太田述正コラム#5058(2011.10.17)
<戦間期の排日貨(その4)>(2012.1.6公開)
「この時期、日本外務省と海軍の意志疎通は極めて不十分だった。各々が孤立して活動し、それぞれの目的を追求していた。・・・
1931年夏の排日貨への対処に際しても日本外務省と海軍との間の信頼、連絡の欠如は深刻であった。7月31日の金曜会の会合で、海軍は<上海のいわゆるバンド(外灘)が面するところの、黄浦江と呼ばれる
http://www.shanghai-guide.jp/shanghai_maps/manufacture.html (太田)
>運河を監視できないかという意見が出された。桑原・・・重遠<(注10)>上海在勤武官・・・は会合の最中には確たる回答を与えなかったが、8月3日、塩沢<第一遣外艦隊司令官>は所属部隊に「当分の間上海に於て邦貨没収行はれんとする場合には」、「直に兵力を派遣して其の不法行為を取締まるべし」という命令を発した。この命令は兵力派遣の時期として、「領事館より依頼ありたる場合又は被害関係者より直接依頼あり必要と認めたる場合」と規定していた。
(注10)熊本市出身。海兵46期。最終的に海軍大佐。開戦時の軍令部第3部第6課長。
http://hush.gooside.com/Order/GF/Office.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%B8%82%E5%87%BA%E8%BA%AB%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%B8%80%E8%A6%A7
8月5日、上海の総領事館は上記の命令が出されたという通報を受けると、あらかじめ協議がなかったことに大きな衝撃を受けた。村井総領事は北岡春雄<(注11)>公使館付武官を通じて即座に抗議した。・・・しかし、村井の抗議と行き違いに、塩沢の部下である柴山昌生<(注12)>上海陸戦隊指揮官から、日本品の没収を防止するようにとの命令が出された。8月7日の金曜会会合では桑原武官から、海軍は暴行を防止することに決定したとの報告がなされた。外務省は、塩沢や上海海軍陸戦隊の命令が1898年に海軍省が出した軍艦外務<(注13)>令に反すると信じた。・・・
(注11)海兵34期。最終的に海軍少将。1932~33年:戦艦霧島艦長。
http://homepage2.nifty.com/nishidah/px34.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%A7%E5%B3%B6_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
(注12)1884~1952年。海兵35期。男爵。最終的に海軍少将。
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/shibayama_ma.html
(注13)「日本海軍では、平時の海洋秩序等に関する慣習国際法を明示するものとして、1885年・・・に「外国派遣司令官艦長訓令」を、1898年・・・には「軍艦外務令」を定めたのである。・・・これは、日本海軍の軍艦が平時、外国の領海や公海上にある時に準拠すべき事項や軍艦としての不測事態対処要領を定めたものである。現在は、日本海軍の消滅と共に効力を失ってしまってはいるが、当時の慣習国際法に則って定めたものであり、現在の国連海洋法条約及びその他の慣習国際法に定める軍艦の権限等に関する規定と基本的に差異はない。」
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1999/00557/contents/103.htm
第23条 指揮官は帝国臣民の生命自由又は財産に非常の危害を被らんとし其国の政府之か任を尽さす且我兵力を用ふる外他に保護の途なきときに限り兵力を用ゆることを得此の場合に於ては先つ其地に駐在せる我外交官又は領事官と協議すへし但危急の場合に際し予め我外交官又は領事官と協議する遑なきときは此の限りにあらす前項の場合に於て其地に我外交官又は領事官駐在せさるときは成るへく其他の所轄庁の承諾を求むへきことに注意すへし
8月8日、村井は塩沢を旗艦安宅に訪ね、話し合った。塩沢は、直に実力に訴えるつもりはないと村井に語った。それでも塩沢は、日本品が日本艦隊の停泊地付近で没収されようとする場合、反日会の思うままにさせては日本の権威を損なうので、そのような場合に、もし必要を認めれば、海軍は不法行為をやめさせるつもりだと続けた。
幣原も塩沢の命令を「甚た面白からす」と考えた。命令が重光<公使>や村井<総領事>との事前協議なしに出されており、また、被害者からの直接の依頼だけで海軍が行動を起こすことができるとしていたためである。幣原はこの条件が軍艦外務令に違反すると信じ、海軍省と協議することに決めた。
