太田述正コラム#5102(2011.11.8)
<映画評論28:ザ・パシフィック(その6)>(2012.2.24公開)
大東亜戦争は、日本政府という「正統な政治的権威」によって開戦が決定されたところ、それは石油を断たれた結果早晩日本の軍事力、就中海軍力が無力化し、東アジアにおける対赤露抑止が瓦解することを回避するためという「正当な事由」のためであり、日米外交交渉を重ねた挙句ハルノートを突き付けられたための「最後の手段」として、かつ、東アジアにおける対赤露抑止という善は戦争がもたらすであろう死傷者や物質的損害等の害悪を上回ると判断されたことから「比例性」要件を充たし・・その後生じたところの、国共内戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、大躍進、文化大革命等の悲劇は、改めて日本の開戦当時の判断の正しさが遺憾無きまでに裏付けられたと言える・・、開戦時には日本の現有戦力が質量ともに米英の東アジア太平洋地域現有戦力を上回っていたことから「成功する相当の可能性」があり、日支戦争に支那側に立って事実上参戦していた米英の参戦を止めさせるという「正しい意図」の下に、米英側は何ら不正義を被っておらず日本側だけが不正義を被っているとう「比較的正義」的状況下で、決行されたものであったからです。
次に下士官・兵についてですが、彼らは、正戦論などという七面倒な概念など関知しなかったでしょうが、人間(じんかん)主義的なものの考え方を自然に身に付けていて、大東亜戦争が、東アジアにおけるロシア抑止と文明の普及という、近代日本の国民的コンセンサスに立脚した人間主義的対外政策に対する悪質な妨害を排除するためのものであることを十二分に理解していたと考えられます。
(もちろん、将校も同様であり、これに加えて正戦論的な考え方をしていた、と私は考えています。)
その関連で、ケース・スタディ的に支那人の黄興(Huang Xing。1874~1916年)の軌跡を振り返ってみましょう。
彼は、1901年に、「柔道家・教育家の嘉納治五郎が<支那>からの留学生のために<東京>牛込に開いた教育機関」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%99%A2
である、日本の弘文学院(Tokyo Hongwen University)に留学し、日本滞在中に日本の将校から、その非番の時間に近代戦争について学ぶとともに、毎朝乗馬と射撃に勤しみました。
1903年に、ロシアの外蒙古及び満州での増大する覇権に対する抗議を行うために、彼は、日本で支那人学生200人からなる義勇兵を組織します。
そして、その年、支那に戻った黄興は、宋教仁(Song Jiaoren)(コラム#234、2098、2100、4948、4977)らとともに、清朝打倒を目指す華興会(Huaxinghui)をつくり、その総理になります。 その際、湖南の哥老会とも連絡を取りあいます。(注5)
(注5)この部分は、日本語ウィキペディアにしか言及がない。
ちなみに、哥老会(かろうかい)とは、「中国、清末に起こった秘密結社。天地会[(=三合会)]<(コラム#4908、4940)>の影響のもと、四川から湖南・湖北に広がった。反清復明を唱え、辛亥革命に参加。」
http://www.weblio.jp/content/%E5%93%A5%E8%80%81%E4%BC%9A
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E4%BC%9A ([]内)
その「成立は乾隆年間といわれるが明らかでなく、おもに農村を基盤として流民、無産者群を構成員とし、一部読書人、地主、豪紳などを指導者とした、反清復明の反社会的活動を行った。」
http://kotobank.jp/word/%E5%93%A5%E8%80%81%E4%BC%9A
華興会は、1905年に湖南省の長沙(Changsha)での挙兵を企画するのですが、事前に露見し、黄興らは日本に逃亡します。
日本で彼は孫文に出会い、孫文が中国同盟会(Tongmenghui)をつくると、そのナンバーツーになります。
黄興は、南中国・東南アジアを遊説して党勢拡張と党員指導にあたり、南洋華僑より資金を募集するとともに地下活動に着手します。
そして、中国同盟会は、1907年に広東省欽州・廉州・潮州や広西省鎮南関で、1908年には雲南省河口で挙兵 したのですが、がいずれも失敗し、黄興は、東南アジアへ逃亡した後に日本へ渡り、中国同盟会の機関紙である民報編集所(新宿区新小川町)に潜伏して機を伺いました 。 1911年には広東省城奪取を計画し、広東総督衙門を襲撃したのですが多数の犠牲を出してやはり失敗に終わります。
