太田述正コラム#4976(2011.9.6)
<戦間期日英関係の軌跡(その13)>(2011.11.27公開)
「チェンバレン<英外相>はランプソン<駐支公使>に「日本が<支那>北部に軍隊を動かし、北京と天津の防衛に積極的な関心を示し始めたというのは素晴らしいことだ」と書き送った。イギリス外務省は日本の政策変化を大いに評価し、在日大使館に二つの指示を送った。第一に、チェンバレンが田中のメッセージをいかに「大きな安堵と信頼感」を持って受け取ったか、そして「田中の与えた情報と田中の率直で友好的な態度に非常に感謝している」、と田中に告げることである。また第二は、イギリスと日本を対立させて利益を得ようとする中国の「策略」を失敗させるよう両国は最善を尽くさねばならないと告げることだった。イギリス陸軍省も田中が日本の対中国政策にもたらした変化を心から歓迎した。『ノース・チナ・ヘラルド』紙は、華北の外国人社会がすべて心底安堵したと論じた。」(125頁)
→これで、どうして日英の関係修復につながらなかったのか、と思ってしまいますね。(太田)
「外国軍隊の派遣に対して、北京、南京、武漢のすべての政府が抗議をし、また、中国民衆の排外運動もおこった。6月6日、上海では総工会の指導のもと外国軍隊派遣に反対する市民代表大会が開かれた。10日までに、上海市国民党部はイギリスとの経済関係断絶とイギリス商品ボイコットを要求し、南京政府に政府事務局のイギリス品不買を迫ることを決定した。
上海市国民党部は排日運動もあおっていた。6月14日、・・・排日貨が採用され・・・18日、中国の新聞上には、決定に反して日本品を取り扱った者は木製の檻に入れてさらし者にするという警告が掲載された。・・・26日、対日経済絶交大同盟が上海で設立された。28日、上海国民党が日本品販売禁止令を発し・・・た。・・・
国民党は依然イギリスを中国の第一の敵と見なしていたので、事態は日本よりもイギリスにとっての方が深刻だった。その結果、・・・イギリス外務省は日本と<この>排外ボイコット・・・について芳沢<駐支公使>と話合うようランプソンに指示した。また、田中首相兼外相と話合うようティリーに指示した。・・・
<しかし、>12日、ランプソンは「・・・田中首相が中国での具体的な共同計画の作成に乗り気になるには、依然相当の情報提供や説得が必要だが、日本公使の話によると、彼はまだそれを田中に言及すらしていないというのである」と報告した。・・・<また、>極東部長マウンジー<に>は・・・英日両国を対立させて利益を得ようという中国の試みに日本が耐え続けられるとは、・・・考えられなかった。」(126~127頁)
→情報が田中のところにあがっていなかったのは、田中が忙しすぎるために、外務省の事務方が公信を絞って田中にあげていたのか、そもそも、出淵の英国との協調に消極的な姿勢を知っている芳沢が、この種公信を本省に送るのを自主規制していたのか、或いはその両方なのか、分かりませんが、私が指摘した問題がここにも象徴的に現れている、と思います。(太田)
「排日貨<について、>・・・この時期<在支>日本人は全般的にそれほど心配してはいなかったようである。・・・その理由は、第一に、この時期にはイギリスも軍隊を派遣していたために、日本は依然排外活動の唯一の標的ではなかったことである。第二に、列強は日本の姿勢の変化に好意的であった。第三に、排日貨の損害はそれほど深刻ではなかた。・・・そして最後に、・・・この時期、代償を支払わねばならなかったのは、日本人よりも、むしろ日本の商品を取り扱っていた中国人商人であった。排日貨は上海国民党が上海の中国人商人から寄付を搾り取る便利な道具としても使われていた。・・・
日本人外交官は排日貨が続くのはほんの二、三ヵ月であると信じ、実際にそれは予想されたとおりに終息したのであった。・・・
7月18日、南京政府は排外運動の規制を決め、翌19日に発せられた命令によって排外運動は下火となった。この命令が発せられた理由の一つは、中国人商人が深刻な損害を受けていたことだと観察された。さらに8月には、国民革命軍の進軍は孫伝芳<(注32)>に阻まれ、蒋介石総司令は山東省には進まないことを決めた。南京の国民政府は、敗北した蒋介石の支持継続をめぐって分裂し、蒋は総司令を退いて<(注33)>日本に赴いた。北伐は中断し、8月24日、田中内閣は撤兵を閣議決定した。・・・
(注32)Sun Chuan-fang。1885~1935年。「1904年・・・官費により日本へ軍事留学した。1908年・・・、陸軍士官学校第6期・・・。・・・1926年・・・7月、国民政府が北伐を開始し、呉佩孚への攻撃を開始した。孫伝芳は、・・・9月、呉を破った北伐軍を江西省で迎撃したが、敗北して南京に退却した。その後、奉天派との関係を改善して、11月に張宗昌と共に張作霖を安国軍総司令として擁立し、孫は副司令兼五省聯軍総司令となった。しかし・・・1927年・・・3月には、孫伝芳は南京を失陥する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E4%BC%9D%E8%8A%B3
ちなみに、張宗昌(Chang Tzung-chang。1881~1932年)は、「幼年期から青年期にかけては無頼漢として育つ。・・・<1925~28年、山東省を支配。>奉天派の他の軍人たちと同様に日本の後ろ盾を得ていたことなどもあって、・・・青島における日本の紡績工場で起きたストライキには大規模な弾圧を加えた。また、支配の過程でかき集めた大量の私財は、大連の日本資本の銀行に貯蓄していた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%AE%97%E6%98%8C
という、アナクロな人物。
(注33)「1927年・・・7月に汪兆銘は武漢政府と南京政府との合体を提案し、蒋介石も了承した。そして、同年9月に南京政府が武漢政府を取り込んで国民党政権の統一が成立した。このとき、武漢政府は・・・南京政府と合併してもいいが、共産党追い出しにはじまるこの混乱の責任をとって蒋介石は身を引くべきだと<要求した>・・・。この<要求>に応じた蒋介石は、1927年8月、政府と国民党のポストから身を引いた。」
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1921-30/1927_kokuminto_toitsu.html
なお、これは一つの説明に過ぎないのであって、後で、改めて蒋の下野の背景を追求してみたい。
イギリス<について>もまた・・・1927年10月に・・・インド軍はほとんどが中国を離れた。また、翌1928年1月までには、派遣軍全体の規模も4500人にまで縮小された。」(128~129、131~132頁)
→後藤の、蒋介石の下野についての説明は、余りにも舌足らずです。
とまれ、このように、華北における危機は一旦収まったわけですが、華北をにらんだ英軍の増強、削減と日本軍の派遣、撤兵とは、相互に何の調整もなしにバラバラに行われたわけです。
赤露の日英分断策に、日英両国、とりわけ日本側が、既にどれだけ乗ぜられていたのかがよく分かります。
なお、中国国民党が、既に相当腐敗していたことが垣間見えますね。(後藤の記述は舌足らずですが、要するに日貨を扱うのを黙認してやる代わりに賄賂を商人達からせしめた、ということでしょう。)(太田)
(続く)
戦間期日英関係の軌跡(その13)
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