太田述正コラム#5030(2011.10.3)
<戦間期日本人の対独意識(その18)>(2011.12.24公開)
「コミンテルンの殲滅を目標として掲げ、8月に第一回防共戦士養成講習会を開催したばかりであった大日本防共同志会としては、ドイツがソ連と結んだからといって、対ソ宥和論を展開するわけにはいかなかった。・・・
しかし、黒田礼二は自ら主宰する親独雑誌『日独旬刊』の巻頭言にて、次のように主張していた。今日のソ連から共産主義を輸入せずして木材と石油のみを輸入し得る手段はいくらでもあるが、民主主義的妥協と敗戦的副産物なしに英国から資本の輸入を得る手段は絶対にありえない。東亜新秩序建設のために、日独ソの親善関係を再興することも「亦真摯に考へていい題目だ!」と叫んでいた。さらに別の雑誌では、「日ソ経済提携論」と題し、豊富な食料と原料資源を持つソ連と手を組めば、英米の経済的圧迫から脱却できると主張した。・・・共産主義シンパとしての過去を持つ黒田は、<同会の>他の理事と異なり日ソ提携を抵抗なく主張できたのだろう。・・・
→民主主義を「敵視」している黒田は、この点で世論に背馳していたと言えるでしょう。(太田)
彼ら<以外にも、>・・・たとえば中野正剛の東方会は、・・・親独反英路線を貫いている。東方会ら親独反英派の国家主義団体は12月7日に東亜建設国民連盟準備会に結集したが、これには大日本防共同志会も参加した。1940年1月に浅間丸事件が起きると、東亜建設国民連盟準備会はイギリスを非難する強硬決議を発した。東亜建設国民連盟は4月29日の天長節に正式に発足したが、松本は中央常任委員のひとりとして選出されている。
しかし彼らの親独主義は、国家主義団体の中では優勢だったものの、国民世論全体から見れば必ずしも多数派とはいえない。国民の間では独ソ不可侵条約に対する反感から、ドイツについては冷淡な見方をする者が多かったし、阿部内閣の不介入方針は広く支持されていた。・・・
→世論が再び反ナチスドイツに傾いたのは、もともと世論は日本が自由民主主義的国家であり、ナチスドイツはそうではないと見ていたからこそです。(太田)
ところが、1940年春頃から、ドイツが西部戦線で攻勢に出ると、日本国内に再び親独熱が高まってくる。オランダ、ベルギーを降伏させ、パリを陥落させるに至ったドイツ軍の「電撃戦」の戦果に刺激され、ドイツと組んで南方に進出せよとの「バスに乗り遅れるな」論が叫ばれるようになったのである。親英米主義的な観のあった米内光政内閣は倒れ、第二次近衛内閣が成立した。・・・9月27日、日独伊三国同盟がベルリンで締結された。
→岩村自身が前に分析したように、世論は、うさんくさいナチスドイツに、欧州大戦後、東南アジアの仏領インドシナや蘭領インドネシアを壟断されたらたまったものではない、という理由からも、ナチスドイツ牽制のためにナチスドイツとの関係強化を図るべきだと考えたのです。(太田)
三国同盟は国民に大歓迎され、松本<(注60)>や黒田もこれを歓呼して迎えた。・・・
(注60)岩村による注に「松本徳明は、・・・浄土宗寺院の長男として生まれた。・・・東京宗教大学(大正大学)研究科を経て、浄土宗から派遣されて・・・ボン大学で・・・博士号を取得、その後同大学で講師・名誉教授として東洋学を教えた。1936年に帰国した後は・・・大正大学理事長などを務め<た。>」(215頁)とあり、京大教授としてある注54を訂正しておく。
これより先の6月10日に、大日本防共同志会は団体名から「防共」の二文字をとって大日本同志会と再び改称していた。・・・ドイツの外交政策に引きずられた結果、防共を表看板から外すに至ったのである。・・・
このように、大日本同志会は従前の防共論を後退させ、ソ連を加えた日独伊ソの提携によって英米に対抗するという松岡洋右の構想と一致した考えを持ったのである。・・・
