太田述正コラム#5044(2011.10.10)
<歴代の駐日英国大使(その6)>(2011.12.31公開)
「クライヴ・・・の日本にたいする警戒心は一段と深まるばかりであった。ことに日本軍部が中国北部の自治と同地域への日本製品の密輸、すなわち中国海関(Chinese Maritime Customs)への輸入税納付回避を支援したこと・・・満州国境の密輸線として1936年・・・2月ごろから冀東地区で盛んになったいわゆる特殊貿易(日本側呼称)のことと思われる。中国海関当局の調査によれば特殊貿易による官営収入の欠損は年間ベースで全税収の3分の1に達したという。<(注11)(訳注)>・・・<や、>1936年10月、台湾の基隆に寄港していた多数の英国海軍の水兵が日本の官憲により逮捕され殴打される事件<(注12)>があ<ったことで、>クライヴは激昂した。・・・<後者>の一件に関しては、クライヴは日本側にたいしてロンドンの本省の線よりさらに厳しい姿勢をとり、ためらうことなく一切の妥協を排した・・・。
(注11)「・・・三六年二月一二日、冀東防共自治政府は、輸入貨物査験所を設け、正規の関税の四分の一程度の査験料を徴収することで、海面からの物資の輸入を認める措置を実施した。それは簡単にいえば、塘沽協定<(コラム#4008、4616、4683、4950)>以来増加してきていた密輸を手数料をとって公認するということであり、日本軍、直接には山海関特務機関の指導によるものであった。すでに関東軍は、戦区海面への中国税関の武装監視船の配置を、 停戦協定違反として排除しており、中国側はこの密輸を阻止する手段を持たないわけであった。【中略】この密輸の公認は、この・・・政府の経費を確保することを直接の目的としていた。しかも、この低額の査験料は日本商品だけに適用されるものであり(他国製品は正規関税の八割)、<この>政府を養ったうえに、日本商品に不当の利益をもたらす・・・ものであった。さらにそのうえ、その収益の一部は、関東軍の内蒙工作につぎ込まれたという。この措置がとられると、人絹<(レーヨン)>、砂糖、綿布、雑貨などが、大連からどっと冀東地区にもち込まれ、中国税関の収入を激減させただけでなく、中国市場にも深刻な影響を与えた。これに対し中国側は、運輸免状制度などをつくって対抗したが、日本側は暴力的に検査所を突破するなどの事例も多く報告されている。日本側が「冀東特殊貿易」と呼んだこの密貿易は、中国側の取締の強化と、輸入のしすぎによる価格の暴落により、三六年後半から減退してゆく・・・。」(古屋哲夫 『日中戦争』P.113)
http://www.c20.jp/text/ft_niccy.html
(注12)詳細不明。ご存知の方はご教示いただきたい。
クライヴの日本にたいするますます強硬な姿勢にはそれを賞賛する人びとと非難する人びとがいた。前者には中国駐留英国艦隊司令官サー・チャールズ・リトル提督(Admiral Sir Charles Little)<(注13)>がいた。リトル提督は1936年7月、海軍軍令部長サー・アーンリ・チャトフィールド提督(Admiral Sir Ernle Chatfield)にクライヴのいっていることに賛意を表して、クライヴの認識によると日本が聞いて理解できる言葉は武力だけであるといっている、と伝えた。大体においてクライヴのアクションと判断は、英国外務省の考えにそっており本省も賛成していた。しかし英国内において日英友好の昔に戻ることを願っている人びとはクライヴのとった行動は、日本側からの日英融和に向けてのきわめて重大な打診を好機として利用しないで彼ら友好派の目標にたいする障害になっていると思った。日本びいきの元陸軍語学将校で『ロイター通信』東京特派員のマルコム・ケネディ(Malcom Kennedy)<(コラム#4540、4719)>は1936年3月3日付けの日記に、日英関係緊密化に向けての著名な推進論者である『モーニング・ポスト』紙編集長のH・A・グイン(H. A. Gwynne)<(コラム#4685、4730)>と満州国財務顧問のアーサー・エドワーズ(Arthur Edwards)<(コラム#4685、4687、4730、4732、4978)>との昼食の席上、クライヴはこっぴどく批判されたと記している。マルコム・ケネディを含めたこれら3人は、日本の軍部がジョージ5世薨去の葬儀の式典に千人の儀仗兵を派遣するという折角の申し出をクライヴが断ったことを嘆き悔み、また1934年9月の英国産業連盟使節団一行の天皇陛下拝謁の件でも大失敗をしたことも記している。
