太田述正コラム#2359(2008.2.11)
<新著断章>(2012.1.27公開)
1 始めに
 現在編纂・執筆中の私の新著は、昨年来私がマスコミに出演したり、私について報道がなされたりした時に、疑問を抱いたりもっと知りたいと思った視聴者や読者に対し、私の主張の全体像を簡潔かつ体系的に提示する、というコンセプトに落ち着きつつあります。
 既にこのような観点から、これまでのコラムで必ずしも十分説明してこなかった事柄について、非公開コラム等で新規に書き下ろして来たところですが、この非公開コラムもその一環です。
2 戦後日本保護国論について
 私は、憲法第9条と日米安保条約の下、日本は文字通り米国の保護国(属国)であると指摘(コラム#1823、2300等)した上で、「保護国の原住民としての生き様に徹するのなら、自衛隊を廃止して、防衛費は思いやり経費だけにして全部宗主国の米国に貢いでしまえばいいのです。そうすれば、今のままではドブに棄てているに等しい防衛費も米国によってより活かされるでしょう」と以前(コラム#2145で)申し上げたところです。
 これは、占領期に戻したら、という反語的指摘です。
 先の大戦での敗戦後、日本は連合国、と言っても内実は米国の占領下に置かれますが、占領軍の駐留経費は日本政府が「終戦処理費」名目で支払わされました。
 1952年に占領が終了するまでの間、日本が支払った終戦処理費は総額で約5,100億円(当時の換算レートで約47億米ドル)に達し、占領初期の頃は終戦処理費は一般会計の三分の一も占めていました。
 (以上、
http://g3s.gunmablog.net/e3566.html
。2月11日アクセス。以下同じ)による。)
 当然これは疲弊しきっていた当時の日本経済にとって大きな負担となりました。
 後に首相になる石橋湛山は、蔵相当時、占領軍当局に対して、終戦処理費をめぐる占領軍の乱費などに抗議しながら、厳しく終戦処理費の削減を訴えました。湛山がその後公職追放になったのはこのせいであるとする指摘もあります(
http://www.waseda-garden.net/oonishi/2007/07/604.html)。
 警察予備隊が設けられたのは1950年のことですから、占領時代には基本的に日本は自前の防衛力は持っていなかったわけです。
 しかし、とにもかくにも日本は再び防衛力を保有することになり、また、1952年には占領が終了したのですから、日本は憲法を改正するなり政府憲法解釈を変更するなりして、双務的な日米安保条約を締結し、真剣に防衛力の整備に取り組むべきであったのに、日本の指導層は吉田ドクトリンを墨守することとし、これらを怠りました。
 それでも、当然のことですが、占領の終了と同時に終戦処理費の新規計上は行われなくなります。(占領中に終戦処理費で行われた契約の執行の形での終戦処理費の支出は続けられたようだ。)
 ところが、あろうことか1978年に日本政府は米軍駐留経費(思いやり)の負担を再開してしまうのです。
 再開は、駐留軍基地の日本人従業員の労務費(給与)の一部負担62億円から始まりました。
 占領が終了した時点で終戦処理費からの支弁がなされなくなり、米国が100%負担することとなった労務費(
http://www9.ocn.ne.jp/~gflumabu/pfzenchuro.htm
)を、一部と言えども日本が負担することになったのですから、これは占領時代への逆行であると言われても致し方ないでしょう。
 翌1979年からは提供施設整備の負担、1991年からは光熱水料の負担、そして1996年からは訓練移転費の負担が始まり、1997年度には当初予算で歳出ベース2,737億円契約ベース2,820億円という巨額に達します。
 そして、停滞期に入った日本経済の下、このような米国への大盤振るまいは続けられなくなり、翌年度から思いやりはほんの少しずつ減額されていくことになるのです。
 しかし、現在の2007年度予算でも、依然思いやりは年2,000億円を超えています。
 しかもこれから、天文学的な在日米軍再編経費の負担・・その中には海兵隊のグアム移駐費も含まれる・・が始まろうとしています。
 もう一度繰り返しましょう。
 思いやりを全廃して米国から自立するか、自衛隊を全廃して防衛費全てを思いやりに振り替えて米国の植民地になるか(、更には米国との合邦をめざすか)、日本国民はいつまでこの究極の選択を先延ばしにするつもりなのでしょうか。
 (以上、思いやりの経緯や計数については、
http://www.mod.go.jp/j/defense/US_keihi/suii_table_53-60.html
以下、による。)
3 防衛白書にCD-ROMを添付するまでの艱難辛苦
 私はかねてより、防衛省キャリアは退廃し、腐敗していると指摘してきたところですが、笑い話のようなことを、官房審議官の時に経験しました。
 防衛白書を発行してからしばらく経ってから防衛白書のCD-ROM版を発行していたのを、防衛白書にCD-ROMを添付して発行しようとしたところ、少年探偵団ごっこをやる羽目になったという話です。
