太田述正コラム#4978(2011.9.7)
<戦間期日英関係の軌跡(その14)>(2011.11.28公開)
「1927年の夏、日本人が排日貨以上に気にしていたのは、<支那には関税自主権が認められておらず、しかも南京政府は正当な支那政府として認められていなかったにもかかわらず行われた、>同年9月1日以降関税を増徴<する>・・・という南京政府の宣言であった。南京政府はまた、日本の財界人が「不当」と見なすような種々の新税を課し始めた。7月19日、上海日本商業会議所は、日本政府がこの新政策への不満を南京政府に告げるよう要請した。7月26日、大日本紡績連合会もこの「不当課税」が排日運動とともに著しく日中貿易を阻害すると日本政府に請願した。
・・・7月19日、上海のイギリス商業会議所と中国協会委員会は関税問題解決のために少なくとも日米との協調を確保するようバートン<英駐上海総領事>に要請した。8月、大阪では、関西地域の商工会議所と有力な経済団体によって、対支商権擁護連盟が設立された。8月8日の会合には28の経済団体の代表役1000人が参加した。参加者は国民党の「横暴」な手段に反対し、列強、ことに日英の協調を唱えた。参加者の一人は、五・三0事件後の日本の態度を批判し、イギリスが「いじめられる」時に見ていただけであったから日本人は少し自己中心的であったとした。・・・
イギリスでは、海軍力を行使して南京を揚子江北岸から封鎖する可能性も議論されていた。・・・<そして、>日本には何か効果的な方策について提案があるか、日本はどのような行動を採ろうと考えているか、列強はどの程度抵抗すべきと考えるかについて尋ねた。・・・しかし、日本の回答は、強硬に抗議する以外にできることは何もないというものであった。・・・
この時には、8月末になって南京国民政府自体が関税自主権の行使を延期すると宣言し、問題は収束した。」(132~133頁)
→在支英国人達及び英国政府、並びに在支日本人達の日英協調を求める声に、ついに田中義一の日本政府は積極的に応えることなく時間が漫然と経過してしまったわけです。(太田)
「一時的に下野していた蒋介石は、来日中の1927年11月5日に田中義一と私的に会談した。そこで彼は、北伐に対する日本の理解と援助を求めた。<(注34)>・・・
蒋介石は1928年1月、権力の座に返り咲き、国民革命軍の指揮権を公式に回復した。蒋は4月7日、張作霖のもとに結集した北洋軍閥に対する攻撃を再開した。」(139頁)
(注34)「1927年8月1日に中国共産党が江西省南昌で武装蜂起<を起こす。いわゆる>南昌起義<である。>・・・後に中国共産党は8月1日を建軍記念日と<することになる。>・・・<しかし、>8月3日には国民党軍の包囲攻撃を受けて南昌を放棄し、」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%98%8C%E8%B5%B7%E7%BE%A9
「10月、<中国共産党>は、江西・湖南省境の井崗山に革命根拠地を建設し・・・た。」
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/p_nihonsi/episodo/201_250/234_01.htm
「松井・・・石根・・・参謀本部第二部長・・・は<国民革命軍>張群総参謀長に働きかけて、蒋の来日を促した。
田中首相もまた芳沢謙吉公使を通じて、・・・蒋を激励した。
蒋介石が・・・日本を訪れたのは、<1927年>9月28日のことである。
随行は張群・・・らわずか5名であった。・・・」
http://www.history.gr.jp/~koa_kan_non/tanaka_shankai.html
ちなみに、張群(Chang Chun。1889~1990年)は日本の陸士卒。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E7%BE%A4
8月12日に下野した蒋介石は、起死回生の計画を推進していた。4月以来、宋美齢との結婚を画策していたのだ。彼は、まず、宋靄齢(Soong Ai-ling。孔祥熙(H.H. Kung)の妻)・宋慶齢(Soong Ching-ling。孫文の未亡人)・宋美齢(Soong May-ling)の三姉妹中の長女である宋靄齢の同意を取り付けていた。(なお三姉妹の兄弟が宋子文(T. V. Soong)。)
蒋介石の狙いは三つあった。第一は、孫文の妻の妹と結婚することで、孫文の後継というイメージを支那で確立すること、第二は孔祥熙の財力を活用できるようになること、第三は、(赤露や日本に対抗するために、)孔家・・孔祥熙はキリスト教徒でエール大修士で英国のシェル石油がらみの利権を保有・・や宋家・・三姉妹+1の全員が米国留学・・の米英とのコネを利用できるようになること、だった。
蒋介石の訪日の最大の目的は、日本に逗留中であった三姉妹の母親に宋美齢との結婚の承諾を得ることと、(宋靄齢と)宋慶齢の前例に倣って日本で宋美齢と結婚式をあげることだった。
(しかし、日本での式については、日支関係の悪化を懸念していた、この母親の反対で実現せず、結局、上海の共同租界のホテルで12月1日、結婚式が行われた。なお、結婚にあたって、蒋は、最初の妻や複数いた愛人と別れ、宋美齢とその両親と同じキリスト教に改宗することを約束させられた。)
http://bevinalexander.com/china/09-chiang-advances-reds-retreat.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E7%A5%A5%E7%86%99
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E6%85%B6%E9%BD%A2
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E7%BE%8E%E9%BD%A2
「10月15日、青山の田中私邸で両者の会談が行われた。
この会談に参加したのは、日本側では森格<外務政務次官>と佐藤安之助、蒋側は張群が陪席した。(田崎末松著『評伝田中義一』568ページ)
この会談・・・の結論だけを述べると、田中の主張は、蒋のこのたびの下野の態度をたたえ、その将来性を高く評価して、
