太田述正コラム#5002(2011.9.19)
<戦間期日本人の対独意識(その8)>(2011.12.10公開)
「日本は日中戦争の泥沼にのめり込み、戦争終結の見通しも立てられずにいた。戦争が解決しないのはソ連とイギリスが蒋介石を支援しているからだと理解され、両国への国民の反発は高まっていった。他方、「防共友邦」ドイツとイタリアへの期待が増大していった。・・・1938年2月<に>・・・ドイツが満州国を承認し、日中戦争で日本支持の姿勢を打ち出すと、日本人はこれを大歓迎しヒトラーを褒めたたえた。
こうした状況で、親独機運が著しく高揚し、いわばドイツ・ブーム的な状況が起きたのである。ドイツに関する著作が大量に公刊され、来日したヒトラー・ユーゲント(Hitler-Jugend)<(注23)>は全国各地で熱狂的な歓迎を受けた。北原白秋作詞の国民歌謡「万歳ヒトラー・ユーゲント」<(注24)>が連日ラジオで流され、日劇では「ハイルヒットラア」と題したレヴューがダンシングチーム総出演で上演され・・・東京日日新聞社がドイツ大使館と共同で主催した「大独逸展覧会」には、のべ6万人が来場した。」(43~44頁)
(注23)Hitler Youth。「1926年に設けられたドイツのナチス党内の青少年組織に端を発した学校外の放課後における地域の党青少年教化組織で、1936年の法律によって国家の唯一の青少年団体(10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられた)となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%88
なお、反ヒトラー・ユーゲント団体であるエーデルヴァイス海賊団(Edelweispiraten)については下掲参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%B9%E6%B5%B7%E8%B3%8A%E5%9B%A3
(注24)作詞:北原白秋(1885~1942年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8E%9F%E7%99%BD%E7%A7%8B
作曲:高階哲夫(1896~1945年)。東京音楽学校(現東京芸術大学)卒。バイオリニスト、指揮者、作曲家。
http://www.city.namerikawa.toyama.jp/museum/senken_c.html
曲。↓
http://www.youtube.com/watch?v=cVnLcrCNNRY
→このあたりまでの大新聞の親独的紙面は、世論の動向に応えただけである、と看過することもできるでしょう。(太田)
「新聞各紙はドイツの「好意」に応えるため、その対外膨張策に声援を送った・・・。
<1938年、ドイツがオーストリアを併合、また、チェコスロヴァキアにズデーデン地方を割譲させ、翌1939年、>スロヴァキアを独立させて保護国とした・・・。
以上の一連の動向を、日本の新聞各紙は大々的且つ扇情的に連日報道した。・・・『東朝』<や>『東日』<の>ベルリン特派員・・・はベルリンから情報を送るだけでなく、ウィーンやプラハにも乗り込んで現地情勢を国際電話で伝えた。これまでベルリンに特派員を置いていなかった『読売』も、1938年12月から特信を特派<(ママ)>した。各紙は社説でも度々取り上げて論じ、識者の解説記事を載せた。その熱心な報道振りは、「挙げてナチスの機関紙のやうな観あり、戦時議会はもとよりのこと、支那事変を消してしまつた」[世界知識]とか、「漢口攻略戦の進展よりも、チエツコ問題に大きな衝動を感じたかのやうな報道態度」[政界往来]などと、当時においても批判的に評されるほどであった。」(45~47頁。[]内は70頁)
→ここで興味深いのは、『世界知識』誌の論評子が、ナチスに批判的であるだけでなく、政府(行政府)ならぬ議会の動向を重視していることです。つまり、ここからも、当時の日本人は自国が自由民主主義(的)国家であることを当然視していた、ということが分かります。(太田)
