太田述正コラム#5112(2011.11.13)
<映画評論29:王妃の紋章(その2)>(2012.2.29公開)
<補注>
映画の設定は後唐であると記したが、実は脚本上では、同じ五代十国時代でも、後周(Later Zhou。951~960年。五代の最後の王朝。国号は単に周だが古代の周と区別するために後周と呼ぶ。都は開封。後周最後の皇帝(幼少)から禅譲を受けて趙匡胤が宋を立てた)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%91%A8
ということになっているという。
しかし、他方で、脚本から推定される時代は後唐であることから、日本語ウィキペディアは後唐と断定していると思われる。
また、映画の中で青州(Qingzhou。山東省)や蘇州(Suzhou。江蘇省)という地名が出てくるが、どちらも後唐や後周の領域内の都市ではなかったという。
更に、王妃が人工爪(Nail extension)を付けているが、五代十国時代には一般的ではなく、それから約600年後の明王朝の時に流行した。
つまり、脚本家としてのチャン・イーモウは、史実を全く無視していると言ってよさそうだ。
(以上、特に断っていない限り、A、Bによる。)
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4 原作者・曹禺の生涯
曹禺(ペンネーム)
http://www.google.co.jp/search?q=%E6%9B%B9%E7%A6%BA&hl=ja&rlz=1T4GGHP_jaJP428JP428&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=qc-_Tou8J43FmQW1_9y8BA&ved=0CGcQsAQ&biw=1920&bih=873&sei=WtG_TqGUJMbSmAWywNnMCg (彼の写真)
は、幼少時に、両親と共に天津(Tianjin)に移り住みましたが、当時の天津は欧米の強い影響を受けていた都市であり、母親は、京劇のほか、当時はやり始めた欧米風の演劇である話劇(hauju)にも彼をよく連れていきました。
1920年から24年まで、曹禺は、欧米風の授業を行っていた天津の南開中学(Nankai secondary school)に学びますが、この学校の南開新劇団に参加し、ノルウェーのイブセン(Henrik Ibsen)や米国のユージン・オニール(Eugene O’Neill)やイギリスのジョン・ゴールズワージー(John Galsworthy)らの劇を演じます。
そして、南開大学(Nankai University)の政治学科に入学した後、精華大学(Tsinghua University)で欧米言語・文学を学び、1934年に卒業します。
専攻はロシア語と英語であり、ロシアのチエホフとゴーリキー、イギリスのバーナード・ショーと米国のユージン・オニールの著作に親しみ、翻訳で古典ギリシャのエウリピデスとアイスキュロスにも親しみました。
彼は、清華大学の最終学年の時の1934年に処女戯曲の『雷雨』を発表するのですが、すぐ同年中に済南(Jinan)で初演され、1935年には上海(Shanghai)と東京でも上演され、いずれの地でも好評を博しました。
1936年には、南京(Nanjing)で上演されますが、この時は、曹禺自身が主役を務めました。
そして、1938年には、上海と香港で、それぞれ映画化されるのです。
話劇は、曹禺のこの『雷雨』によって支那において演劇ジャンルとして確立した、と言っても過言ではありません。
日支戦争が始まると、蒋介石政権が拠った重慶(Chongqing)に曹禺も避難します。
それまで、『雷雨』から始まり、『日<の>出』(1936年)、『原野』(1937年)と彼の作品は、登場人物の死など悲劇的な結果に終わるものばかりでしたが、重慶では作風が変わり、第4作である『蛻変(The Metamorphosis)』(1939年)では、抗日の希望をうたいあげます。
しかし、『北京人(Peking Man)』(1940年(1941年?))では、日支戦争への言及が全くなくなり、再び以前の悲劇的作風に戻り、支那の伝統的な家族が近代社会とその習慣ややり方に適応できない姿を描くのです。
曹禺は、若いころは共産主義に批判的でしたが、彼の第1作がブルジョワ社会によってもたらされた没落と狂気を描いていると中国共産党によって受け止められていたことから、彼は、1949年の中華人民共和国(中共)成立後、支那に残ることとし、北京人民芸術劇院院長、中央戯劇学院副院長などの役職に就くことになります。
1956年の『明朗的天(Bright Skies)』を経て、1961年(1962年?)の『北京胆剣篇(Courage and the Sword)』(他の2人と合作)は、大躍進政策批判が込められている、とされています。
なお、『雷雨』は、中共下では、その序幕と最終幕(尾声)は上演されたことがありません。
どちらも、教会付属病院の特別客間という設定ですし、最終幕では、それに加えて、バッハのミサ曲が流れ、修道女が聖書を音読する中で幕となる、というわけで、中共当局のテイストには合わないのでしょうね。
(以上、特に断っていない限り、E、F、及び
http://baike.baidu.com/view/1674.htm
による。)
(続く)
映画評論29:王妃の紋章(その2)
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