太田述正コラム#4996(2011.9.16)
<戦間期日本人の対独意識(その5)>(2011.12.7公開)
 「防共協定に対する『読売』の批判的態度は、注目を浴び高く評価された・・・。
 ・・・協定成立から二日後、ナチスが芸術批評を禁止したというニュースを同盟通信が配信した。『読売』はこれを、白目をむいたヒトラーが<ユダヤ人詩人の>ハイネ像に鉄槌を下している漫画を添えて、4段抜きの見出しで大きく報じた。この時期、ヒトラーを描いた漫画は掲載しないように内務省から新聞各社へ何度も注意がなされていたのだが(<後>で詳述)、それでもあえて載せたところに、『読売』の反ナチス姿勢をみることができよう。
 同紙はナチスの芸術批評禁止問題を、社説でも取り上げている。ナチスがかかる政策を採らざるを得ないのは、ドイツ内部が「決して統一的であり、平和であり、ナチス謳歌であると言ひ得ない証拠である」との見解を示し、批判的立場を明確にしたのである。他方、『東朝』『東日』ではベタ記事(1段見出し)扱いであり、識者に批判させるに留っている。
 以上の如く、『読売』が批判的スタンスを強く打ち出したのに比べれば、『東朝』『東日』は及び腰であったと言わざるを得ない。・・・協定に批判的であったかの如く記述する両紙の社史は、不適切ではないだろうか。・・・
 この姿勢の差はどこから来たのだろうか。その理由として考えられるのは、当時『読売』には左翼的人材が多かったことである。満州事変以後に急成長した『読売』は、『東朝』『東日』に比べると人材が不足気味であった。これを解消するため、多少思想的に難ありとされた人物でも、実力があれば積極的に登用したといわれている。・・・<ちなみに、>このことが、終戦後の大争議を招く一因となる。・・・この時期の左翼人は、ほぼ例外なく反ナチスであったし、当然「防共」協定にも反対であった。
 とりわけ、外報部長・鈴木東民<(注10)>の存在が大きかったであろう。鈴木は在独8年のジャーナリストで、極端な反ナチ主義者であった。そのせいか、ドイツ人の夫人はナチスに全財産を没収されたという。ナチス批判の記事が高橋雄豺<(注11)>主筆の目に留まって1935年に入社し、翌年から外報部長となった。・・・
 (注10)1895~1979年。「東京帝国大学経済学部を卒業後、・・・大阪朝日新聞に入ったが、日本電報通信社 (電通の前身) の海外留学生募集に応じ、1926年・・・同社のベルリン特派員として渡独。帰国後、1935年・・・に読売新聞社へ移り、・・・外報部長兼編集委員を務めた。反ナチスの論陣を張り、当時の駐日ドイツ大使オイゲン・オットから危険視され休職。郷里岩手県に帰郷した。
 第二次世界大戦の終戦と同時に上京して読売新聞社に復帰。社内改革を目指して正力松太郎社長など幹部の退陣を要求したが、反撃を受け解雇されたため従業員組合を結成し、組合長として第1次読売争議を指導。この後正力がA級戦犯容疑者に指名され、巣鴨拘置所に収監されたため、鈴木の解雇は撤回された。
 読売新聞編集局長に就任したが、1946年・・・6月にGHQの勧告により再び解雇、第2次読売争議を指導したが敗北した。
 その後、自由懇話会理事長や民主主義擁護同盟常任委員を務め、1955年・・・に釜石市長に当選、1967年・・・まで3期務めた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E6%9D%B1%E6%B0%91
 (注11)たかはしゆうさい。1889~1979年。旧制中学卒。警視庁巡査になってから内務省に転じ、在職中に高等文官試験合格。その後警保局警務課長を経て香川県知事で退官。1933年読売新聞社に外報部長として入社。正力松太郎の下で主筆、副社長を務める。戦後公職追放。1955年に副社長に復帰し、1965年まで務め、その後最高顧問。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E9%9B%84%E8%B1%BA
 その他にも、論説委員・石浜知行<(注12)>らナチス批判者がいた。こうした人材を発掘した主筆・高橋雄豺(1935年までは外報部長も兼任)は元警察官僚で左翼ではないが、彼もナチスに批判的だったようである。
 (注12)いしはまともゆき。「<1895>年・・・生まれ。ドイツ留学をへて九州帝大教授。<1928>年三・一五事件で辞職,のち読売新聞論説委員となる。<1946>年九州帝大に復帰,マルクス主義経済学者として知られた。<1950>年・・・死去。55歳。兵庫県出身。東京帝大卒」
