太田述正コラム#5022(2011.9.29)
<戦間期日本人の対独意識(その15)>(2011.12.20公開)
「<次は、>ヒトラー漫画問題<についてだ。>・・・
1935年5月、ドイツ大使館から外務省に、漫画雑誌『東京パック』・・・5月号の「表紙と3、4頁に掲載されたドイツ元首への誹謗」に注目するよう要請があり、この雑誌の編集者に責任を問うてほしい、とあった。
『東京パック』は、左翼の下田憲一郎<(注52)>が1928年7月に創刊した漫画雑誌である。当時隆盛のナンセンス漫画とは距離を置き、プロレタリア漫画とエロチック漫画を中心に掲載していた。・・・
(注52)1889~1943年。横手市の書店の丁稚奉公、支配人。上京して正則英語学校に学ぶ。
http://homepage3.nifty.com/akitamus/kannai/senkaku/PDF/248.pdf
「<正則英語学校の>校名は、明治時代の英語教育が旧制高等学校入学を目的とした詰め込み式の変則であったことに対して、正則な英語教育を行うという意味から由来する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%89%87%E5%AD%A6%E5%9C%92%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1
外務省は早速この件を内務省に移牒したが、内務省からの返答はなかなか得られずに数カ月が経過した。そのうち、同年9月にディルクセン<(注53)>大使から広田外相宛に再び苦情が持ち込まれた。その長文の書簡には、最近12カ月の日本の新聞に掲載されたヒトラーを描いた風刺漫画の切抜きの束が同封してあり、・・・大臣閣下が貴国の関係官庁をして新聞社に国際的儀礼を遵守すべきことを警告せしめ、且つ将来においてこの種の漫画の公表を差し止めるよう取り計らうことをお願いしたい。また、『東京パック』の件についての速やかな回答もお願いしたい、とあった。・・・
(注53)Herbert von Dirksen。1982~1955年。「駐ソ連大使をへて・・・1933<年>駐日大使として来日。<1938>年まで在任し,日中和平に尽力したが,不成功におわった。のち駐<英>大使。」
http://kotobank.jp/word/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3
さらに続けて、1カ月もしないうちに再びドイツ側から新聞漫画取り締まりの要請が行われた。・・・
また翌10月には、ヒトラーの漫画を使ったポマードの広告・・・ファッショもワッショもランランラポマードだ<という文章入り>・・・に対してドイツ大使館からの抗議があり、そこで再び外務省から内務省へこれらを移牒した。
これらについては、12月になってようやく、内務省側から外務省に報告が寄せられた。しかし、その内容は・・・きわめて簡単なものであった。・・・
<しかも、>新聞各社はその後もヒトラーに関する漫画を載せている。また『東京パック』も依然としてヒトラーの漫画を載せ続けている・・・。つまり、内務省が新聞社や『東京パック』に与えた警告は、ほとんど効果を挙げえなかったのである。
1936年1月に<も>ドイツ大使館から外務省に・・・口上書<が>・・・寄せられた・・・。・・・
さらに1936年4月、・・・またもや・・・口上書が寄せられた。・・・
大使館の度重なる要請を受けて、外務省は再び内務省に取り締まりの励行を依頼した。・・・<しかし、>内務省は地方長官に取り締まりの励行を繰返したのみで、何ら新しい対策を執ろうとしなかったのである。外務省はこの回答をそのままドイツ大使館に伝えるしかなかった。・・・
この時期の取り締まり事例として確認できるのは・・・2件のみであり、新聞に登場した大量のヒトラー漫画は、事実上放置されていたといえる。
・・・10月にはドイツ臨時代理大使ネーベル(Willey Noebel)が外務省を訪れ、・・・長文の書簡を提出した。・・・
この件についても、当然外務省から内務省に移牒されたが、・・・内務省は厳重な取り締まりを行う意志がなかった・・・。・・・
