太田述正コラム#5319(2012.2.24)
<皆さんとディスカッション(続x1473)>
<太田>(ツイッターより)
 先般、オランダで牛肉の人工増殖に成功したことから、これなら菜食主義者が食べてもよいのではないかという論争がにわかに起きている。
http://www.bbc.co.uk/news/magazine-17113214
 大体、菜食主義なんてナンセンスだよ。 
 仏教だって本来は菜食主義じゃないぜ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%89%E9%A3%9F
<神聖キュウシュタニア帝國皇帝>(同上)
 動物を殺す事に対する拒否感は、誰でも持っているのではないかと思います。
 自分の生存の為に、生きた猫と、生きた大根、どちらか一方を、プレス機にかけて殺害せねばならないとしたら、大抵の人は、大根を殺すと思いますよ。
<ΑΓΓΑΓ>(「たった一人の反乱」より)
 日本の電機産業:頂点からの転落
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34597
 属国からの脱却が進まないどころか、国の衰退が進みすぎてどうにもならない
のではなかろうか?
 企業の行動パターンが政治と同じくガラパゴスなのが悲しい。
<ΑΓΓΓΑ>(同上)
 日本が米国を追い落としたと同じことが起きてるだけでしょ。
 準先進国の韓国の方が強いって。
 今まで考えなかった観光立国であるとか、贅沢品の分野を開拓しなくちゃね。
 後、武器分野の開拓も。
<ΓΑΓΓΑ>(同上)
 携帯電話の分野で、日本企業は技術力がありながら、世界に出ることが出来なかったことは厳しい。
 属国状態のなかで、トップから腐っていくというのは太田さんの指摘だが、リアルだよな。
 <ところで、>太田さんに質問ですが、 多くの日本企業が残業が長いことは確かです。
 人間主義は他者との関係性を重視しますが、このことが組織の中で、残業を断りにくい雰囲気を生み出しているとも思えるのですが、これは、人間主義の欠点とは言えないのでしょうか?
 ・・・補足<します。>
 人間主義 他者との関係性の重視 
 利点 公概念が成立しやすい
 欠点 他者との関係性を重視するあまり、他人からどう見られるかばかり気にするようになる。
<ΓΓΑΓΑ>(同上)
 外国人「日本のフーリガンおかしいだろ、礼儀正しすぎる…」
http://labaq.com/archives/51723744.html
 ↑
 人間主義ってこういうのでしょう。公徳心というか。
<太田>
 人間主義社会における、相互にクライアントでありエージェントである人間同士の関係は全人間的な関係になりがちです。
 つまり、仕事の場における人間関係も、遊び等を含めた友人関係的なものなりがちである、ということです。
 ですから、サービス残業も、心理的強制に基づくものもあるでしょうが、互いに遊び心で残る、あるいは、友人が残業しているから自分も友人として付き合う、といったケースも多々あるのではないでしょうか。
 これを人間主義の欠点と言うべきかどうかは微妙だと思います。
<TA>
 テレビなどの放射能汚染がれき受け入れに関する話を聞いていると、
≫総じて言えば、日本国民のリスク(回避)選好度に首尾一貫性が全くない≪(コラム#1123。太田)
との言葉を改めて考えさせられます。
 この「リスク(回避)選好度」関し、朝日新聞が「リスク社会に生きる」と題した連載記事で、「日本国民のリスク(回避)選好度」のおかしさについて書いているようです。↓
 朝日新聞原発報道で軌道修正? 「科学的な知見」にも目を向ける連載
http://news.livedoor.com/article/detail/6160795/
 徐々にではあってもまともになって来ていると信じたいです。ところで、
≫安全保障の目的は国(主権)、ないし国が体現and/or追求する価値・・すなわち、国民の生命よりも大事なもの・・を守ることであり、その手段が、「自国民や外国人の生命に優先順位を付与する」ことなんだよ。
 一番端的な例をあげれば、日本が武力を行使する場合、政治家は、日本にとって脅威たる国または地域もしくは組織の戦闘員の生命<同左の非戦闘員の生命<国民たる自衛隊員の生命<非戦闘員たる国民の生命、という優先順位をつけた上で、それぞれについてどの程度までの損失を甘受するかを決断する、ということになるわけさ。≪(コラム#4704。太田)