黒田はある雑誌において、ドイツは決してソ連を攻撃する意思を持っていないと断言している。しかしその雑誌が店頭に並ぶ直前の1941年6月22日、ドイツ軍はソ連に侵攻した。・・・大日本同志会は、・・・ドイツがソ連を撃破するという楽観的見通しを抱いていた。
独ソ戦が起きると、国家主義陣営は再び二通りの考え方に分かれた。すなわち、ドイツと共にソ連を討つことを主張する北進派と、この機に乗じて東南アジアへ進出することを主張する南進派である。・・・東亜建設国民連盟に加わった団体は南進を唱えた。・・・
→岩村は、南進派について、ソ連を抑止するために、中国国民党政権を打倒すべきところ、同政権を支援している英国等の手を引かせることを目指す派、という説明を加えるべきでした。(太田)
日独同志会(大日本同志会)・・・の日独提携論の論拠は、政治的理由と精神的理由の二つに分けて考えることができる。第一に政治的な理由であるが、それはイギリスとソヴィエト連邦を極東から駆逐するために日独提携が最も効果的であるというものであった。・・・日本の発展を気に入らないイギリスは、満州事変以来常に日本の行動を妨害してきた。・・・日本は独伊両国を英ソ・・・に対する牽制力として利用するべきである、という主張であった。
→ここも、岩村は、英ソを並列に置くのではなく、上述のような説明をすべきでした。(太田)
次に精神的理由であるが、それは、日本とドイツは共通する世界観を持っているのだから結合するのが必然という考え方である。・・・
松本によれば、ナチス精神とは、個人が国家全体のために尽くす全体主義である。・・・このナチス精神を一層深く掘り下げ、哲学的に論理的に徹底せしめたものが日本精神である、とする。それは全体のために個人が犠牲になるのではなく、全体の中にこそ自己を見出すという「無我の人生観」であった。・・・日独が相提携して唯物主義と個人主義に対抗することは、世界文化の上から最も利益がある、というのであった。・・・
共産主義に対してはどうか。もちろん彼らは、共産主義は階級闘争により国民統一を破壊し、唯物思想により国民精神に悪影響を与えるから日本精神とは相容れないとして、反対していた。しかし、個人よりも帰属集団を重んじる全体主義という意味では、共産主義もナチズムと同じである<として、>・・・共産主義<は、>・・・イギリスの自由主義(個人主義と解されていた)ほど悪くないと考えていたようである。・・・したがって彼らは、ドイツがソ連と手を結ぶと防共主義よりも排英主義の方を優先させ、会の名前から「防共」をはずしたのである。・・・
しかし、・・・たとえ日本人がそのように思ったとしても、・・・ヒトラー・・・は、アーリア人至上主義<を>強調<し、>・・・日本人<は、>・・・二流民族と・・・<し>ていたのである。
<そのため、>・・・日独同志会関係者(特に藤沢<(注61)>)の議論については、・・・延島栄一<(注62)>・・・<や>矢部貞治<(注63)らから>・・・批判があった。・・・
(注61)藤沢親雄。1893~1962年。東大卒。農商務省を経て国際連盟事務局に勤務。その後文部省在外研究員としてベルリン大学に留学し、博士号取得後1923年帰国。九大教授、大政翼賛会東亜局長等を務めた。十数か国語を使いこなした。皇国思想の理論家。(215頁)
(注62)「戦後、・・・世界政府運動の研究所みたいなところ(「世界恒久平和研究所」)に・・・延島英一氏が入ってきた。少年時代から大杉栄の弟子で、戦前からのアナーキストです。・・・その後どこかで転向して、実践的なアナーキスト運動からは手を引いていた。学校にはあまり行っていないが、それだけに自分で考えることと、大杉栄の影響で語学には熱心だった。・・・英語、フランス語、ドイツ語、そしてアナーキストの特色としてエスペラント語もできた。戦後もエスペランチストとの交流、雑誌の交換などをよくやっていた。」
http://www.toyokeizai.net/115-anniversary/series/kawakami4-3.html