結局、外務省はネーベルの申し入れに対して、有田大臣名で「今後一層厳重に取り締まる」と抽象的に回答し、具体的な対策については約束しなかった。・・・
<このような日本政府の姿勢の理由についてだが、>参考になると思われる事例として、・・・ドイツ現地にて1936年4月6日、森島守人一等書記官がナチ党外交局日本係ドクター・カール・オットー・ブラウン(Dr. Karl Otto Braum)に面会した<時に語ったことを紹介しておきたい。>
森島は第一に、日本では言論の自由を尊重しており、新聞の取り締まりは法規上ドイツのように厳重に行うことはできない、したがって各新聞社に政府方針を徹底せしめるのは相当の困難を要する、と述べた。当時の法律では、皇室への不敬な記事は当然厳重に罰せられたが、外国元首を侮辱したからといって罰することはできず、また書物を発禁処分にすることもできなかったのである。当時の日本の官僚が「言論の自由」という言葉を使っているのも興味深い。この時期のドイツでは新聞社の自立性はほとんど存在せず、すべて体制に従うことを要求されていたが、日本はそうではなかった。
続けて森島は、提示された漫画や記事のほとんどが、決して悪意をもって掲載されたものでないことは明瞭である、と言う。むしろ、最近の国際政治上におけるヒトラー総統への絶大の興味と敬服を反映しているのではないか、とした。・・・
さらに森島は、第三点目として、ヒトラーの複雑な政治的地位を指摘する。国家元首・首相・政党総裁の三資格を兼ねる総統という立場は世界に類例がなく、日本国内でも観念が混交していると述べた。つまり、日本国民はヒトラーをどちらかと言うと首相及びナチス党党首、すなわち政治家として認識しているため、ドイツ国元首に対しての敬意を払う気持ちが薄い、と言うのである。この森島の説明を裏付けるものとして、このころ『外交時報』誌の「外交問答」欄に掲載された、次のような<回答>を紹介したい。・・・
・・・ヒットラーは独逸国の元首であると同時に、首相であり、政党(ナチス)の首領であつて、直接内外の政治を動かして居る責任者ですから、政治を超越し、全国民の崇敬と、歴史的尊厳とを保持し給ふ我が皇室と、同じように考へろと云ふのは全く無理な注文です。殊に欧米に在つては、政治家に漫画は付きもので、ロイド・ジョージ、クレマンソー、ウィルソンや前のローズベルト君を始め一世に盛名を馳せた政治家諸君は、悉く漫画に負ふ所大なりと云つても過言でない。・・・
・・・『外交時報』は外務省と密接な関係があったといわれている。この記事が掲載された背景には、表立って反論できない日本側の見解を、ドイツ大使館関係者に暗に知らしめる意図があったのではなかろうか。・・・
最後に、森島はヒトラーの白人種優越演説について言及した。その演説とは、1936年1月26日にミュンヘンでヒトラーが行ったとされるもので、白人優等論を説き「植民地統治は欧州人のみに与えられた宿命である」と力説したものであり、日本の世論を刺激した。・・・
以上のように、・・・第一に日本では「言論の自由」がドイツに比べれば尊重されていたこと、第二に問題となった漫画や記事が全て反独的とは言い難かったこと、第三にヒトラーは政治指導者であるから漫画に描かれるのもやむを得ないとの見解があったこと、第四にヒトラーの有色人蔑視が日本人の間で知れ渡っていたことが指摘できた。
さらに付け加えるならば、外務省はともかくとしても、内務省はドイツ側の要求を内政干渉と受け取り不快に感じていたのではないだろうか。」(169、171、172~179、181~185頁)
→岩村は、「当時の日本の官僚が「言論の自由」という言葉を使っているのも興味深い。」とやや皮肉っぽく記していますが、戦前の日本が当時のドイツ・・少なくともナチスドイツ・・とは異なって、紛れもない自由民主主義(的)国家であったこと、かつまた、日本の天皇(皇室)が、戦後同様、既に国家の象徴的存在に他ならなくなっていたこと、を当時の国内事情に疎かった外務官僚達でさえ自明視していたことを、私は、極めて興味深い、と思います。(太田)
(続く)
戦間期日本人の対独意識(その15)
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