太田述正コラム#5124(2011.11.19)
<世界殺戮史に思う(その7)>(2012.3.6公開)
 (11)第二次世界大戦(Second World War)(1939~45年 戦 66 2.6%)
 これについては、殺戮数を含め、説明は一切不要でしょう。
 人口比で見ると、この大戦も大したことはない、という気になってきますね。
 (12)英領インド(大部分は飢饉)(British India(mostly famine))(19C 抑 27 ?%)
 表記について、飢饉以外で真っ先に思い浮かぶのは、1857年のインド大反乱(Indian Rebellion of 1857)ですが、どういうわけか、本件に係る日本語ウィキぺディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E5%A4%A7%E5%8F%8D%E4%B9%B1
はもとより、英語ウィキペディア
http://en.wikipedia.org/wiki/Indian_Rebellion_of_1857
にさえ、死傷者数のようなものが全く出てきません。
 だからでしょうか、こんな問いかけがネット上でされていました
http://www.rootschat.com/forum/index.php/topic,434580.0.html
が、それに対する満足な答えも提供されていません。
 そこで、飢饉に話を限定したいと思います。
 後でも触れますが、英国統治下の飢饉は18世紀にはじまるというのに、また、20世紀の先の大戦中(1943年)のベンガル大飢饉は悪名高いというのに、ホワイトらが、表記の期間を19世紀に限ったことは、英国に肩入れして同国への非難を少しでも軽減させるためか、と勘繰りたくなります。
 「<英領インドでの18世紀から20世紀にかけての>一連の飢饉は、降雨量の不均等と英国の経済・統治政策がもたらしたものだ。・・・
 <すなわち、>輸出農業の拡大、農業投資の怠りだ。
 インドからのアヘン、米、インディゴ、そして綿花の輸出は大英帝国経済の鍵たる要素であり、主として支那から枢要なる外貨を稼ぎ、かつ、英国内の穀物市場における低価格の維持を確保した。
 輸出農作物は、インド内での人々の生存維持を可能にしたはずの数百万エーカーの農地を取り上げ、食糧危機におけるインド人達の脆弱性を増大させた。」
α:http://en.wikipedia.org/wiki/Famine_in_India
 まず、18世紀の飢饉についてです。
 「英国統治下の最初の大きな基金は1770年のベンガル飢饉だった。
 約10か月間で、ベンガル人口の4分の1から3分の1が餓死した。
 英国当局によってこの飢饉が起こされたのではなかったとしても、東インド会社がちょうどこの頃税金を挙げたことはそれを悪化させた。」(α)
 19世紀には何度も大小の飢饉が起こっているのですが、一番ひどかった、1877年のマドラス飢饉(Madras famine of 1877=Southern India famine of 1876–78=The Great Famine of 1876–1878)
http://en.wikipedia.org/wiki/Great_Famine_of_1876%E2%80%931878 
の時の英当局の対応ぶりは、以下のとおりです。
 「1877~79年<(どうして上記と期間が一致しないのかは不明。(太田))>の飢饉の際の救援を求める声に対し、<当時のインド総督の>リットン(Lytton)は、<英>インド<当局>を破産させるような経費をかけてでも<インド人の>命を救って欲しいのなら、「英国の公衆に「安っぽいセンチメンタリズム」のためのカネを払ってもらおうじゃないか」と答え、実質、次のように命じた。
 「<我が英>インド当局に対し、食糧の価格を下降させるために干渉を加えることはいかなるものであれ許さない」と。
 そして、地区官僚達に、「可能なあらゆる方法で救援活動を妨げよ…単なる困窮(distress)は救援活動を開始する十分な理由とはならない」と訓令した。・・・
 インドにおける英国の飢饉政策は、アダム・スミスの主張に影響を受けていた。
 それは、飢饉の時でさえ、穀物市場に政府は介入すべきではない、というものだった。
 飢饉の救援はできるだけ安上がりに、つまり植民地の財政当局にとって最低限の経費に抑えることは、飢饉政策を決定するに当たってのもう一つの重要な要素だった。・・・
