太田述正コラム#5100(2011.11.7)
<映画評論28:ザ・パシフィック(その5)>(2012.2.23公開)
ウ 私はどう考えるか
しかし、このTVシリーズの制作者自身、以上のような解釈では割り切れない思いを抱いているように見えます。
そのことを、一般視聴者の中で感じ取った人がいます。
「戦闘中の大混乱(chaos)と戦闘中断期間の混乱を執拗に描くことで、このシリーズは、もう一つの「厳しい(harsh)現実」をつきつける。
それは、まともな(decent)男達が、繰り返し繰り返し、顔の見えない自分達の政府によって食い物にされる(exploit)、というものだ。
この物語はTPの血なまぐさい外観においてははっきり見えないかもしれないが、それは、しつこいまでの悲惨な伏流なのだ。」(c)
次に掲げたのは、TPの中の一場面ではなく、上梓されたばかりの本が紹介している挿話です。
「ガダルカナルで、二人の疲労困憊した若い兵士が3人の日本兵の死体の首を切り取り、日本軍の前線から見える棒に突き刺した。
一人の将校が、「それは動物の所業ではないか、と激しく叱責」すると、その3人のうちの1人がこう答えた。
「そのとおりですよ、大佐殿。我々は動物です。我々は動物のように生き、動物のように食べ、動物のように扱われている。大佐殿は[ののしり言葉(こん畜生目(太田))]、ホントに<我々が人間らしい所業ができるなんて>期待を持ってるんですか?」と。」
http://www.washingtonpost.com/entertainment/books/inferno-the-world-at-war-1939-1945-by-max-hastings/2011/10/26/gIQAjVuRnM_print.html 前掲
(11月5日アクセス)
この米兵達は、日本人が残虐だとも動物的だとも言わず、自分達の国が日本に対してやっていること、自分達の国が自分達をして日本兵に対してやらせていることこそ、(一方的に)動物的なことだと言っているように受け取れます。
すなわち、彼らは、日本兵は人間(にんげん)だし、恐らくは、当時の日本そのものが人間的(にんげんてき)な国なのではないか、という問題提起を暗に行っているのではないでしょうか。
このように見てくると、「日本兵を非人間視する多数の米兵と、日本兵(や日本人一般)もまた自分達と全く同じ人間であるとして差別意識を乗り越える少数の米兵とに分かれて行<った>」(コラム#5094)というのが、TPの制作者達の、そして恐らくはTPが拠った2つの原作の筆者達のタテマエであったところ、どうやら、前者の米兵達の多くに関しても、彼らの深層心理は、後者の米兵達の日本兵観とさして違っていなかった可能性が高いのであって、TPの制作者達は、そして恐らくは2人の原作者達も、ホンネでは、米兵の大部分が、日本人ではなくて自分達の方こそ動物的である、と思うに至っていたことにうすうす気付いていたのではないでしょうか。
仮にそうだとして、どうして米兵達はそんな風に思うようになったのでしょうか。
ここから先は私の推測であり、見解です。
米兵達の思考過程は、日本兵が戦っているのは、天皇のためでも、武士道のためでも実はなさそうである上、自分達のように祖国や家族のためだけでも、かつまた自分達の国のように損得のためだけでもなく、何かもっと高次元の大義のためにも戦っているのではないか、だからこそ日本兵は決死の覚悟で徹底的に戦っているのではないか、また、だからこそ日本兵は自分達米兵の死体を冒涜するようなこともないのではないか、そして、ひょっとして、それらのことは、日本兵、ひいては日本が動物的ではなく人間(にんげん)的であるからこそであることを示しているのではないか、というものだったのではないでしょうか。
私の推測、見解を続けますが、それでは、日本兵自身はどう思っていたのでしょうか。
日本兵には将校と下士官・兵がいたわけですが、将校の意識は当時の日本人中のエリート層とほぼ同じで、下士官・兵の意識は当時の日本人中の大衆層と全く同じであったと見てよいでしょう。
まず、将校についてですが、彼らは、欧米由来の正戦(just war)の観念を、一応身に付けていたはずです。
ここで、英国で上梓されたばかりの正戦論を論じた本の書評を手掛かりとして、正戦とはいかなるものかを復習しておきましょう。
「正戦・・・<論の>伝統のルーツは聖アウグスティヌス(St Augustine)にあり、それが聖トマス・アクィナス(St Thomas Aquinas)によって更に発展させられ、16から17世紀にかけての法律家や神学者の書き物において頂点を極めた。
20世紀後半において、正戦論を復活する試みがなされたが、それは、当初は、核兵器の倫理性に係る議論に対応するためだった。・・・
正戦論は、常に、「戦争に訴えることによって世界の平穏を乱そうとする者に挙証責任がある」ということ力説してきた。
そして、戦争は、<一:>正統な政治的権威(competent authority)によって発動された(authorize)、<二:>正当な事由(just cause)のためであって、<三:>最後の手段(last resort)として、かつ、<四:>達成されるであろうところの善(good)が戦争そのものがもたらす害悪(harm)を上回る場合においてのみ許される、とされる。
そして、当然のことながら、非戦闘員は標的にされてはならない。<(注4)>・・・
(注4)四は「比例性(proportionality)」と呼ばれる。
通常これら四つのほか、五:成功する相当の可能性(reasonable prospect of success)、六:正しい意図(right intention・・被った害悪の矯正は可、物質的利得や経済の維持は不可)、が求められる。
このほか、七:比較的正義(Comparative justice・・相手の被った不正義より自分の被った不正義の方が大きいこと)を求める説もある。
なお、以上は、戦っても良い戦争の条件に係る「戦争のための法(Jus ad bellum)」に関するものであって、非戦闘員云々は、交戦時の容認される戦い方に係る「戦争における法(jJus in bello)」に関するものだ。
ちなみに、日本語ウィキペディアは、「成功の可能性」を列記しておらず、「比較的正義」にも言及していない。
http://en.wikipedia.org/wiki/Just_War
http://en.wikipedia.org/wiki/Jus_ad_bellum
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%88%A6%E8%AB%96
<最近では、正当な事由等の>リストに、<人道的介入を加えよ、或いは人道的介入を目的とする戦争しか正戦とは認められない、という主張がなされるようになった。>」
(以上、特に断っていない限り、下掲による。
http://www.ft.com/intl/cms/s/2/6ff94268-047d-11e1-ac2a-00144feabdc0.html#axzz1ctBxqn4J
(11月6日アクセス))
私は、日本の将校には、日本が、このような意味での正戦を戦っているという確信があったと思うのです。
どうしてか?
(続く)
映画評論28:ザ・パシフィック(その5)
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