ティリーと駐米イギリス大使・・・に電報を送り、日米両国政府の「応分の負担」を要請するよう指示した。・・・
15日、本国の訓令に基づき、ティリー・・・は出淵<勝次(注30)外務事務>次官と会談し、日本が華北に2個師団を増派するよう要請した。・・・
(注30)1878~1947年。「旧制東京高等商業学校(一橋大学の前身)卒業。・・・外務省入省・・・1924年外務次官に就任し満4年務める、・・・1928年駐アメリカ合衆国特命全権大使に就任し満6年務める・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E6%B7%B5%E5%8B%9D%E6%AC%A1
4月16日<に開催された>外務省、陸軍省、参謀本部の係官<の>会議<で、>・・・外務省<は出兵しない方針を表明したが、>この意見に対して陸軍も強い反対意見を唱えることはなかった。
幣原外相は、日英協調が事態を一層紛糾させるだけだという意見であった。・・・アメリカも・・・仮に1900年の義和団戦争のような事態が北京と天津で再発しそうならば、公使館とアメリカ国民を避難させる方が良い、とイギリスに回答した。・・・
チェンバレンは・・・すでに4月11日、・・・ランプソン<駐支公使>にあて次のように書いていた。
日本の政策は理解しがたい。東京の政府は依然として、中国人は日本とイギリスを分け、我々を攻撃する一方で日本を放っておく、と考えているように思われる。・・・
ティリーは、日本が中国で「外国貿易と影響力の独占」を望み、「欧州諸国が困難な状況にあるのを見てもあまり気の毒には思わない」と不満を述べた。・・・
ただし、・・・この時期日本は経済的利益をあげることができておらず、その面からも幣原の不干渉政策の魅力は乏しくなっていた。・・・
<結局、本件で英国に回答しないまま(?)、>4月17日、若槻内閣が総辞職し幣原<は>外相の職を去った・・・。」(116~121頁)
→幣原外交は、その論理に照らしても既に破綻してたのに対し、この時点で、英国政府の判断はまことに的確なものでした。同じ考えを持っていた帝国陸軍も、外交権の独立(コラム#4792)の主体の外務省を、この時点では、まだ、たてていたわけですが、その結果煮え湯を飲まされ続けたため、次第に外務省を疎んじ軽んじて行くことになります。
この時幣原のイエスマンで終始した出淵の責任も重大です。
ところで、「4月6日には張作霖によりソ連大使館を目的とした各国公使館区域の捜索が行われ、ソ連人23人を含む74人が逮捕された。<そして、>押収された極秘文書の中に次のような内容の「訓令」があったと・・・発表<され>た。その内容とは、外国の干渉を招くための掠奪・惨殺の実行の指令、短時間に軍隊を派遣できる日本を各国から隔離すること、在留日本人への危害を控えること、排外宣伝は反英運動を建前とすべきであるというものである。」(ウィキペディア前掲。典拠は(児島 前掲p.83となっている。)という重大な話に、後藤は全く触れていません。後藤がこの発表内容の信憑性に疑念を抱いていたとしても、不親切極まりないものがあります。(太田)
(続く)
戦間期日英関係の軌跡(その11)
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