(1)この際、揚子江以南を掌握することに全力をそそぎ、北伐はあせるな。
(2)共産主義の蔓延を警戒し、防止せよ。
(3)この(1)(2)に対して日本は支援を惜しまない。
この3点であった。
蒋介石はもっぱら聞き役であったが、最終的に2人の間<で>合意したのは、国民改革が成功し、中国統一が成功したあかつきには、日本はこれを承認すること、これに対し国民政府は、満州に対する日本の地位と特殊権益を認めるということであった。(「知性」別冊第5号〔1956年〕鈴木貞一述『北伐と蒋・田中密約』)
蒋は・・・、帰国し<て>・・・上海に上陸した際、記者団との会見において次のように語っている。
「われわれは、満州における日本の政治的、経済的な利益を無視し得ない。また、日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。孫先生もこれを認めていたし、満州における日本の特殊的な地位に対し、考慮を払うことを保証していた」と。(・・・「知性」山浦貫一述『森格』)」
http://www.history.gr.jp/~koa_kan_non/tanaka_shankai.html 前掲
→蒋介石は、日本の北海軍閥(張作霖)支援政策を改めさせることに成功したわけですが、10年後にはこの田中・蒋「密約」の(2)を破り、1937年に中国共産党と再合作することになります。蒋介石は、客観的には、一貫して赤露の手先として行動した、と言われても致し方ないでしょう。
それにしても、当時の日本の関心がもっぱら対赤露戦略・・満州に対する日本のこだわりも、その手段としてだった・・にあったというのに、後藤が、蒋介石下野の理由(前出)や中国共産党の動き、更には田中・蒋「密約」、或いはまた、蒋の訪日の最大の目的・・蒋の日本から英米への乗り換えをも示唆している・・に全く触れないのは、まことにもって理解に苦しみます。(太田)
「イギリス権益の集中していた揚子江以南の地域で内戦状態が沈静化したため・・・1927年末にはイギリス人外交官の間で、日本の野心を不愉快に感じる意見が再び強くなっていた。もともとイギリスの既得権益保護のために対日協調が必要とされたのに、日本の野心が逆にその権益を侵食するかもしれないとの懸念が強まっていた。・・・
海関[Chinese Maritime Customs]は関税を徴収する中国の組織で、1854年に創設された。関税は、塩税と並ぶ中国中央政府の最も安定した財源で、外債償還にも当てられていた。そして海関の総責任者である総税務司[Inspector-General]には、・・・中国政府が自発的にイギリス人を任命してきた。・・・
1926年末、国民政府に続き、北京政府もワシントン付加税の徴収開始を決めた。しかし、総税務司サー・フランシス・アグレン(Sir Francis Aglen)<(注35)>は、どの政府によるものであれ、国際的に承認されていない税徴収に反対であった。彼は、国民政府との関係調整を試みたために、1927年1月31日、突然北京政府に解雇された。イギリスは、・・・諸列強の援助を<求め>た。中でも芳沢<駐支公使>が非常に協力的だったのでランプソンは・・・大連の海関で働いていた日本人の岸本廣吉<(注36)>を海関総書記{Chief Secretary}に任命した。・・・岸本も芳沢もランプソンが岸本を将来総税務司にすると約束したと考え・・・<ていた>。・・・
(注35)Sir Francis Arthur Aglen。1869~1932年。([]内を含め、下掲による。)
http://www.npg.org.uk/collections/search/person/mp79432/sir-francis-arthur-aglen (注36)国民政府は、岸本を、1934年12月に海関総書記から天津海関税務司に「左遷」している。({}内を含め、下掲による。)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00850601&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
「1937年の日中戦争勃発以降、全国的な海関業務を維持するのは次第に困難となり、1941年に太平洋戦争が勃発すると、・・・汪精衛政権は<英国人の>総税務司メイズを棄却(ママ)し、岸本廣吉が総税務司となりました。・・・日本人による海関は1945年に廃止されました。」
http://www.yushodo.co.jp/ypc/kaikan/unit67.html
しかし、・・・日本が中国において、よりいっそうの威信とより実質的な権力を求めたのに対し、イギリスはその既得権を何ら日本に譲るつもりはなかった。」(139~141頁)
→東アジアの地域的覇権を日本に禅譲することを拒み続けた英国を、ここでは責めるべきでしょう。(太田)
「ちなみに、アグレンの路線を継承する者として、1927年2月から1928年末まで海関税務司代行を務め、正式の総税務司に任命されることのないまま南京国民政府に解任されたアーサー・エドワーズ(Arthur Edwards)<(コラム#4685、4687、4730、4732)>は、1932年秋にロンドン在住のまま「満州国」政府の財政顧問に任命されることとなる。「満州国」とのつながりは、エドワーズの国民政府に対する不快感によって形成されたといえるであろう。エドワーズは、その後もロンドンの日本大使館での相談役として、日本にとってはイギリスとの数少ないパイプの一つとなっていくが、イギリス側からは次第に疑いの目で見られるようになっていった。」(141~142頁)
→英国の諜報関係史料がすべて公開の対象になっているのかどうかは詳らかにしませんが、私は、以前、(コラム#4687で)エドワーズ英国の対日スパイ説を唱えたところ、(後藤が拠っている1999年の英国人による論文等(166頁)からすると、)そうではなく、むしろ、英国政府側がエドワーズが日本の対英スパイではないかと疑っていたことになりそうです。
いずれにせよ、こんなうさんくさいエドワーズを顧問として重用し続けた、日本の歴代の駐英大使の責任は免れないでしょう。(太田)
(続く)
戦間期日英関係の軌跡(その14)
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