 1846~49年のアイルランド飢饉と、その後の19世紀末におけるインドでの累次の飢饉との間の類似性が見て取れる。
 両方の「国」において、これら飢饉の間における食糧輸出に何の制限も設けられることはなかった。
 アイルランド飢饉の時の教訓が、1870年代のインドでの政策決定に関するやりとりの中で参照されることはなかった。・・・
 <とはいえ、>飢饉の脅威は続いたもの、1902年以降は、1943年のベンガル飢饉まで、インドでは大きな飢饉は起こらなかった。」(α)
 そのベンガル飢饉が起こった時にどうなったのかは以下のとおりです。
 「1943年8月になると、連合国が<第二次世界大戦に>勝利を収めたことは明らかとなり、輸送船は十分用意できるようになった。
 ・・・それなのに、どうしてチャーチルは、なおインドに食糧を送れなかったのだろうか。
 インド担当相・・・とインド副王のアーチボルド・ウォヴェル(Archibald Wavell)からの、<英本国等の>食糧備蓄からインドに食糧を送って欲しい旨の緊急要請への返答として、当時の首相のウィンストン・チャーチルは、ウォヴェルへの電報で、そんなに食糧が不足しているというのなら、「どうしてガンディーはまだ死んでいないのだ」と返答した<(コラム#2301)>。
 最初のうちは、チャーチルは、(同じく飢饉で苦しんでいた)ギリシャの市民達のことの方をベンガル人のことよりも心配していた。
 <もう1943年のこの時点では、>外地からのいかなる援助も、より多くの死を防ぐためには遅すぎた。
 食糧を集めて輸送船に積み込むのに平時でも遅れが出るのは普通であった上、遠距離海上輸送が必要だったし、陸揚げするのはインド西部の港でなければならなかったのだ。
 というのは、連合国の海軍はセイロンの東では行動していなかったし、ベンガル湾は日本海軍と航空戦力によってカバーされていたからだ。
 しかも、インドの鉄道は戦争地域に運ぶ人員と装備でアップアップ状態であり、その大部分の能力はビルマ前線への補給に用いられていたし、インド国民会議派はサボタージュ活動を行っていたし、主要路線の途中には洪水被害があった、等々という状況だった。・・・
 <遡って、>1942年の中頃はどうだったかというと、英当局は日本がビルマ征服に続いて英領インド本体にベンガル地方経由で侵攻するのではないかと恐れていた。
 ビルマ国境に最も近いチッタゴン(Chittagong)地方では、あわただしく焦土政策がとられた。
 それは、侵攻してきた場合に日本軍の補給を妨げるためだった。
 特に、英陸軍はたくさんの舟(と機動船と荷車と更には象に至るまで)没収した。
 これは、日本軍がこれらを徴用してインド内部への前進を加速することを恐れたからだ。
 住民達は舟を自分で食べたりや市場に出すための漁撈用に用いており、英陸軍は、魚や、商業の停止によって失われた食糧を補てんするために軍用糧食を分配することに失敗した。」
β:http://en.wikipedia.org/wiki/Bengal_famine_of_1943
 αは、18世紀から20世紀までの、英国のインド統治全期間を通じての餓死者数は、計40回の飢饉で、実に5873万人にのぼる、としています。
 要するに、英国の植民地統治でさえ、インド統治だけからも分かるように、それがいかに冷酷なものであったか、ということです。
 英国以外の列強による植民地統治に比べれば、英国のそれは原住民に優しいものでしたが、その英国と比べてさえ、日本の植民地統治は、餓死など考えられないところの、比較にならないほど温情溢れるものでした。(典拠省略) 
 せいぜい人間主義的な英国に対するに、人間主義の日本、といったところでしょうか。
 なお、1943年のベンガル飢饉の際には、この飢饉に関するβは、日本のせいでもあるとまでは言っていませんが、日本との戦争のせいでもあったと言っています。
 それはそうですが、シベリア出兵の際の「戦地」のシベリアにおいてさえ、同地を占領していた日本軍は、現地住民の間から餓死者を出していません(コラム#3772)。
 ですから、このベンガル飢饉による大量死は、もっぱら英国の責任である、と断定してよいでしょう。
 (当時、既に地方レベルではインド人による自治が行われており、インド各地方が自分のところの食糧確保を優先させ、ベンガルに食糧を送るのを妨害さえしたようです(β)。
 しかし、独立以前にそのような統治形態にインドをしたこと自体も英国の責任でしょう。
 それにしても、インド人には、そもそも人間主義が欠如している、としか言いようがありませんね。)
 
(続く)