 1998年7月に審議官になるとすぐに私は上記構想の実現に向けて動き始めました。
 初めての試みなので、作業量の増大は間違いないが、人員増は望むべくもないので、内局要員(課長補佐級1名、係員級1名)、陸海空要員(佐官級3名、曹1名)中、佐官級の3名は8月中には各幕勤務に発令されていることから、この3名でもって白書室を例年より2ヶ月早く9月に発足させることを考えたのです。
 この計画には、白書を担当している内局の総務課と、人事を担当している内局の秘書課も賛成し、8月31日に当時の藤島正之官房長(注)に話を上げてくれたのですが、白書室の前倒し発足にノーと言ったというので呆れかえりました。
 (注)苦学して中大法卒、司法試験にも合格。1998年に調達実施本部不祥事絡みで退官し、2000年に自由党から九州全8県し、再選を目指すも落選(
http://kensblogfromjapan.blogspot.com/2003/12/news-291web.html)。
 そこで、カネもヒトも求めずに時代に即したことをやろうとしているにもかかわらず、認めないというのでは、直接藤島氏に話をしてもムダだ、と私自身の責任で事実上の前倒し発足を試みることにしたのです。
 ただし、9月にまず1名、そして10月に2名自衛官の要員を前倒しで私に提供してもらう、というラインで我慢することにしました。官房長の意向に反することをやるのですから、余り派手には動けないからです。
 その日のうちに、海上幕僚長を海幕に訪問し、事情を話し、海自が差し出す白書要員を9月から使わせてもらうことを打診したところ、官房長が反対していることなど全く意に介しない様子であり、前向きの感触が得られました。
 次の白書では白書要員として自衛官3名のうちでは最先任の2佐を海自が提供することが決まっており、最初に私が使わせてもらうのはこの2佐と心に決めていたので私は喜びました。
 更にその日のうちに、CD-ROM付き白書を出したいと前に話したことがある秋山昌廣次官に白書についての状況説明を決行しました。これは、藤島官房長に白書室の事実上の前倒し発足がバレた場合に次官に助けてもらうことを期待してのことです。
 ところが秋山氏は、「ちゃんと官房長の了解をとれ。官房長の了解を得ず、自衛官を使うことには反対だ」とおっしゃる。
 秋山氏の正体見たりという思いで私はがっかりしましたが、官房長であれ、次官であれ、私は不合理な指示に服すつもりは全くありませんでした。ただし、次官まで反対しているという話はさすがに誰にも伝えないことにしました。
 9月1日、私は念のため、海幕人事教育部長にも本件の根回しをしました。
 2日、海幕の防衛課長が私のところにやってきて、本件について承知した旨の正式の回答を伝えました。(7日から、実際に海自要員が私の指示の下で作業を開始しました。)
 3日、調達実施本部不祥事絡みで調達実施本部、官房長室、装備局長室、広報課に検察の家宅捜索が入ります。
 これで白書室の事実上の前倒し発足を咎める余裕など藤島氏にはなくなったな、と私は密かに胸をなで下ろしたことを記憶しています。
 14日、再び検察が防衛庁の家宅捜索を行い、今度は官房長の官用車まで捜索の対象になります。
 この間私は、内局総務課から10月1日を期して白書室を事実上使わせてもらう了解を取り付けます。
 このように便宜を図ってくれたのは、総務課長以下が、藤島官房長の更迭が必至であると考えていたからでしょうが、彼らがそもそも官房長の上記ダメ出しに納得していなかったことが大きいと思います。
 (行政系コンピューターネットワークシステムの件では、同じ総務課長以下が課をあげて私に反旗を翻すのですが、この違いは、白書の件は全く新しい話であったのに対し、こちらは、彼ら及び彼らの前任者の責任が問われる話であったからではないでしょうか。)
 9月29日、私は今度は空幕長と陸幕長を訪問し、官房長が反対しているけれど、海幕長は要員を前倒し提供してくれた、と説明したところ、ご両人ともそれぞれ、要員前倒し提供に同意してくれました。
 そしてこの日の正午頃、私は藤島官房長らが更迭されたということを知るのです。
 こうして10月1日に、陸海空要員3名のほか、曹(女性)までが揃って白書室で執務を開始する運びとなるのです。
 いかがですか。
 CD-ROM付防衛白書ができあがるまでにはこんな少年探偵団的な経緯があったのですよ。
 防衛庁で・・防衛省になっても全く変わっていないはずです・・何か新しいことを始めるには、この程度のことであっても役人離れした蛮勇の発揮が求められるのです。
 そんな内局が、1998年当時既に3自衛隊からいかにバカにされ、浮き上がった存在になっていたかも実感されたのではないでしょうか。
 こうして1999年7月に、CD-ROM付き防衛白書が完成するのですが、防衛白書としては初めて大蔵省印刷局の年度重点広報図書に選ばれる等、おかげさまで大好評を博しました。