http://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E6%B5%9C%E7%9F%A5%E8%A1%8C
 なお、「三・一五事件(さん・いちごじけん)は、1928年3月15日に発生した、社会主義者、共産主義者への弾圧事件。1928年2月、第1回の普通選挙が実施されたが、社会主義的な政党(無産政党)の活動に危機感を抱いた政府(田中義一内閣)は、3月15日、治安維持法違反容疑により全国で一斉検挙を行った。日本共産党(非合法政党の第二次共産党)、労働農民党などの関係者約1600人が検挙された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%BB%E4%B8%80%E4%BA%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 このように社内に反ナチス論者が多かったことが、『読売』に防共協定批判の紙面を作らせたのである。正力松太郎<(注13)>社長はヒトラーにシンパシーを感じていたようであるが、少なくともこの時点では、紙面に反映されてはいない。」(22~24、39頁)
 (注13)1885~1969年。東大法卒。内閣統計局勤務を経て高等文官試験合格。警視庁入庁、警視庁刑務部長の時に虎ノ門事件を防げなかった責任を問われ懲戒免官。読売新聞の経営権を買収、社長に就任。「読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖」として大正力(だいしょうりき)と呼ばれる。日本に於けるそれぞれの導入を推進したことで、プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力の父とも呼ばれる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%8A%9B%E6%9D%BE%E5%A4%AA%E9%83%8E
 なお、虎ノ門事件は、「1923年・・・12月27日に、虎ノ門外において皇太子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が難波大助に狙撃されたテロ事件である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%8E%E3%83%8E%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6
→岩村は「この時期の左翼人は、ほぼ例外なく反ナチスであったし、当然「防共」協定にも反対であった。」と記していますが、これはトートロジーみたいな駄文です。
 そもそも、左翼は往々にして転向するものであり、また、転向すると右翼(転向右翼)
http://www.liberalism.jp/index.php?Serfdom2#d99a0a90
になる者が少なくなく、赤尾敏(1899~1990年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%B0%BE%E6%95%8F
や林房雄(1903~75年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E6%88%BF%E9%9B%84
や田中清玄(1906~93年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%B8%85%E7%8E%84
らが有名です。
 ですから、「当時『読売』には左翼的人材が多かったこと」が読売の反ナチス的紙面をもたらした、という岩村の立論は、いささか短絡的であると思います。
 現に、『大朝』(≒『東朝』)の「左翼的人材」黒田礼二は、転向して親ナチス的記事を書きまくり、その記事を『大朝』は載せまくったではありませんか。
 当時の大新聞(マスコミ)は、現在同様、激しい販売部数競争を行っていたのであり、読者、すなわち世論の動向に応える紙面づくりをしていたはずです。
 ですから、もちろん、各紙側の方針や事情も無視するわけにはいかないけれど、基本的には、反ナチス的紙面と親ナチス的紙面とでどちらの方が短期的中期的により売れ行きが伸びるのかを各紙の首脳が判断した結果が、各紙の以上のような紙面になったと考えられるのです。 
 すなわち、岩村は、どうして世論が、この頃、次第に親ナチスに変わって行ったのか、ということこそを追求しなければならなかった、と私は思います。(太田)
(続く)