 こういった外交・安全保障を日本が放棄していることが、「日本国民のリスク(回避)選好度」のおかしさの原因と考えるべきなのでしょうか。それとも、以前ご質問した(コラム#5175)日本(のマスメディア)の社会科学のレベルの低さが原因と考えるべきなのでしょうか(朝日新聞の記事(の紹介)を見て、よく分からなりましたので・・・)。
<太田>
 個々の人間のリスク選好度の違いは、脳科学上の根拠がある(コラム#5315)ところの、遺伝的に決まっているもののようであり、戦後日本人のリスク選好度に属国状況や社会科学のレベルの低さが影響を及ぼしている、ということはないのではないでしょうか。
 お示しの記事は、話題になっている様々な事象に関し、リスクが絶対的・相対的にどれくらいあるかについて、シロウトの人は知らない場合が多いし、知ろうともしない場合が多い、ということを示しているだけのことであり、日本人に限らず、世界中どこにでもありそうな話だと思います。
                  
<TU>
 <マウスの実験についての太田さんの疑問(コラム#5317)ですが、>プールの島の位置を記憶するスピードが速くなったって事なのでは?
 よく忘却曲線とかの実験でやるマウスに迷路の入口に置いて複数回ゴールを目指させる事で学習効果を測るって方法と同じだと思います。
<太田>
 なるほどね。
 そんじゃ、今日も「天皇制」スレッドでの私がらみの議論をコピペしておこう。
 ハンドルネームのあてはめが間違ってたらゴメンな。
<1eoF8O7+>(2012.2.21)http://toro.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1329191799
≫「自由と平等の昭和史」。一般的な昭和研究では、社会大衆党はファシズム党に分類されていることを述べています。≪(コラム#5301。Kkx5w81J)
 まず最初に言っておく。社会大衆党の掲げた理念は、反資本、反共、反ファシズムであった。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/101573/m3u/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%A4%A7%E8%A1%86%E5%85%9A/
 たしかに、社会大衆党は親軍路線を追求した。
 実際、「陸軍パンフレット」を支持して、やがて自党を解散して大政翼賛会に合流した。
 このことを以て、ファシズムと見なしているのであろうか。
 ファシズムとは、自由主義や共産主義を否定し、独裁による政治を目指す政治思想であると定義する。
 上記の定義によると、社会大衆党は、共産主義を否定する点以外については、ファシズム政党の定義に一致しない。
 社会大衆党は、軍部に接近して、戦時体制の構築に協力し、人々の自由を統制しようとした。ただし、当時の日本はシナ事変を戦っていたので、戦時中である。戦時中には自由主義が後退するのは常である。
 よって、社会大衆党の軍部への協力を以て、社会大衆党が自由を抑圧したとするのは単純すぎる。
 戦時における自由の統制を必要悪とするならば、社会大衆党を反自由主義政党と呼ぶのは不適切である。
 社会大衆党は、理念として反ファシズムを掲げていた。
 たしかに、自党の解散と大政翼賛会への合流は、外形的には政党政治の終焉と一党独裁の開始と誤認されるかもしれない。
 しかし、上記出来事の後も、政党政治は存続し、一党独裁など存在しなかった。政党政治は形式的に政党が解散した後も続いた。
 1942年の選挙がその一例といえる。
 大政翼賛会は、ナチス党やファシスト党のような一党独裁を目指したものではなく、単なる国政の協賛機関に過ぎない。
 よって、社会大衆党の自発的解散と翼賛会への合流を以て、社会大衆党を一党独裁指向と断ずることはできない。
 よって、社会大衆党はファシスト政党であるとは言えない。
≫515事件や226事件は、格差社会の是正が目的としてあった。≪(コラム#5301。Kkx5w81J)
 身分制社会とは、生まれつき属すべき職業的・社会的・文化的な身分が固定されている社会である。
 <戦前の>日本では、このような身分の固定が少なかった。実際、日本では、基本的に学力さえあれば、どのような身分出身でも高級官僚や軍人といった社会的地位の高い職業につくことができた。
 また、上流から下流まであらゆる層の人々が、ある程度ながら、文化を共有していた。 日本では識字率が高かったからである。
 経済的な格差は、以前に挙げた『東京に暮らす』のとおりである。
 以上を踏まえると、身分制社会とは職業・社会・文化的な身分が固定されている社会である。