ところが同じ年に武昌起義(辛亥革命)(コラム#4496、4948)が勃発したので、黄興は武漢に赴き、軍を指導して、革命成就のきっかけをつくります。
まもなく清軍が反撃してくると彼は上海に下り、やがて南京に臨時政府が組織されると、陸軍総長兼参謀長に就任し、もっぱら軍事を掌握するのです。
1912年に清朝が倒れて南北統一政府が組織されると、袁世凱から軍部の要職に就くよう懇請されたが辞して、上海に滞在し、1913年3月の「第二革命」には、孫文に呼応して南京に拠り討袁軍を起こしますが敗れ、日本を経て米国に逃亡します。
1915年に袁世凱が皇帝を称したのに対して「第三革命」が始まると日本に赴き、その翌年に上海に帰り、疎遠になっていた孫文一派と融和を図りつつ種々画策を行いますが、その年のうちに病死するのです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Huang_Xing
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E8%88%88
こうして黄興の軌跡を振り返ると、彼は、当時の日本人の大部分が抱いていた、東アジアにおける反露・文明普及という人間主義的対外政策に共鳴し、この政策を、日本を後方拠点として、支那において、軍事専門家として、立ち上がりにおいては日露戦争と連動しつつ、推進しようとした、と言ってよいでしょう。
(なお、当時、日本の在野のアジア主義者等が黄興らを支援したわけですが、これは日本の大衆の意向に沿ったものではあったけれど、日本のエリート層が牛耳る日本政府自体は慎重な姿勢に終始した・・例えば、黄興らをフランスが支援しているのではないかと疑っていた(日本語ウィキペディア上掲)・・という点に注意が必要です。)
黄興が次第に孫文一派と疎遠になって行ったのも、恐らくは、彼が孫文一派の赤露への接近を快く思わなかったからでしょう。
(一点だけ気になるのは、黄興が支那流千年王国思想を抱懐する哥老会とも連携しようとしていたらしいことですが、ここでは詮索しないことにしましょう。)
しかし、結局、孫文という千年王国思想からついに脱し得なかった者が支那「革命」の祖に担ぎ上げられたため、黄興が比較的若くして亡くなったこともあって、その後支那の主導的勢力となったところの、孫文の党である中国国民党は、ついに欧州千年王国思想を体現する赤露の掌中から逃れることができないまま、日本の上記対外政策の妨害を執拗に続けることになります。
日本の大衆はこれに怒り、また、このような中国国民党を支援する米英に一層怒り、衆議院を通じて政府を動かし、かつまた徴兵にも喜んで応じ、大東亜戦争を戦ったのです。
すなわち、日本兵は、戦争目的が、東アジアにおいて、赤露抑止政策を続けるとともに、そのためにも支那等に文明を普及する、という人間主義的大義のためであることを暗黙裡に自覚しつつ、黄興のような先覚者の思いを受け継ぐ支那人達と提携しつつ、積極的に大東亜戦争を戦った、というのが私の見方なのです。
日本兵が徹底的に戦ったのは、「日本側にとっては損得の戦いに加えて最初から価値の戦いでもあったからなのです」(コラム#5094)と申し上げた趣旨がお分かりいただけたでしょうか。
3 終わりに
このTVシリーズの制作者達が「事実を歪曲してまで、ドイツ軍ならぬ日本軍「も」悪いことを一杯やったと言い訳をし」たとすれば、それは、ダワーが何が何でも人種主義的偏見が米国側だけではなく日本側にもあったことにしたかったのと同じ理由からでしょう。
(更に言えば、米英側が、日本による米英捕虜の取り扱いの「非道さ」や、支那戦域における日本の「戦争犯罪」を必要以上に執拗に取り上げ続けることとも同じ理由からでしょう。)
彼らは、何が何でも、日本側が悪者であったからこそ、米側も悪者になったことにしたかったし、何よりも、米兵達が抱き本国に持ち帰った戦争目的等に関する疑念を払拭したかった、ということです。
結果として悪者同士の日米が、たまたま劣悪な環境であいまみえることで、太平洋戦争は地獄となった、という説明も可能になる、というわけです。
しかし、私に言わせれば、真実は全くそうではありませんでした。
日本兵は、米兵に比べてはるかに高い道徳的立場(morale high ground)に立っていたからこそ、先の大戦を、ああも徹底的に戦ったのですし、だからこそ、太平洋戦域での戦いは地獄となった・・日本兵にとっては正しい者が敗れたという意味で、米兵にとっては自分達が動物に堕してしまったという意味で・・のですし、だからこそ、米兵達は、戦争目的等について深刻な疑念を抱かざるをえなかった、ということなのです。
(完)
映画評論28:ザ・パシフィック(その6)
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