太田述正コラム#5000(2011.9.18)
<戦間期日本人の対独意識(その7)>(2011.12.9公開)
「以上の如く、日中戦争勃発と中ソ不可侵条約は、日独防共協定の意義を再認識させ、ドイツへの期待を高めたのである。また、第二次上海事変<(コラム#4548、4697、4705、及び本シリーズ中の#4990、4992、4998)>以降イギリスが対日批判を強めたことも、相対的にドイツとイタリアへの好意的感情を高めたであろう
しかし、実際のドイツの立場は微妙であった。ドイツ国防軍は以前から中国に軍事顧問団を派遣する関係だったし、対中貿易、とりわけ武器輸出が好調な間柄であった。日中戦争がソ連に漁夫の利を与える可能性も高く、ドイツは日本の軍事行動に不満を持っていた。必ずしも全面的日本支持ではなく、中立的だったのである。
それにもかかわらず新聞各紙は、こうしたドイツの微妙な立場については必ずしも明確な説明をしていない。・・・
ドイツは中立的であったが、極東に利害関係をあまり持たないイタリアは、日本支持の立場を明確にしていた。そもそもイタリアは、親日的傾向のあったエチオピアを侵略した<(注20)>こともあって、日本国内では概して不人気であった。新聞紙上でも、批判的に報じられることがしばしばであった。しかし、イタリアが日本の対中行動を支持し、11月にブリュッセルの9カ国会議<(注21)>で日本擁護の姿勢を取る(ドイツは欠席)に至ると、日本国内での人気が高まる。『東朝』の社説を例に採ると、盧溝橋事件前の1937年5月の時点では、イタリアのチアノ(Galeazzo Ciano)<(注22)>外相が日本のファッショ戦線参加を希望するような演説をしたことに対し、遺憾の意を表明している。ところが10月になると、イタリアの日独防共協定参加説に好意的である。盧溝橋事件を挟んで、立場が大きく変化しているのである。
(注20)第一次エチオピア戦争(First Italo–Ethiopian War。1889~96年):「<イタリアはエチオピア領内の>エリトリアを実効支配<するに至っていたが、>エチオピア帝国の属国であったショア王国のメネリク2世はエリトリアのイタリア駐屯軍の支援を受けて・・・<エチオピア>を征服して1889年・・・にエチオピア皇帝へ即位した。<そして>メネリク2世はイタリアとの友好条約(ウッチャリ条約)を締結した。その条約はエチオピアが既に占領されているエリトリアの割譲を認め、代わりにイタリア側が引き続<きこ>の新政権を支援するという内容であった。しかし条約のイタリア語の内容とアムハラ語の言い回しは異なっており、・・・前者は・・・いわば保護国化に近い内容になっていた。1895年、メネリク2世・・・は条約を破棄すると宣言した。・・・イタリアの進出を危惧したフランスは、・・・メネリク2世に膨大な銃火器や大砲を売却していた。・・・<イタリア、エチオピア両軍の間で戦いが始まったが、1996年、イタリア軍はアドナの戦いで敗北し、>アディスアベバ条約が締結され、「本来の」ウッチャリ条約と同じ内容(エチオピア独立承認、エリトリアの割譲)が確約された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E3%82%A8%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%94%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
第二次エチオピア戦争(Second Italo–Ethiopian War。1935~36年):「イタリア<が>、再度エチオピアの植民地化を意図して侵攻を行い、短期間の戦闘をもって全土を占領した<もの>。・・・イタリアはイギリスやフランスの干渉を排除するため、1935年1月・・・フランスとの間に、アフリカ大陸におけるイタリアの自由行動を認める協定を結び、同年4月ドイツの拡張に対抗するためイギリス・フランスとともにストレーザ戦線を結成した。<更に、>6月に英独海軍協定が締結され・・・エチオピア侵略のための外交面における障害はほぼ無くなった。・・・1935年1月・・・エチオピアはイタリア<が意図的に起こした国境軍事紛争>を国際連盟に提訴した<が、>・・・英仏の宥和政策に引きずられて、1935年9月、国際連盟の仲裁委員会は紛争当事者双方に責任なしという裁定を下し・・・た。・・・1935年10月<、イタリア軍が宣戦布告なしにエチオピアに全面的攻撃を開始した。>・・・10月・・・、国際連盟はイタリアを侵略者とする採択を可決し、イタリアに対する経済制裁を開始したが、石油などの重要な戦略物資には適用されることはなかった。・・・また、国際連盟によって和平案・・・が立案されたが、基本的にイタリアによるエチオピアの植民地化を容認する内容で・・・あったため、エチオピアはこの受諾を拒絶した。<その後、イタリア軍は毒ガスの使用や焼夷弾による戦略爆撃を含む攻撃により、>1936年・・・5月、・・・首都アディスアベバを占領して戦争は終結する。<皇帝ハイレ・セラシェは亡命し、>イタリアはエチオピアを併合し、・・・イタリア領のエリトリア、ソマリランドを合わせたイタリア領東アフリカ<を>樹立<した。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E3%82%A8%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%94%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
