太田述正コラム#5064(2011.10.20)
<戦間期の排日貨(その7)>(2012.1.10公開)
「1932年になると状況はさらに険悪になった。1月8日、東京で朝鮮人が天皇を暗殺しようとした桜田門事件が起こったが、9日、国民党機関紙『民国日報』は損害が「不幸なことに」ごくわずかだったと報じた。上海の日本人は憤り、村井もこの記事について呉鉄城新市長に抗議した。重光は、前年12月13日に成立した犬養毅政友会内閣の外相となった芳沢と事態を協議するために帰朝した。
1月18日、共同租界の北に隣接する中国人の居住地区閘北において50人から60人の中国人が2名の日蓮宗僧侶を含む日本人5名を襲い、襲われた者のうち2名は死亡するという事件が起こった。20日、日本青年同志会の約40名が閘北の・・・三友実業タオル工場に火をつけた。この工場は反日活動で有名であり、その労働者は僧侶襲撃にも関係したと言われていた。帰路、この日本人たちは租界警察の中国人警察官と衝突し、警察官と日本人各1名が死亡し、双方に数名の負傷者が出る事態となった。・・・
当時少佐で公使館付武官補佐官であった田中隆吉が、僧侶の襲撃を計画したのは自分だと、1956年になって言い出した。田中によれば、1931年10月初頭、関東軍参謀板垣征四郎大佐が列国の注意を満州からそらすために上海で事件を起こすように田中に依頼したというのである。・・・田中は、中国人を買収し僧侶を襲わせたというのである。田中自身の証言以外に証拠はなく、1956年に至るまでこの襲撃も謀略の結果だとはだれも思い至らなかった。
1月20日、『民国日報』は、三友タオル工場の襲撃は日本海軍陸戦隊が支援したという根拠のない報道をした。・・・共同租界参事会・・・は民国日報社を閉鎖することに決した。『民国日報』の編集者は、6日後、自発的に会社を閉鎖することに決した。
一方、村井上海総領事は、<1932年>1月21日、僧侶殺害に関する4項目の要求を呉市長に提示した。・・・
呉は28日・・・にすべての要求を受け容れ<た。>・・・<しかし、>居留民は完全な興奮状態にあった。
1月28日・・・工部局は、・・・午後4時に・・・戒厳令<を>布告<し>た。・・・戒厳令が布告されると各国軍隊が区画分担主義に基づいて共同租界を防衛することとなっていた。イギリス、アメリカ、フランス、イタリアの軍隊は午後6時までに分担区画に着いた。しかし、日本海軍陸戦隊は午後11時20分まで・・・閘北に入らなかった。・・・
1931年・・・12月18日には、閘北の一部が日本の守備区域として割り当てられた<という経緯があるが、>租界当局はこの取り決めを中国側に通知していなかった。・・・<これは、>導火線に火をつけるような、あまりにも不注意な防衛計画であった。・・・」(239~241頁)
→後藤は、「共同租界の北に隣接する中国人の居住地区」を日本の守備区域として割り当てたことを「あまりにも不注意」であったと主張していますが、閘北地区とは、要するに日本人街たる紅口地区等
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89
http://www.shanghai-guide.jp/shanghai_maps/concession.html
であることからすれば、それなりに合理性がある割り当てであったと言うべきでしょう。
なお、『民国日報』による、累次のひどい反日記事は、中国国民党政府が国民党一党独裁政府であって、『民国日報』が同党の機関紙である以上は、中国国民党政府による対日誹謗であり、日本政府は、直接、中国国民党政府に対し、強硬な抗議を行ってしかるべきでした。
付言しますが、僧侶等殺害事件に関する田中隆吉の証言は、それを裏付ける他の証拠が皆無であること、かつ彼の人格に疑問符が付くこと(コラム#4534、4614)から、極めて信憑性に乏しい、と言うべきでしょう。 (太田)
「塩沢は、この租界防衛計画と夜の闇を利用して攻撃を開始したように思われる。重光は、「海軍側の態度の変化は充分に判明せさるも、要するに日本全体の空気に支配せられ、強硬論を唱へ極端に昂奮し来りたる居留民及部下を抑へるの方法なかりしものと認めらる」と観察した。・・・日本海軍陸戦隊の兵力がわずかに1833であったのに対し、広州からやって来て1月25日以降上海地域に部隊を動かしていた士気の高い中国第19路軍の兵力は3万3500であった。
1932年1月28日の真夜中ごろ、日本海軍陸戦隊は閘北で第19路軍と衝突した。」(241~242頁)
→後藤は、工部局による戒厳令の背景として、「「・・・呉市長が日本の要求を容れたることを聞くや之を憤慨したる多数の学生等は大挙して市役所を襲ひて暴行し、公安隊の巡警は逃亡するの有様にて、支那の避難民は続々として我居留地に入り来り、物情騒然たる」という状況であった」(枢密院における大角海軍大臣発言)ことにも、「第19路軍<は、それを率いる蔡廷鍇の私兵であって、>上海の街を手に入れようとしているというのが共同租界防衛委員会の全員の意見だった」(ハリエット・サージェント『上海―魔都100年の興亡』)ことにも
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89 前掲
全く言及していません。
また、後藤は、重光公使の芳沢外相宛て公信(254頁)を引用していますが、第19路軍が上海に入り始めたのが1月25日であり、海軍陸戦隊が割り当てられた守備区域に入ったのが1月28日であって、しかも、各国軍がそれぞれの守備区域に入ってから5時間半近く経った、当日の真夜中であったところ、守備区域に入ってからすぐ両者の間で戦闘が始まったというのですから、支那側の「学生等」と「第19路軍」が日本に対する挑発行為を行ったのは明白であるところ、重光の公信は、塩沢に対する偏見に満ちた、事実を捻じ曲げたものであって、後藤は、こんな公信を何の留保もなく引用することは、控えるべきでした。
ちなみに、帝国海軍は、「我警備区域の部署に著かむとする際、突然側面より支那兵の射撃を受け、忽ち90余名の死傷者を出すに到れり。依て直に土嚢鉄条網を以て之に対する防御工事を施せり。元来此等の陸戦隊を配備したるは、学生、労働者等、暴民の闖入を防止するが目的にして、警察官援助に過ぎざりき。然るに、翌朝に至り前夜我兵を攻撃したるは、支那の正規兵にして広東の19路軍なること判明せり。」(枢密院における大角海軍大臣発言)、「「我司令官は陸戦隊の担任区域が支那軍と接するので不慮の衝突を避ける為、陸戦隊を配備に付けるに先ち、閘北方面に集結した支那軍隊の敵対施設を速に撤退することを要望する旨の声明を前以て発表し、且つ之を上海市長等に通告する等慎重周到なる手段を尽くしたのである。更に又陸戦隊の配備に就くに当っては、予め指揮官から「敵が攻撃に出ざる限り我より進んで攻撃行動を執るべからざる」命令をも与えて居るのである。」(日本海軍省「上海事変と帝国海軍の行動」)と主張している
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89 上掲
ところです。(太田)
(続く)
戦間期の排日貨(その7)
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