太田述正コラム#0061(2002.9.29)
<スイスとイギリス>
8月の終わりに家族でスイス旅行をしたおり、スイスのことを色々考えさせられました。
スイスでは、ジュネーブ→ツェルマット(マッターホルン、氷河特急)→キューボーデン(アレッチ氷河・エッギスホルン)→ツーン(アイガー・ユングフラウ、ツーン湖・ブリエンツ湖)→ブリエンツ(ロートホルン、ライヒェンバッハ滝)→チューリッヒ、の順に鉄道で移動し、それぞれの町に1??2泊しました。カッコ内は、そこを拠点にして訪問した主たる観光スポットです。
そして改めて思い至ったのは、スイスとイギリスは因縁浅からぬものがあるということです。
第一に両者には似通っている点があります。
それは、どちらもゲルマン民族大移動の時代に、ヨーロッパ亜大陸の僻地にゲルマン人・・イギリスにあってはアングル、サクソン、ジュート支族(=アングロサクソン)、そしてスイスにあってはアレマン支族・・が、先住民のケルト人を更なる辺境に蹴散らしたところから歴史が始まったからです。(ちなみに、ツーンとブリエンツという町の名前は、いずれもケルト時代の地名に由来しています。)(http://www.econ.kyoto-u.ac.jp/~kurosawa/Helvetia.html(8月3日アクセス)、中の斎藤泰論考参照)
スイスは基本的に山国、イギリスは基本的に島国であったがゆえに、攻めるに難く守りに易かった点も共通しています。
このような環境の下で、スイスにおいても、イギリスにおいても、戦争を生業とし、戦士たる成年男子が全員参加する集会で指導者が選ばれ重要事項が決定されるという、ゲルマン社会の基本的骨格が維持されました。両者に共通する国民総武装の考え方、伝統的なスイスにおける直接民主制(同、中の関根照彦論考参照)、イギリスにおける議会制がそれです。(ツーンは軍都でもあるので夜の飲み屋が軍服を着た若者達であふれていたのは当然かもしれませんが、鉄道を利用するたびに同じコンパートメントの中で軍服を着た乗客を必ずと言ってよいほど目にしました。)
第二に、両者は、それぞれ欧州文明とアングロサクソン文明の源であり、その両文明のせめぎあいが世界の近現代史を形作ってきたということです。
ともにゲルマン社会の基本的骨格を維持しつつも、私見によれば、スイスとイギリスが、それぞれ「一般意志の優越」と「個人の自由の尊重」とを中心的価値とする対蹠的な二つの文明の源になった原因は、スイスが四囲からローマ文明の圧倒的影響に晒され続けたのに対し、イギリスはローマ文明の影響を殆ど受けなかったからであり、また、16世紀に、スイスはプロト欧州文明たるカトリック文明をいわば再継承した(後述)のに対し、イギリスは(ヘンリー8世によって、)カトリック文明と意識的に絶縁したからであり、その背景の一つとして、スイスはやせた山地で農牧畜業生産性が低かった(=力を合わせ、乏しきを分かち合わなければならなかった)のに対し、イギリスは地味豊かな平地で農牧畜業生産性が高かった(=個人主義の貫徹というぜいたくが許された)ことがあげられると私は考えています。
スイスが欧州文明の源だというのは私の仮説に過ぎず、今後きちんと検証しなければなりませんが、どうしてそう考えるに至ったかに、簡単に触れておきます。
1 スイスは1291年にドイツ語圏の三つの地域が手を携えて、(もともとはスイスが起源(注)の)ハプスブルグ家の封建的支配からの独立(神聖ローマ帝国からの離脱も意味する)を目指したことに始まりますが、これは、騎士相互の土地を媒介とした主従契約関係の網の目からなる封建制度から、領域の一元的支配を前提とした国民国家制度への欧州地域全体の転換のさきがけとなった画期的な出来事だった(同、中の森田安一論考参照)、
(注)「ハプスブルク一族は、・・今日<の>スイスの北部及び南西ドイツに居住していたアレマン族であった。この一族はスイス、アールガウに立つ「ハービヒツブルク(鷹の城(太田))城」にその姓をとり、11、12世紀より政治的にのし上がってきた。」(『栄光のハプスブルク家展』東武美術館1992年、19頁)
2 その後、スイスは、ドイツ語圏を超えて、フランス語圏、イタリア語圏、更にはレートロマンス語圏の地域を取り込み拡大します。つまりは、複数の言語・文化圏を包摂した「国民国家」の形成が可能であることを示し、現在のEUに至る欧州統合運動のさきがけとなった(同、中の曽田長人論考参照)、
3 16世紀の欧州における宗教改革は、ドイツのルターが先鞭をきったことになっていますが、ルターが目指したのは、主観的にはカトリック教会の改革に過ぎなかった(http://www.wsu.edu/~dee/REFORM/LUTHER.HTM。8月5日アクセス)のに対し、カトリックにかわる新しいキリスト教宗派を創立し、(カトリックが異端や棄教を許さなかったのと同様、)社会の構成員に新宗派への「転向」を強要するという意味での「真の」プロテスタント運動の創始者はチューリッヒのツウィングリ(http://www.wsu.edu/~dee/REFORM/ZWINGLI.HTM。8月5日アクセス)とジュネーブのカルヴィン(http://www.wsu.edu/~dee/REFORM/CALVIN.HTM。8月5日アクセス)であり(注)、宗教「改革」運動及びこれに対抗する反宗教「改革」運動はスイスに始まったとみなしうる(同、中の米原小百合論考参照)、