「ドイツの領土要求には民族自決の観点から正当性があり、決して帝国主義的な侵略ではないと、各紙は論じていた・・・。
<また、各紙が>ヒトラーの外交手腕を絶賛したこと<も>・・・挙げられる。・・・<その>背景としては、前年7月に勃発した日中戦争が泥沼化しているという事情があった。ヒトラーが他国との外交手段(軍事力を背景とした威嚇外交であるが)で、ドイツ兵士に流血を強いることなく領土を拡張しているのに対し、近衛文麿首相は「国民政府を対手とせず」声明を発して、戦争相手との外交交渉の余地を自ら閉ざしてしまっていた。そのため、局地戦では勝利しつつも戦争終結の見通しは全く見えない状況となり、戦場で多くの若者を死に追いやっていた。・・・
各紙はさすがに露骨にヒトラーと近衛を対比して批判するようなことはしなかったが、当てつけの如くヒトラーを礼賛することによって、近衛首相や宇垣一成外相、あるいは軍部に対する不満を暗示していたのである。それは、言論への締め付けが強まる中での巧妙な当局批判であったといえるかもしれない。・・・
<もう一つ>は、<各紙が、>ドイツに対しては全くと言っていいほど批判の立場を放棄した点である。ヒトラーのチョコスロヴァキア解体は、ミュンヘン会議<(注25)>の約束違反であるだけでなく、それまでの「一民族一国家」という旗印と矛盾するものであった<というのに・・。>もっとも、日本が台湾人・朝鮮人という異民族を支配している以上、新聞がドイツの異民族支配を批判できないのは当然だともいえる。
また、1938年11月に起きた悪名高い「水晶の夜」事件(Kristallnacht)<(注26)>についても、批判しなかった。・・・前<に>述べたとおり、かつて新聞はナチスのユダヤ人迫害に批判的であった<というのに・・。>
(注25)=ミュンヘン会談。その結果、ミュンヘン協定(Munich agreement=Munich Pact)が締結された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Munich_Agreement
「1938年9月29日から30日にかけて、チェコスロバキアのズデーテン地方帰属問題を解決するためにドイツのミュンヘンにおいて開催された国際会議。イギリス、フランス、イタリア、ドイツの首脳が出席した。ドイツ系住民が多数を占めていたズデーテンのドイツ帰属を主張したアドルフ・ヒトラーに対して、イギリスおよびフランス政府は、これ以上の領土要求を行わないとの約束をヒトラーと交わす代償としてヒトラーの要求を全面的に認めることになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%83%98%E3%83%B3%E4%BC%9A%E8%AB%87
(注26)1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地で発生した反ユダヤ主義暴動。「<ヒットラーの首相就任後、>ドイツではユダヤ系ドイツ人が激しい迫害にさらされることとなった。しかしドイツ在住のユダヤ系ポーランド人は比較的迫害から免れていた。・・・ところがポーランド政府は1938年10月6日に全てのポーランド旅券につき検査済みの認印が必要であるとする新しい旅券法を布告した。これによりドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍が無効とされた。ナチスに勝るとも劣らず反ユダヤ主義的だったポーランドは、ドイツの反ユダヤ主義政策が激化していく中、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人がポーランドへ帰って来ることを嫌がっていたのだった。逆にポーランド系ユダヤ人をポーランドへ送り返したがっていたナチスはこのポーランド政府の決定に激怒した。ナチスはポーランドの旅券法が発効される1938年10月30日よりも前にポーランド系ユダヤ人を強制的にポーランドへ送り返してしまおうと企図した。1938年10月28日に・・・警察が1万7000人のポーランド系ユダヤ人を狩りたて、彼らをトラックや列車に乗せてポーランドとの国境地帯に移送した。これに対抗してポーランド国境警察は国境を封鎖してユダヤ人の受け入れを拒否した。まだ旅券法が正式に発効していないにも関わらずポーランド政府は未だ有効な旅券を持つポーランド系ユダヤ人の受け入れを無法に拒否したのだった。ナチス政府からもポーランド政府からも受け入れを拒否されたユダヤ人たちは国境の無人地帯で家も食料も無い状態で放浪することとなり、彼らは窮乏した生活を余儀なくされ、餓死者も大勢出た。
