太田述正コラム#5104(2011.11.9)
<世界殺戮史に思う(その1)>(2012.2.25公開)
1 始めに
 スティーヴン・ピンカー(Steven Arthur Pinker。1954年~。カナダ系米国人。ハーバード大心理学教授)の新著、’The Better Angels of Our Nature: The Decline of Violence in History and Its Causes’については、これまで何度も取り上げてきたところです。(於コラム#5031、5039、5041、5055、5069、5091)
http://en.wikipedia.org/wiki/Steven_Pinker
( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC←この新著への言及がいまだなされていない!)
 ところで、この本が駆使するデータの原本は、マシュー・ホワイト(Matthew White。中年の米国人司書。Historical Atlas of the 20th Century サイト主宰者)
http://necrometrics.com/author.htm
の、これまた上梓されたばかりの ‘The Great Big Book of Horrible Things’ です。
 本シリーズは、ホワイトが列挙する、人類史上の大殺戮事件百選
A:http://www.nytimes.com/imagepages/2011/11/06/opinion/06atrocities_timeline.html?ref=sunday
のそれぞれにおける殺戮数を、ピンカーがそれぞれの時代における世界人口
http://en.wikipedia.org/wiki/World_population_estimates 
(↑中のMcEvedy &Jones (1978)による数字)に照らして評価して20位まで順位を付けたもの
B:http://www.newscientist.com/embedded/20worst(ただし、Aの左下にもその一部が掲げられている。ただし、世界人口の典拠が異なるのか、順位が微妙に異なっている。)
を、殺戮数の多いものから順番に紹介した後、ホワイトの百選中のそれ以外の興味深い事件にも触れることとし、その間に適宜私のコメントを付す、というものです。
2 大殺戮事件における殺戮数対世界人口比(大から小への順序)
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 [備考]
 以下の括弧内だが、国際戦争は「戦」、制度的抑圧(institutional oppression)は「抑」、国家崩壊(Failed state)は「壊」、専制(despot)は「専」、植民地戦争は「植」、内戦は「内」と表示した。殺戮事件の中にはこのような分類になじまないものもあり、一つの目安に過ぎない。
 それ以外の括弧内は、殺戮期間と殺戮数(単位は百万人)を示す。
 ベースになっているところの、ほとんどの殺戮数と人口の推計値は、確たるものではない。
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 (1)チンギス・ハーン(Genghis Khan)(1206~27年。戦。40)
 これについては、改めて説明を要しないでしょう。
 ただ、チンギス・ハーン(コラム#1604、1606、1839、2317)
http://en.wikipedia.org/wiki/Genghis_Khan
の死までで期間を区切り、爾後のモンゴルによる征服戦争を含めなかったことの妥当性は疑問です。
 (2)中東奴隷貿易(Mideast Slave Trade)(650~1900年。抑。16)
 これが2位とは意外でした。
 というのも、中東奴隷貿易の規模は、時期的にそれよりも新しい、新大陸奴隷貿易に比べて小さい、というイメージがあった(コラム#167、306)からです。
 しかし、私のこのイメージを形成したのは白人(欧州住民)奴隷の規模であり、いずれにせよ漠としている話であるものの、圧倒的に多かった黒人奴隷のことを考えれば、期間も長かったことから、新大陸奴隷貿易におけるものよりも殺戮数が(世界人口比でとらえればなおさら)大きくても少しも不思議ではありません。
 それに、白人奴隷狩りだけをとってみても、その負の影響は甚大なものがあったようです。
 いつの時代のことなのか判然としませんが、「<イスラム海賊による白人奴隷狩りを恐れ、>スペインとイタリアの沿岸地域は、住民達によってほぼ完全に放棄された」
http://en.wikipedia.org/wiki/Arab_slave_trade
というのですからね。
 ただし、留意すべきは、「非イスラム教徒がイスラム教に改宗するか保護/従属税(jizya protection/subjugation tax)を払うことを、どちらも拒否した場合、彼らはイスラム世界と戦争状態にあると見なされ、イスラム法により、イスラム教徒がこの非イスラム教徒達を奴隷にすることが合法とされた」ことです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Arab_slave_trade 上掲
 (3)新・王朝(Xin Dynasty)(9~23年。壊。10)
 この3位も意外でした。
 「新」は、王莽(Wang Mang。BC45~AD23年)が前漢(Western Han。BC202~AD9年)を簒奪して新王朝を樹立したものですが、「匈奴には30万人、西南の句町国には20万人の兵を派遣し、後者では6~7割が餓死・疫病で死んだとされる。やがて赤眉(Chimei=Red Eyebrows)・緑林(Lulin)の乱が起こり、・・・長安を落とされて王莽は殺され、一代限りで滅んだ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0
 (ちなみに、「新」についての英語ウィキペディア↓は、情報量が乏しかった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Xin_Dynasty )
ところ、もう少し、殺戮の詳細を調べてみようと思い立ちました。
 まず、「6~7割が餓死・疫病で死んだ」のは、現地住民等ではなくて、派遣された「兵士」であったようです。
http://www.geocities.jp/daijyoukiyonotabi/busetu02.htm
 ところが、英語ウィキペディアに関しては、赤眉の乱、そして(その中から劉玄・劉秀(後出)が登場するところの)緑林の乱についてのものがあり、
http://en.wikipedia.org/wiki/Chimei
http://en.wikipedia.org/wiki/L%C3%BClin
日本語ウィキペディアには、新末後漢初についてのものがある
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%9C%AB%E5%BE%8C%E6%BC%A2%E5%88%9D
というのに、これらの中に、殺戮に関して具体的記述が全くと言っていいほどなかったのは残念です。 
 いずれにせよ、「新」と殺戮とを結び付けるのであれば、「新」王朝の期間だけでなく、王莽殺害後、劉秀(Liu Xiu=光武帝=Emperor Guangwu。BC6~AD57年)が漢人達を統一して後漢(Eastern Han)を安泰化する36年・・後漢は「新」王朝が滅び前漢の景帝(Emperor Jing。BC188~141年)の子孫である劉玄(Liu Xuan。~AD25年)が「即位」して更始帝(Emperor Gengshi)と称した23年から始まったことになっており、また、後漢の元号は同じく景帝の子孫であり劉玄の族弟たる劉秀が皇帝に「即位」した25年から始まったことになっているが、まだ後漢が安泰化したとは言えず、27年には漢人達の間で劉秀が群を抜いた勢力となったが、この時点でもまだ統一にはほど遠かった・・までの戦乱期
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%9C%AB%E5%BE%8C%E6%BC%A2%E5%88%9D 上掲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%BC%A2
http://en.wikipedia.org/wiki/Eastern_Han#Eastern_Han
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B4%E5%A7%8B%E5%B8%9D
http://en.wikipedia.org/wiki/Emperor_Gengshi_of_Han
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%AD%A6%E5%B8%9D
http://en.wikipedia.org/wiki/Emperor_Jing_of_Han
の期間をも併せ一括りにして結び付けるべきであったと思います。
(続く)