太田述正コラム#4972(2011.9.4)
<戦間期日英関係の軌跡(その12)>(2011.11.25公開)
「<1927年>4月20日、政友会総裁の田中義一<(コラム#214、1820、4274、4504、4506、4532、4534、4610、4614、4627、4645、4649、4669、4671、4679、4944)>が首相に就任し、外相も兼任した。ティリー<英>駐日大使も、ランプソン<英駐支大使も>同様に幣原の方策を評価しておらず、それまで批判的な報告を本省に送っていた。しかし、田中新外相が英語もフランス語も話さず、常に通訳を使うつもりだと知ったとき、ティリーは「ぞっとした」。ティリーは通訳を介することが嫌いで、ヨーロッパの数か国語と、トルコ語を少し理解した。しかし、日本語に関しては、50歳半ばの着任だったこともあり、ごく簡単なあいさつ以上を習得しようとする努力を放棄していた。ティリーも大使館員も「完璧な英語を話<す>・・・」幣原が外相の職を去るのを嘆くこととなった。」(121~122頁)
→以前(コラム#4945で)XXXXさんが指摘していたように、ティリーの側にも問題があったことは間違いないと思いますが、ここは、田中の方がより責められるべきでしょう。
日本が列強の一角を占め、かつ支那情勢が緊迫化していた時代にあって、多忙を極める首相が更に外相を兼務すること自体が無理というものです。
また、語学の問題ですが、年齢からして、ティリーが、十分な意思疎通ができるほどの日本語会話力を習得しようとしても無理だったはずです。(日本大好き人間となって事実上日本に骨を埋めるに至った、彼の前任のチャールス・エリオット大使でも、恐らく大同小異であったと思われます。)
日本語のできない人間を大使に就けていた英外務当局を咎めるわけにもいきません。
日本は急速に大国になったところ、その日本に勤務経験がある等で日本語ができた英外交官の数は極めて限られていたでしょうからね。
いずれにせよ、様々な機会に申し上げているように、通訳を介してでは、時間がかかるだけではなく、時に通訳ミスによる誤解が生じることが避けられませんし、そもそも、パーティー等の場を通じて個人的信頼関係を築くことも困難です。
田中が、元陸軍軍人として、(正しく)外交官あがりに「偏見」を持っていたであろうことは十二分に理解できますが、外相を兼務などせず、せめて、英語ができ、かつ田中が信頼できそうな人間を、日本中を金のわらじを履いてでも探して外相に就けるべきだったのです。
なお、外相たる田中が、幣原のイエスマンであった出淵外務事務次官を1年以上留任させた(満4年も次官を続けさせた!)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E6%B7%B5%E5%8B%9D%E6%AC%A1 前掲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82
ことにも問題があったと言えるでしょう。(太田)
「田中は幣原よりもイギリスとの協調に乗り気のようにも見えた。5月3日、ティリーとの初会見で田中は、・・・「日英同盟は形に於ては消滅したるも其の精神は今日も尚生存し居り」、両国の問題、ことに中国にかかわる問題に関しては互いに同盟の精神によって「忌憚なき意見」を交換しよう、と語った。」(123頁)
→このように、田中は幣原とは明らかに異なっていたところの、まともな国益観に根差した親英的な考えを抱いており、しかも後述するように、客観的に見て親英的な対支政策を行ったにもかかわらず、彼は、幣原によって毀損された英国との関係を修復することに失敗するのです。(太田)
「中国では4月12日、上海に入っていた蒋介石が共産主義者の武装解除を行った。いわゆる反共クーデター<(上海クーデター)(コラム#4504、4532、4936、4948、4950)>と呼ばれるものである。4月18日には南京国民政府が成立した。武漢国民政府は、その後まもなく、経済破綻から労働者、農民、配下の軍隊に対する指揮・統制能力を失っていった。さらに7月には、武漢の国民党左派と共産党が分裂し、ボロジンも帰国の途についた。9月、武漢国民政府は南京政府と合流した。」(123頁)
→赤露、すなわち、スターリンは、こんな蒋介石を、そして蒋介石の中国国民党政府を、決して見放さず、それから10年後の1937年に、スターリンが指示して中国共産党に中国国民党との再合作(コラム#178、187、4079、4498、4929、4950)を行わせ、最終的に、日本を支那から駆逐することに成功し、次いで赤露による支那侵略を成就させるわけです。
思えば、蒋介石は、スターリンの手のひらの上で転がされていたところの、スターリンの自覚なき手先であったわけです。(太田)
「一方、北伐は4月下旬に再開され、国民革命軍は山東省に接近した。イギリスは兵力2万5000の防衛軍が必要と見積もっていた<が、>・・・この時期のイギリスは、約1万6000の地上兵力に加え、巡洋艦3隻、空母2隻、駆逐艦20隻、掃海艇2隻などをはじめとする大規模な艦船を中国海域に展開していた。・・・<中国地域の陸海軍の先任指揮官で海軍部隊の指揮官は、香港の>サー・レジナルド・ティリット海軍大将(Admiral Sir Reginald Tyrwhitt)<(注31)であり、陸軍部隊の指揮官は、>上海<の>・・・ダンカン<陸軍>大将<だった。>・・・
5月24日の閣議では、国民革命軍と山東軍閥の衝突の結果、済南と青島を結ぶ地域が混乱に陥ると予想され、済南方面の居留民保護策を慎重に検討すべきだと言う意見が白川義則陸相から出された。27日の閣議では、済南地域に居住する約2000の日本人を守るため2000の兵士からなる軍隊を大連から青島に送ることが決定された。田中首相は青島総領事の矢田部保吉に打電し、日本は南京事件の再来を恐れているので居留民を保護するつもりだ、と中国当局に説明するよう指示した。28日、第一次山東出兵<(コラム#214、256、4504、4506、4510、4610、4671)>が実行された。」(124~125頁)
(注31)Admiral of the Fleet Sir Reginald Yorke Tyrwhitt, 1st Baronet。1870~1951年。水兵からのたたき上げ。1926~28年:海軍中将として東洋艦隊司令長官(Commander-in-Chief on the China Station)。その後英艦隊司令長官(Commander-in-Chief, The Nore)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Reginald_Tyrwhitt
なお、東洋艦隊と訳しているが、1831~65年はEast Indies and China Stationだったところ、1865年にEast Indies AtationとChina Stationに分かれ、1941年12月8日の日英開戦時に両者が再び統合されてEastern Fleetとなっている。
http://en.wikipedia.org/wiki/China_Station
http://en.wikipedia.org/wiki/Eastern_Fleet
→田中は、やるべきことをきちんとやったわけです。(太田)
(続く)
戦間期日英関係の軌跡(その12)
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