1938年11月7日・・・ポーランド系ユダヤ人・・・<の>センデル・グリュンシュパンは、パリのドイツ大使館に赴き、一人の館員を狙撃した。(その後この館員は死亡。)>・・・
<この>事件を受けて11月9日夜から11月10日かけて組織化された反ユダヤ主義暴動がドイツ各地で発生した。あわせて177のシナゴーグと7500のユダヤ人商店や企業が破壊された。特にフランスとの国境に近いドイツ西部で暴動が多発した。併合されたばかりのオーストリアやズデーテン地方でも暴動が発生した。・・・暴動中、ユダヤ人は殴られたり、辱められりした。運の悪い者はそのまま殴り殺された。少なくとも96人のユダヤ人が殺害されている。・・・強姦されたユダヤ人女性もいた。・・・
殺人に関与した者は一応逮捕されているが、そのほとんどは訴訟手続きが打ち切られるか、無罪判決だった。一方ユダヤ人女性を強姦した者については「ドイツ人の血と名誉を守る法律」の「人種汚辱罪」で処罰されている。・・・
この暴動でドイツ警察に逮捕されることになったのは被害者であるはずのユダヤ人であった。3万人ものユダヤ人が警察に逮捕され<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%99%B6%E3%81%AE%E5%A4%9C
そして米英がこの事件でドイツを批判すると、ドイツ弁護の議論を掲載した。・・・
『読売』の鈴木東民は依然として外報部長を務めていたが、一時期打ち出していたような、反ナチ的傾向はもはや見あたらな<くなっていた。>」(48~52頁)
→ここは、岩村の言うとおりであり、かりそめにも社会の木鐸でもある自負を忘れてもらっては困る大新聞各紙が、非論理的な贔屓の引き倒し的な親独記事を載せるに至ったことは強く批判されてしかるべきでしょう。
(岩村の指摘のように近衛政権批判という含意があったとしても、オーストリアやチェコスロヴァキアはどの国からも支援を受けられなかったのに対し、中国国民党政権は、赤露と英国(ないし米国)の支援を受けることができていたのですから、各紙は、近衛政権批判を行うより、むしろ赤露及び英米批判を行うべきでした。)
なお、同じ鈴木東民が外報部長でも、読売の論調が変わってしまったということは、私による、各紙の論調が世論を忠実に反映していたはずであるとの累次の指摘の正しさを裏付けるものです。
ただし、岩村が、日本の台湾及び朝鮮半島支配とナチスドイツのチェコ併合/スロヴァキア保護国化を同一視するようなことを言っている点は咎められるべきです。
ナチスドイツにおいては、日本帝国におけるような、文明(資本主義と自由民主主義)の普及への使命感がなかったどころではなく、ドイツ民族以外は搾取の対象でしかなかったからです。(太田)
(続く)
戦間期日本人の対独意識(その8)
- 公開日:
本文引用:
「ところがポーランド政府は1938年10月6日に全てのポーランド旅券につき検査済みの認印が必要であるとする新しい旅券法を布告した・・・(中略)・・・ナチス政府からもポーランド政府からも受け入れを拒否されたユダヤ人たちは国境の無人地帯で家も食料も無い状態で放浪することとなり、彼らは窮乏した生活を余儀なくされ、餓死者も大勢出た。」
↑
この部分、誤解だと思いますが。
当時はドイツがポーランド国内の「ドイツ系ポーランド人」(所謂第五列)と呼応して多数の工作員を次々と自国からポーランド国内へ送り込んでおり、ポーランド政府によるこの旅券見直しの決定はそれへの緊急対処でしたから。
もちろん戦間期のユダヤ系ポーランド人たちにはローザ・ルクセンブルクのように共産主義者が多く、ポーランド政府としては彼らがポーランドに戻ってきて赤化活動をすることを警戒はしていましたが、現実にこのシナリオは可能性が薄いです。というのも、そもそも彼らはドイツの赤化のためにポーランドを離れドイツで活動していたのですから。