 従って、格差、つまり所得の大小の程度の大きさのみを以て、1925年当時の日本を封建国家であるとすることはできない。
 そもそも、経済的格差の例としても、515事件や226事件を格差社会の例として用いることはできない。
 515事件や226事件の起きた原因は、昭和大恐慌の発生によるところが極めて大きいからである。
 日本では恒久的な経済格差が存在したというより、突発的な庶民の没落があった。
 それにより、貧富の差が拡大した、ということである。
 日本を封建国家とした指摘は、昭和大恐慌以前のものである。 <←意味不明(太田)>
 よって、もし経済格差の例を挙げるとしても、1925年以前から例を挙げなければならない。
<Kkx5w81J>(2012.2.22)(同上)
 ファシズムの定義は、社会学辞典(岩波小事典)によると、
「広義には・・イタリア、ドイツ、スペイン、”日本”に生じた反議会主義、権威主義的、軍国主義的支配体制。」
 当初、社会大衆党は反ファシズムの主張をしていましたが、労働者の権利拡大を意図する過程で反資本主義を推し進めるなかで、反議会主義、国体の本義を基本と為すような綱領を制定、また軍部に接近し、上記の定義に沿うような行動に至りました。
 岩波で指摘してる日本に生じたというものも、社会大衆党のような状況を指しているのだと思われます。
 <また、>封建的:封建制度特有の性質をもっているさま。一般に、上下関係を重視し、個人の自由や権利を認めないさまをいう。「―な考え方」「―な企業体質」
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/16759200/
 以上の通り、封建的とは政治制度上での封建制のみ意味するのではなく、そこで認められる似たような様も含みます。
 戦前日本で暮したレーデラーが、具体的に日本のどのような姿をもって、そのように評したのか解りかねますが、まったくそのような状況が日本に無かったことは、治安維持法の存在を踏まえれば私も言い難いと思います。
>昭和大恐慌の発生によるところが極めて大きいからである。日本では恒久的な経済格差が存在したというより、突発的な庶民の没落があった。それにより、貧富の差が拡大した、ということである。
 いいえ、違います。以下の通り大恐慌以前から格差は拡大傾向の一途を辿っていました。
—————
 戦前については、戦後と比較して著しく所得格差は大きかったことが複数の研究で明らかにされている。
 しかも、明治、大正、昭和戦前期と所得格差は上昇傾向にあり、経済発展の前期に所得格差は拡大し、発展後期には縮小するというクズネッツの逆U字仮説の前期に当たっていると考えられている。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4660.html
 また上記における指摘とは別に、共産革命に対する恐れや戦争が激化したのだから、自由主義に反する行動には目を潰れとか、同じく大恐慌なのだから格差は広がって当たり前、だからそんな状況は参考にしないという考えは以前にも指摘しましたが単なる欺瞞です。
 事実は事実として、ありのままに受け止めとめた上で考える必要があるでしょう。
→借り物の概念だけで戦前の日本をとらえようとしちゃダメなの。
 大正から昭和にかけて、日本は最もアングロサクソン化が進み、議院内閣制化、市場経済化が進み、その結果、政治は不安定化し、貧富の差が拡大し、政治経済面で軌道修正が迫られていた。
 そこに世界大恐慌が起こり、資本主義が全般的危機に突入した印象を与え、しかも、全球的に経済のブロック化がもたらされ、日本がこれら市場にアクセスすることが困難になったこと等から、政治、経済体制の見直しが急務となり、日本において、結果的に人間主義を基盤とする日本型政治経済体制が成立した。
 これは、個人主義を基盤とするアングロサクソン型政治経済体制とも集団主義を基盤とする共産主義やファシズムの政治経済体制とも異なるものだったんだよ。(太田)
<Kkx5w81J>(同上)
 法治主義には二つの意味がある。一つは国家と国民との関係を憲法レベルでの基本原則として内容的に捉えようとする実質的な意味。
 もう一つは形式的な意味、国家権力の発動と限界を議会が定立した法律によって規範化し、裁判所等によって法律秩序を維持すること。
 形式な意味での法治主義は、自由主義にとって良くも悪くも作用する。 
 徹底されれば自由主義的な社会が必ず擁護されると言ったようなものじゃない。
 もっとも良い例が戦前の日本。実質的な意味として帝国憲法は国民の権利を内容的に捉える一方で、人権について部分的に留保することになった。