(注)スイス国内の「宗教戦争」後締結された1531年の平和条約で、各地域の統治機関が選択した信仰がその地域の信仰とされる原則が確立した。(森田安一『物語 スイスの歴史――知恵ある孤高の小国』中公新書2000年、111頁)
4 欧州における、18世紀のフランス革命に始まる民主主義的ナショナリズムのうねりの思想的根拠を与えたのは、郷土の先輩、カルヴィンを崇拝するジュネーブ人(スイス人)ルソーの「社会契約論」でしたが、そのルソーは厳しい共同体的規制(=一般意志!)の下にあったスイス諸都市国家、就中ジュネーブを念頭にこの本を著した、(同、中の小林淑憲論考参照。なお、「社会契約論」(岩波文庫版)61頁には、「カルヴィンを神学者としてしか考えない人々は、彼の天分の広さをよく知らないのだ。彼が大いに力をかしたわが国〔ジュネーブ〕の賢明な諸法令の編さんは、彼の「綱要」と同程度に、彼の名誉をなすものである。時の経過とともに、われわれの信仰にいかなる革命がもたらされようとも、祖国と自由との愛がわれわれの間から消え去らないかぎり、この偉人の記憶は、われわれの祝福の的たることを、決してやめないであろう。」とある(64頁)。)
ことからです。
3は、欧州に宗教がらみの紛争の嵐を巻き起こしました。ドイツ地域は17世紀の30年戦争(1618-1648年)によって人口の半分以下への激減を伴う壊滅的な打撃を受けました(http://www.geocities.jp/timeway/kougi-65.html。10月1日アクセス)し、あの冷静で常識的なイギリス人すら、一時的に(カルヴィニズムの系譜につながる)ピューリタニズムにかぶれ、イギリス史における唯一のaberration(=常軌の逸脱)たる、内乱(1642-49年。49年に国王処刑)・共和制時代を経験することになります。そのイギリスが本来の姿に戻ったのは、王政復古(1660年)と名誉革命(1688年)によってです(http://db.gakken.co.jp/jiten/sa/223750.htm参照(10月1日アクセス))。ちなみに米国は、初期の移民にピューリタンが多かったことから、アングロサクソン諸国の中では例外的に現在でもキリスト教ファンダメンタリズムの強い影響下にあることを忘れてはなりません。
とりわけ重大なことは、この3に加え、4によって、スイスが、国家の全成員が特定のイデオロギーを信奉させられる形の近代的独裁国家という怪物を産み出したことです。欧州における(フランスやドイツの)帝国主義的ナショナリズム、(ドイツで生まれ、ロシアに移植され、先の大戦後欧州東部に押しつけられた)マルキシズム、(ドイツやイタリアでの)ファシズムといった同工異曲の粗暴な全体主義イデオロギーの跋扈及び、うち続く革命・戦乱並びにその度ごとの社会の荒廃が、スイスを源とする欧州文明の論理的帰結でした。
その最初の被害者の一つがスイス自身であったことは歴史の皮肉というべきでしょう。1798年には帝国主義的ナショナリズムにとりつかれたフランス(ナポレオン)によってスイスは征服、解体され、一旦滅亡してしまうのです(Jim Ring後掲書PP21)。
第三に、しかるに、現代のスイスを形作ったのは、ほかならぬイギリスだということです。
このことを強調するのが、ツーンの本屋でたまたま入手したJim Ring, How the English made the Alps, John Murray 2000 です。
18世紀に入ると、イギリスの上流階級は、盛んにフランスやオランダ・ベルギー、ドイツ経由で、ローマやルネッサンスの面影を求めてイタリアにでかけるようになります(=いわゆるgrand tour)。欧州の諸国の人々にとっては海外旅行など、高嶺の花だった時代にです(同PP15-16)。
19世紀に入ってからは、蒸気機関の発明、普及に伴ってイギリス人の海外旅行熱はますます高じましたが、とりわけ人気を博したのがスイス旅行、就中アルプス見学・登山でした。この時代を象徴するのが、(悲劇に終わった)イギリス人ウィンパーによるマッターホルン初登頂(1865年)です(同PP78)。この頃、イギリス人トーマス・クックは、商品化して間もなかった海外向けパックツアーとしてスイス旅行を売り出し、イギリスにおける海外旅行の大衆化が一挙に進みます(同PP85-86)。
また、登山を含め、ありとあらゆる近代スポーツを産み出したイギリスは、アルプスを舞台に(スカンディナビアスキーを改良した)スポーツとしての近代スキー等のウィンタースポーツを産み出し、スイス内外に普及させていきます(同PP128,136)。
このイギリス人観光客向けに観光業はもとより、スイスの金融業が発展し、また、イギリス人観光客が好んで求めた時計や乳製品に関わる産業が発展します(同PP171)。
まさにイギリスのおかげで貧しかったスイスは豊かな国へと変貌を遂げ、1950年にはスイスの一人当たり国民所得がイギリスを追い抜くに至ります(同PP264)。世界一豊かな現在のスイスはイギリスの賜なのです。(イギリスは料理だけは全くいけませんが、イギリス人にあらゆることを仕込まれたスイスの料理も同様であることはご愛敬です。)