ご確認のほどを。
通りすがり氏が言うようなポーランド政府がドイツ系ポーランド人の第五列やユダヤ系の共産主義者たちを警戒していた話も聞いたことがあるが、
私はそれとはまた別のことで岩村氏やデッシャーやグレーバーの事実歪曲を指摘させていただきたい。
彼らの典拠は『The Expulsion of Polish Jews from Germany October 1938 to July 1939: A Documentation』(Sybil Milton著、Oxford Journal)だと思うのだが。
以下はそのサマリー。
ユダヤ人はまずドイツ側でSSによって10マルクを超える手持ち現金が全て没収されたうえ、
国境検問所まで数キロの道のりを徒歩で移動させられ、ポーランドに入国します。
ドイツによるユダヤ人追放はいきなり行われたためポーランドの国境すべてにワルシャワの中央政府から通達が行き届いていたわけでなく
一部で国境警察がユダヤ人の入国を拒否するという混乱が見られたことは確かですが、
最終的に国境までやってきたユダヤ人はすべてポーランド側に受け入れられ、いったん各地にある大きな街に収容されます。
たとえばズバシン市では近隣の複数の国境検問所から入国したユダヤ人がいったん集められ、
政府は臨時通達を出して、ワルシャワで必要な行政手続きが完了するまで彼らが許可なく街の外へでるのを禁止しました。
ズバシンでは陸軍の施設が宿舎として割り当てられましたが、
地元のグジボフスキというユダヤ系ポーランド人実業家も彼の工場を宿舎として提供しました。
(続きます)
(続き)
当初はいきなり多数の人々を収容しなければならなかったので、
各地の自治体当局は彼らへの差し入れの提供を現地のポーランド人住民たちに呼びかけ、
地元住民たちそれに応じてこのユダヤ人たちにボランティアでお湯や食料などの差し入れを行いました。
ワルシャワでも一週間後にはボランティアのユダヤ人非追放民救済委員会が組織されます。
現地でも様々なボランティア組織が即座に結成され、
宿舎の人々に差し入れ、行政手続きの手伝い、郵便の配達代行、子供たちの世話、医療、文化活動などを行いました。
このボランティア組織群の事実上の代表にはリンゲルブルムというユダヤ系ポーランド人実業家が就きました。
地方のボランティアによる救済委員会には280万ズウォティ、合同委員会には70万ズウォティの
義捐金がポーランド全国から集まりました。
この間、ワルシャワの中央政府はドイツと交渉を行いました。
一部の人々は宿舎から脱走しましたが、これはあくまで政府通達が臨時でなく永続的なものだと彼らが勝手に思い込み、
当局の説明をちゃんと聞こうとしなかったからにすぎません。
実際、中央政府によるドイツとの交渉が進むにつれて、宿舎の人々が町から出る許可がどんどん与えられ、
11月末までにすべての宿舎は閉鎖されます。
その時点で宿舎に残っていた人々(たとえばズバシンでは4000人が居残っていたそうです)もポーランド各地に親類を頼って引っ越し、
国内に身寄りのない人は主に第三国へと渡っていきました。
(さらに続きます)
(続き)
一般的に言って、とりわけポーランド史に関し巷で定説となっているものは
まったくの出鱈目、捏造、歪曲、嘘が多いような気がする。
外国のポピュリストたち反ポーランド主義者たちによって意図的に行われているのではないだろうか?
たとえばWikipediaの「ナチスに勝るとも劣らず反ユダヤ主義的だったポーランドは…」は
デッシャーの主観ではないか?
太田さんも読者をミスリードしない記述を心掛けていただければ。
とくに、Wikipediaを引用するのは避けたほうが良い。
太田さんが以前取り上げた戦後のキェルツェ暴動についても、
あれは相手がユダヤ人だから起きたのではなく、相手が誰であろうと何民族だろうと起こり得た事件。
戦争直後当時の法的に誤った住宅行政と、共産行政当局自身のミス隠ぺい・責任転嫁の体質が原因だったため。
非追放民救済委員会はタイポです。
被追放民救済委員会が正しい。