 その後、形式な意味での治安維持法の徹底を通じて、自由主義的な社会はむしろ後退した。 
 よって戦前日本の社会を傍観しても、下記の考えは単なる妄想。
≫こういった議論をする際の自由主義の定義だが、法の支配(法治主義プラス人権保障)と同値とすることを奨めるな。 ≪(コラム#5301。太田)
 そもそも、「自由主義の定義だが、法の支配(法治主義プラス人権保障)と同値とする」考えについて、なんら妥当性を吟味できるような学術的な根拠がまったく示されていない。
 俺は太田ほど、頭も剥げていない若造だが、しかし、そんな俺から見ても政治哲学な教養は呆れるほど無い。
 そんな奴が官僚だったと思うと、びっくりするほどだ。
→自分こそ自分の主張にはもっと典拠を付けるとともに、相手の主張については自分で調べてみてからモノを言いな。
 「法の支配」に関しては、それについての日本語ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E3%81%AE%E6%94%AF%E9%85%8D
が参考文献の著者として最も重視しているところの、伊藤正己の英米法の授業を大学時代にとったが、このウィキペディアは、「法の支配は、専断的な国家権力の支配、すなわち人の支配を排し、全ての統治権力を法で拘束することによって、被治者の権利ないし自由を保障することを目的とする立憲主義に基づく原理であり、自由主義、民主主義とも密接に結びついている。」とほぼ正しく記している。
 「ほぼ」なのは、民主主義に言及している点だ。
 伊藤の話を、私なりに当時整理したのが、「法の支配(法治主義プラス人権保障)」=「自由主義」という等式さ。
 この等式に民主主義が入ってくる余地はない。
 なぜなら、民主主義それ自体には、多数派による少数派の蹂躙、つまりは人権の蹂躙を防ぐ論理が内包されていないからだ。
 ボクの以上のような整理の仕方に対して、典拠に基づいて反論してみ。
 至難の業だと思うけどね。
 なお、人権保障抜きの法治主義がいかにアブナイ代物であるかはキミの言うとおりだが、それでも人治主義よりは全然イイっちゅうことぐらい分かるよな。(太田)
 2CHを眺めては、自分のブログで妄想を語るのではなく、この場でも反論したらどうだろうか?・・・
→せっせと太田コラム「を眺めては、」自分達の2ちゃんの場でキミ達がそれについて「妄想を語」ってくれてるんだから、それで充分だろ。(太田)
<EpzrSeLq>(同上)
 太田さんは、ここで反論する知識もなければ度胸もない哀れな人ではないかと、わたしには疑われる。
 ほとんどの人達が、あなたのように遠くを眺める力を失い、目前の手に入れやすい物(瞬間的な快楽)ばかりを獣のように追ってしまっているように思われる。
 資本主義が社会の根幹となり、文芸の分野も、万人にウケやすい、中身のない、刺激的で面白そうな内容の書物をごみのように量産して売りさばき、お金を稼ぐことが重要になった。
 そのためか作家の遺すもののほとんどが、言霊のない書物というべきか、むしろ幼児が今日あったことを記す日記に成り下がったのではないかと、わたしには思われるね。
 言い始めたら切りがないですね。・・・
→キミらが、ボクの自由主義や民主主義の定義に対して反論ができず、かつ、これらの定義を踏まえたところの、ボクの戦前の米国と日本の自由主義度と民主主義度の比較、(更には、何度もボクが行っている、戦前の英国と日本の民主主義度の比較や植民地統治の比較)に対しても反論ができないからこそ、キミらは、こういう2CHにふさわしい(?)下品な人格攻撃をやってウサ晴らしをしてるって言われても仕方ないぜ。
 せめて、()内の前段について、反論することから逃げ回るだけにとどめた植田某サンくらいには潔くあって欲しかったもんだねえ。(太田)
<1eoF8O7+>(同上)
 <Kkx5w81Jクンによるファシズムの定義云々についてだが、>党組織の自発的解散と大政翼賛会への合流は反議会主義とは言えない。
 大政翼賛会とは一種の挙国一致内閣のようなものであるからである。
 国体の本義は、近代的な個人主義からの脱却と日本における思想のあり方の再考と世界への普及を唱えた先駆的な書物である。
 本書では、全体主義も個人主義の発現の各位相であるに過ぎぬと断じ、個人主義を旨とする欧州も、共産主義を受け入れずに全体主義や国民主義、ファシズムやナチスの台頭を許したとしている。
 そして日本の思想生活文化の混乱の解決は可能であり、それは世界人類のために行われるべきである、としている。この内容をもって、権威主義的であるとするのは不可能である。