(注63)1902~67年。貧農の子。一高、東大法(政治)卒。同学部教授、拓殖大学総長などを歴任。政治学者。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E9%83%A8%E8%B2%9E%E6%B2%BB
しかし、その一方で、日独の「世界観の共通性」については、松本や藤沢に限らず・・・徳富蘇峰<や>・・・白鳥敏夫<(注64)(コラム#1378、3578)>・元駐伊大使<ら>・・・親独的知識人の多くが説いたところでもあった。」(207~213頁)
(注64)1887~1949年。一高、東大法(経済)卒。1930年に外務省情報部長、1938年駐伊大使。日独伊三国同盟の推進を図る。戦後、A級戦犯として服役中、戦争放棄や軍備撤廃を新憲法の条項に盛り込むべきだとする提案をまとめた書簡を、当時の吉田茂外務大臣を通じて幣原喜重郎首相に送っている。白鳥家は元々日蓮宗の家系で、一時は金光教に凝り、自宅に神棚を祀っていたことがあり、キリスト教を軽蔑していたが、亡くなる直前にキリスト教へ改宗した。1978年に靖国神社に合祀されたが、その際、昭和天皇は「A級が合祀されその上 松岡、白鳥までもが」、「私あれ以来参拝していない それが私の心だ」と述べ、白鳥の合祀に不快感を示している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E6%95%8F%E5%A4%AB
→ここは、岩村の説明通りなのでしょうが、前述したように、もともとこの会の指導者2人がドイツ心酔者であったことがあずかり、ドイツを「道義」的な国であるとの幻想を抱いたところ、彼らは、それでも足らぬといわんばかりに、ドイツと日本の世界観が共通しているなどというヨタ話をぶち上げるに至っていたわけです。
松本は、日本を、「全体の中にこそ自己を見出す」国、つまりは私の言う、人間(じんかん)において初めて人たりうるとされるところの、人間主義の国と見ているのであって、それはまさに正鵠を射ているのですが、それならば、日本は民主主義独裁の共産主義やファシズム(含むナチズム)とは対蹠的な存在であって、アングロサクソンの個人主義・・ただし、組織内と有事においては独裁制・・と親和性を有する国である、という結論にならなければおかしいのです。
松本や黒田(、更には藤沢)は、恐らくアングロサクソンについてほとんど何も知らなかったのであろう、と思います。
そして、このような倒錯的な発想を共有していた徳富蘇峰は、横井小楠の不肖の孫弟子であり、白鳥敏夫に至っては、(横田喜三郎的な)無節操な人間の屑である、と断ぜざるをえません。
帝国陸軍、ひいては世論は、基本的にこのような発想とは無縁であり、マキャベリスティックとまでは徹底できなかったけれど、日独同志会に比べれば、はるかにリアルポリティーク的に日独伊三国同盟を追求した、というのが私の見解です。(太田)
「日独同志会の議論は、知識層からは批判もあったが、同じような考え方が国民に受け入れられ、最終的には多数派となったのである。実際、日本の外交政策は、松本らが主張した方向に進んで日独伊三国同盟を結んだ。しかしそれは、太平洋戦争を不可避にして日本敗北を導いたのであった。」(214頁)
→よって、「同じような考え方が国民に受け入れられ<た>」については留保が必要である、ということになります。
また、日本が1940年9月に日独伊三国同盟を結んだことが太平洋戦争を不可避にしたのではないのであって、1940年中に対英のみ開戦をしなかった日本政府の人の好さと、日本を対米開戦へと次第に追いつめた英国政府と米国政府の悪辣さ、そして、1941年4月に日ソ中立条約を結び、更に三国同盟へのソ連の参加を目論んだ日本の意向を無視して同年6月に対ソ開戦をしたナチスドイツの自殺的暴挙、が太平洋戦争を不可避にした、と私は考えています。(太田)
(続く)
戦間期日本人の対独意識(その18)
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