(注21)「九カ国条約<(Nine-Power Treaty≒ワシントン体制)>の根本的誤謬は、中華民国の国境を明確に定めないで、その領土保全を認め、清朝に忠誠を誓ったモンゴル人、満洲人、チベット人、・・・トルキスタン人らの種族がその独立権を、漢人の共和国に譲渡したものと推定したことである。九カ国条約には、中国に強大な影響力を及ぼし得るソ連が含まれておらず、ソ連は、1924年・・・には、外蒙古を中国から独立させてその支配下におき、また国民党に多大の援助を与えるなど、条約に縛られず自由に活動し得た。その結果、同条約は日本に非常に不利となった。フランス代表のブリアンは「シナとは何ぞや」という質問を発したが、張作霖は東三省限りの代表をワシントンに派遣しており、どの範囲までが中華民国の領域なのかが最後まで示されなかった。満洲が中華民国に含まれるかどうかも疑問のまま放置された。・・・
日中和平を仲介すべく、1937年11月にブリュッセルで九カ国条約会議(ブリュッセル・・・会議)<(コラム#4697、4703)>の開催が急遽決定された。・・・しかし、日本側はこの会議への出席を拒否。これにより本条約は事実上無効となり、ワシントン体制は名実ともに崩壊した。・・・
<なお、>ワシントン体制の一翼を担っていたワシントン海軍軍縮条約は<既に>1936年・・・12月に失効している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E3%82%AB%E5%9B%BD%E6%9D%A1%E7%B4%84
(注22)Gian Galeazzo Ciano, 2nd Count of Cortellazzo and Buccari。1903~44年。ムッソリーニの女婿。外交官。1936~1943年:外相。ファシスト党の幹部会同(Fascist Grand Council)でムッソリーニに対する事実上の失権申し渡し決議に賛成票を投じる。その後、ドイツの手で復権させられたところの、ドイツの傀儡に堕したムッソリーニによって銃殺刑に処せられる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Galeazzo_Ciano
同年11月6日にイタリアが防共協定に原署名国として参加し、日独伊防共協定となった。これを報じる『東朝』と『東日』の紙面は賛成一色であり、批判は皆無である。・・・また両紙とも、日独伊の協定はソ連のみならずイギリス等に対抗するものであることを暗に認めている。すなわち、日独伊の「持たざる国」が「持てる国」に対抗する政治的ブロックの形成であるとしているのである。一年前の日独協定成立時にはそうした見方を否定していたのと比べると、一歩踏み込んでいることが分かる。・・・
それでも、『読売』の社説は比較的冷静であった。あくまでも防共協定であって「持たざる国の結合」ではないと強調している。日独防共協定1周年を迎えた際にも、「英米仏の民主国家に対する反民主ブロックを結成して、政治的争闘を試みんとする」つもりはないとした。日独の過度の接近を警戒し、英米仏の協定参加を期待するその姿勢は、一貫したものであった。ただし、それは社説のみであり、解説記事では「現状維持派と躍進国家」の二つのブロックに「截然と区分」されたことを認めており、社説と矛盾している。識者の協定批判が掲載されていない点は『東朝』『東日』と同様であったし、社屋に日独伊の国旗を掲げた写真を大きく掲載していることにも象徴されるように、『読売』も紙面全体としては、協定に賛意を示していたといえよう。」(29~31頁)
→岩村の、「日中戦争がソ連に漁夫の利を与える可能性も高」いとドイツが考えていたというくだりには一応典拠は付されていますが、ナチス以前の戦間期ドイツやナチスドイツに中国国民党の容共性についての認識がなかったとは考えにくく、また、日本が日中戦争を受けて立ったのは、中国国民党の容共性を当然視した上での、対ソ抑止の観点からであったことを察知していなかったともまた考えにくいことから、私には得心が行きません。
なお、「持たざる国の結合」論は、反赤露のための全くの便宜的結合であった日独伊防共協定に若干なりとも積極的意義を付与しようという意図の下にこれら大新聞が登場させたのでしょうが、英米において、日支戦争を日本が膨張的意図の下に戦っているという、善意、悪意の誤解を増幅させるのに資したであろうと考えられ、残念なことだったと言うほかありません。
なお、満州事変の時と第二次エチオピア戦争の時とで、国際連盟・・実質は英仏・・の「侵略国」に対する姿勢は一貫していないこと夥しいものがあります。
日本の世論がエチオピアに味方したのは、当然でしょう。(太田)
「対独批判が消えたことについては、内務当局による言論統制があったことも付け加えねばならない。1936年の日独防共協定については、締結後にこれを批判しても処分が下されることは少なかったし、ドイツ批判も比較的自由であった。しかし、日中戦争突入以後は当局の取り締まりが厳格になり、独伊への批判や、防共協定批判は・・・禁じられるようになったのである。たとえば、1937年11月18日の『都新聞』は、日独伊防共協定に批判的な匿名コラムが「殊更ニ独伊両国ヲ侮辱又ハ誹謗スルガ如キ言辞ヲ弄シ」たとされて禁止処分を受けている。『東朝』『東日』『読売』の三紙はこうした状況を受けて、ナチス批判を自主規制したことも十分考えられる。」(31~32頁)
→岩村によるこのくだりは誤解を呼びます。
単純に「独伊への批判や、防共協定批判は・・・禁じられるようになった」のなら、都新聞のコラムが「「殊更ニ」独伊両国ヲ「侮辱又ハ誹謗」スルガ如キ」といった修飾語句を付けて禁止処分を受けたはずがありません。
岩村が、「<主要>三紙は・・・ナチス批判を自主規制したことも「十分考えられる」」という曖昧な叙述にとどめていることが、彼の疾しい心中を物語っています。
とにかく、これまで何度も申し上げているように、戦時に言論を含む人権がある程度制約されるのは、いかなる自由民主主義(的)国家においても常識です。(太田)
(続く)
戦間期日本人の対独意識(その7)
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