典拠:(http://blog.ohtan.net/archives/50955488.html
 軍部に接近し、軍部の行ったことを支持したのは戦時体制の構築というべきであって、軍国主義支配体制とはいえない。
 そもそも、ファシズム政党とは、ナチス党やファシスト党のような、一党独裁体制を構築し、指導者の権威と権力が一体となっていて、国家政策を理不尽な武力に訴えるような政党である。
 それほどでなければファシズム政党とは言えないが、社会大衆党は、そのいずれをも欠いている。
 よって、社会大衆党には、反議会主義、権威主義的、軍国主義的支配体制を支持した行動を見ることができないので、ファシズム政党とは言えない。社会大衆党をファシズム政党とするのはこじつけである。
>まったくそのような状況が日本に無かったことは、治安維持法の存在を踏まえれば私も言い難いと思います。<(Kkx5w81J)
 要するに、レーデラは日本に対する論評で、焦点の合わない見当違いなことを書いたということだ。
>いいえ、違います。以下の通り大恐慌以前から格差は拡大傾向の一途を辿っていました。<(Kkx5w81J)
 戦前の日本が経済的に格差社会であったかどうかは、当時の日本と現在を比べる絶対的評価のみならず、アメリカやイギリス、欧州大陸、ロシアや中国との間で相対的評価をする必要がある。・・・
<Kkx5w81J>(2012.2.23)(同上)
>社会大衆党には、反議会主義、権威主義的、軍国主義的支配体制を支持した行動を見ることができないので、ファシズム政党とは言えない
 議会主義:「国家の最高意思を、国民を代表する議会において決定していく政治方式」。
 一方で社会大衆党が綱領で拠り沿うことなった「国体の本義」における考えは、アプリオリ的な位置を求める議会主義の考えを押し退け、また天皇機関説を排除し、天皇主権説を説くことによって、反議会主義的な立場をより強調し示すことになった。
 また社会大衆党が政策的に求めたのは、軍部の暴走が囁かれる中で、日中戦争に対する公益性としての地位を確立し、そうした地位から論拠付けられる、国家主導による全体主義経済体制の確立を強く求め、軍国主義:「軍事力を国家戦略的に重視し、政治体制・ 戦略・財政・経済体制・社会構造などの総合的な国力を軍事力の増強のため集中的に投入する国家の体制」に引き寄せようとした。
 よって社会大衆党は、ファシズム的な政党だと言える。
>要するに、レーデラは日本に対する論評で、焦点の合わない見当違いなことを書いたということだ
 いいえ、自由主義社会とはアプリオリ的にアメリカを想定した上で、その上で自由主義社会の尺度して考え、しかし、「日本はアメリカの属国をやめて独立しましょう。」とした上で、トンデモ論法によって、都合の悪いことには目を向けずに、連呼する太田よりは的を得た主張だと思います。
→太田コラムちゃんと読んでないねえ。
 ボクが「自由主義社会」としては、「アプリオリ的にイギリスを想定し」ていることを知らず、あろうことか、ボクがbastardアングロサクソンと切り捨ててる米国(アメリカ)を持ち出すとはねえ。(太田)
 また経済格差は、他国がどうであろうと社会不安を起こすような経済格差があったことが重要なのであって、相対的に比較することによって、それが無かったようにするのは、まさに欺瞞的なトンデモ論法です。
→そんなこと言ったって、そもそも、戦前は、英国も米国も日本も、その政治も経済も、現在よりは大幅に「遅れ」ていたのであり、現在の尺度でもって戦前を評価したって始まらないよ。
 だから、戦前という時間軸の中で、しかも、他国との比較という空間軸の中で評価するよりかないのさ。(太田)
<太田>
 それでは、その他の記事の紹介です。
 中共で、南京事件は、中共が成立してから1976年までは全く取り上げられず、更に、1982年まではほとんど取り上げられなかったのがどうしてか、解説されている。↓
 ・・・in the years when Mao Zedong ruled China, from 1949 to 1976, the massacre has been virtually ignored in official records. Why is that?
 Because it was formerly the capital of the Nationalists, the side fighting the Communists in China’s civil war, very few Communists lived in Nanjing in the 1930s. ・・・