(注13)Admiral Sir Charles James Colebrooke Little。1882~1973年。海兵。
http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Little
東京の英国大使館の内部でも意見の不一致や対立があった。1935年、陸軍省は日英関係改善のために大の日本びいきのピゴット少将(Major-General F. S. Piggott)を英国大使館付き武官とする人事をきめた。クライヴは、ピゴット少将が自分の部下としてその判断に自分が信頼できない、政策の根幹において意見を異にする人物であり、厄介であるとして、この人事が気に入らなかった。残念なことに陸軍省は断固として譲らず、ピゴット少将は1936年の夏に着任した。着任早々からピゴット少将はクライヴと意見が衝突し始めた。ピゴット少将は日本の軍部内は一般的には対英融和歓迎ムードであると確信していた。それにたいし、クライヴは日本の軍部のムードは最近改善しているかもしれないということは認めたうえで、ピゴット少将よりはるかに多くの日本の経験を積んでいるジョージ・サンソム参事官の意見をもとに、そのことは決して日本側と実現可能な合意が成立することを示唆するものではない、それというのも日本に受け入れられる条件は必ず中国と米国を怒らせるからであると論じた。・・・<クライヴ>は1937年夏に離任してロンドンに帰ってきてから、サンソムが引き続き日本に残れるようサンソムの昇進・昇格を関係者に働きかけている。
クライヴは任期満了近くになって再び日英融和回復を楽観したときがあった。それは英国財務省、吉田茂大使、あるいはピゴット少将の策謀とは何の関係もなく、1937年3月に佐藤尚武<(注14)(コラム#4274、4378)>が日本の外務大臣に就任したからである。クライヴは佐藤尚武を高く買っており、彼こそは真の親英家で真の日英和解に動いてくれるだろうと信じていた。・・・
(注14)1882~1971年。東京商業学校(一橋大学の前身)全科卒、同専攻部領事科中退。1905年外務省入省。林内閣で外務大臣、戦後には参議院議長等を歴任、第二次世界大戦末期のソ連対日参戦当時の駐ソビエト連邦大使。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%B0%9A%E6%AD%A6
ところが佐藤が外相として入閣している内閣は・・・クライヴの大使としての任期<が>・・・1937年5月に終了した・・・その月の終わりに倒れ、1937年・・・7月に中国北部で戦闘[盧溝橋事件]が始まり、クライヴのこれらの希望はみごとに粉砕された。・・・
全体的な彼の印象は非常に本省の考えにそった意見をもつ外交官という感じである。彼は用心深い男であり、外交は伝統的チャネルにのっとった形でのみ進めることを望んだ。彼は日英和解の可能性をいつまでも模索し模索をあきらめることはなかったが、同時に彼は無理、拙速は避けるべきであると考えた。・・・」(276~279、282頁)
→クライヴがピゴットと合わないのは当たり前です。
また、クライヴが佐藤尚武を買っていた理由はよく分かりません。私自身は以前(コラム#4378で)記したように、佐藤をまったく買っていません。
とにかく、このように、クライヴが、彼の前任のリンドリーが予見したところの将来における必然的日英衝突の回避を試みるどころか、一層日英関係を悪化させたために、クライヴの後任のクレイギーは、もはや手の施しようのない状況下でクライヴからバトンを渡される羽目になったわけです。(太田)
(完)
歴代の駐日英国大使(その6)
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