8月14日、海軍省の堀悌吉軍務局長は塩沢に対して、塩沢の命令に同感ではあるものの、塩沢と村井の間に誤解があったようなので塩沢はこの誤解を解き、今後は上海の情勢につき以前よりいっそう総領事館と協議を重ねるよう指示した。塩沢の命令が明らかに軍艦外務令に違反していたために、海軍省は外務省の意見を入れた。しかし、塩沢の命令自体は撤回されたわけではなかった。海軍省の指示は、堀と同期の塩沢が面目を失わないよう配慮して起草されていた。塩沢は以前よりもさらに十分事態を協議し、「存在したように思われる」誤解を解くように指示されたのみであった。
塩沢の命令は効力を持ち続け、満州事変勃発後1931年10月19日の第一遣外艦隊第4回所轄長会議で諸艦長に説明された。・・・
外務省と海軍省が交渉している間に<も>、塩沢の命令に従って海軍陸戦隊が数回出動<した。>・・・
これらすべての場合において、総領事館は全く相談を受けず、ただ事後に報告を受けたのみであった。
水兵出動の効果は上海の日本人商工業者にとって印象的だった。したがって彼らは、総領事館ではなく海軍に頼るべきだという考えを強めていった。彼らは総領事館の鈍い反応に非常に不満で、総領事館は全く助力する気がないと考えてもいた。たとえば、8月12日、ある貿易会社の昆布が反日会に没収された。その会社は没収されたことを総領事館に伝えたが、総領事館はその会社の不注意を責めただけだった。そして、商品の返還を自力で交渉するよう、その会社に告げたのであった。
総領事館のこの姿勢には、この年4月4日から8日まで青島で開催された山東領事会議の決定なども影響していたのかも知れない。この会議では、経済発展の方法として大資本の誘致を提案する一方、官憲に対する依頼心や射幸心の強い弱小企業は切り捨てる方針が出されていたという。
8月20日、『上海日日新聞』はついに日本外交当局の「無能無知」を批判した。新聞によると、人々は総領事館当局による4回の「所謂厳重抗議」に不満であり、その理由は強奪された貨物が返還されず、抗議自体も重光公使によって正式になされたものではないからであった。さらに、総領事館は海軍による被害者救助を批判しているが、これは筋違いだ、というのであった。・・・
日本と同様に中国に多くの権益を持っていたイギリスおよびイギリス人も、1925年から26年にかけて広州でのボイコットに悩まされた際に、ボイコット組織の船に海軍力で対抗した。この時のイギリスの目的が広州の国民政府に反英行為を中止させることに限られていたのと同様に、1931年夏の上海における日本人の目的も、反日運動の抑圧に限られていた。1931年夏の上海における日本の対応と1926年夏の広東でのイギリスの対応は目的と手段において類似していた。
しかし、両国には軍事力の行使に際して重要な相違点があった。1926年のイギリスでは、実力行使の意味とその結果・影響について広州、香港、イギリス本国で注意深く検討が重ねられた後、広州総領事の要請に基づき、外務省、海軍省の合意によって海軍に出動指令が出された。これに対し、1931年の上海において、決定は現地日本海軍指揮官の単独で下され、彼は公使や総領事に相談することすらしなかった。1926年のイギリスでは外務省が主導権を握り、軍事力は外交交渉の道具と位置づけられていた。政府は全体としてうまく機能していた。しかし1931年に第一遣外艦隊が行動を起こした時、日本外務省や総領事館は完全に不意をつかれた。また、塩沢の命令をめぐり、外務省は問題が望んだ通りに解決されたと信じたが、塩沢が海軍省から受け取った指示は曖昧で、彼の命令が撤回・変更されることもなかった。日本外務省と海軍はそれぞれの目的を保持し、相互の連絡・意志疎通が不十分であったのみならず、時には互いに不信感を抱き、意図的に情報を伝えないこともあったのである。両者を統制する政府の機能は低下していた。・・・」(222、223~231頁)
→後で、後藤による本件の分析を紹介し、それに対する私のコメントを付しますが、その前に、とりあえず、以下のことを申し上げておきましょう。
まず、「両者を統制する政府の機能は低下していた」という上掲の末尾の文章は、日本の日本型政治経済体制化の進展を示しているわけですが、こんな「平時」においては、本来、中央政府の統制機能が働いていなくても、政府の末端諸機能同士の調整で十分対処が可能であるはずなのです。
いや、むしろ、いちいち中央にまで話を挙げなければことが進まない、非日本型政治経済体制下の諸国、例えば英国などに比べて、対処が、より迅速、かつ円滑に行われてしかるべきなのです。
ところがどっこい、そうはならなかったわけですが、一体その原因はどこにあったのでしょうか。
もうお分かりでしょう。
当時の日本の外務省及び外交官が、貴族然としていて超然的であったこと等から、「無能無知」であったため、支那在留日本人達からも現地の帝国海軍部隊からも、現地の公使館や総領事館と調整しても埒が明かないと見はなされていた、ということなのです。
(続く)
戦間期の排日貨(その4)
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