  If the Communist Party saved China from the Japanese during the War, then why did they do nothing to prevent the Nanjing Massacre?
The Party appears to have sidestepped this conundrum during the Mao era by ignoring the Nanjing Massacre. Instead, they concentrated on highlighting the (minor) role that CCP forces played in beating the Japanese. ・・・
 In a similar way, much else was forcibly airbrushed out of Mao era debates on the War, such as Chinese traitors and the role of non-communist forces in beating the Japanese. ・・・
 In July 1982 everything changed. Six years after the death of Mao, the Japanese education ministry published textbooks that whitewashed Japan’s role in World War II, and changed the word “invade” China to “advance” into China. ・・・
 An impromptu Nanjing Massacre museum was opened in the city just two weeks after the textbook crisis broke out・・・
http://blog.foreignpolicy.com/posts/2012/02/23/why_did_china_downplay_the_nanjing_massacre
 米国でも、法律や判例違反にならないギリギリのやり方で、捜査当局は、被疑者に自供させようと欺罔、脅迫の手練手管を駆使する。
 その結果、やってもいない犯罪を自供する被疑者も出てくる。
 だけどだ、そういう被疑者は、未成年とか知恵遅れとか薬物・アルコール中毒者が中心だってさ。
 我らが尊敬すべき衆議院議員や議員秘書諸氏がやってもない自分ないし他人の「犯罪」を供述して、それを後で撤回するなんて、ホント恥ずかしーことだぜ。↓
 ・・・ Psychological studies of confessions that have proved false show an overrepresentation of children, the mentally ill or mentally retarded, and suspects high on drugs or drunk on liquor. They are susceptible to suggestion, eager to please authority figures, disconnected from reality or unable to defer gratification. Children often think, as Felix did, that they will be jailed if they keep up their denials and will get to go home if they just go along with the interrogator. Mature adults of normal intelligence have also confessed falsely after being manipulated. ・・・
http://www.nytimes.com/2012/02/26/opinion/sunday/why-do-innocent-people-confess.html?_r=1&ref=opinion&pagewanted=all#h
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太田述正コラム#5320(2012.2.24)
<大英帝国再論(その10)>
→非公開