太田述正コラム#5138(2011.11.26)
<映画評論30:時計じかけのオレンジ(その2)>(2012.3.13公開)
3 典型的な米国映画との違い
とはいえ、この映画が典型的な米国映画かと言えば、そんなことは全くありません。
そもそも、典型的な米国映画がどんなものか、米国の小説家のリック・ムーディ(Rick Moody。1961年~)
http://en.wikipedia.org/wiki/Rick_Moody
が語るところに耳を傾けることにしましょう。
「ハリウッドが生み出す人気娯楽映画は、多かれ少なかれ、プロパガンダだ。・・・
1992年の『沈黙の戦艦(Under Siege)』<(1992年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E9%BB%99%E3%81%AE%E6%88%A6%E8%89%A6
>でのスティーヴン・シーガル(Steven Seagal)のやり口(vehicle)を見ている最中に、政治のことがひらめいたことを覚えている。
当時私は30台初めだった。
この映画については、取柄が何もない(without redeeming merit)・・としか言いようがない。
それは、「情け容赦なき敵」に対して、暴力とむき出しの(rugged)個人主義でもって<戦い、>米国の社会秩序を再構築する、という内容だ。・・・
このひらめきはいつ私に訪れてもよかった。
自分よりも、もっと明敏な友人達ではそうだったように、もっと早く訪れていてもよかったのだ。
例えば、仮に、私が、その後見た『ランボー(Rambo)<(First Blood)>』<(1982年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%BC
>を、それまでに見ていたとすれば、その映画の場面の中では、いい気持ちになる反動的なメッセージが提示されている以外にほとんど何も描かれていないことに気付いていたかもしれない。
しかし、言うまでもないが、『ロッキー4/炎の友情(Rocky IV)』<(1985年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%BC4/%E7%82%8E%E3%81%AE%E5%8F%8B%E6%83%85
>や『ランボー』のような映画は、私は恥ずかしくて見ようとはしなかったことだろう。
ジェームス・キャメロン(James Cameron)監督の嫌悪すべき1994年の映画である『トゥルー・ライズ(True Lies)』<
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BA
>(その後共和党知事になるアーノルド・シュワルツネッガー主演)の終わりでの、大核爆発に関し、我々はそれを見たがっているにほぼ違いないものと<制作者によって>みなされている、と考えたことを思い出す。
(私はキャメロンの映画を嫌悪感なくして見ることは今後決してないだろう。
その映画には、人種主義的で新時代のたわごとである『アバター(Avatar)』<(2009年)(コラム#「3748」、3757、3759、「3764」、3765、3769、3777、3779、3793、3809、3820、3873、3875、4067。「」内は私による評論)>を含む。)
では、経費が嵩んだ美学的にもったいぶった『グラディエーター(Gladiator)』(2000年)<
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC
>はどうか。
監督<(英国人)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88
>と主演俳優<のラッセル・クロウ(ニュージーランド人)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%A6
>が米国市民ではないという事実にもかかわらず、私は、今なお、それが大統領候補当時のジョージ・W・ブッシュについての寓話であると考えている。
『グラディエーター』のような映画を筋に込められた政治的意味(political subtext)抜きに考えることができるだろうか。
リドレー・スコット(Ridley Scott)が自分の映画で、繰り返し映し出す、散り行く花びらは、寡頭政治、企業資本、そして全球化の勝利を煙でまく以上の意味合いがあるのだろうか。
アクション映画のジャンルを歴史的に好んできた男性(いつもほとんどが男性だ)のタイプは、・・いつもとは言わないが、しばしばとは言っていいだろう、・・政治的には保守主義者だ。
シュワルツネッガー、シルヴェスター・スタローン、ブルース・ウィルス、チャック・ノリス、メル・ギブソン、そして(カリフォルニア州カーメル(Carmel)の共和党市長だった)クリント・イーストウッドでさえも、全員が保守主義的議題の擁護者であるとともに、あるいは、保守主義的議題の擁護者であるか、自警主義(vigilantism)を正当化している。
これらの名士のうちの幾ばくかについては、彼らの政治に係る型にはまった傾向は自明であり、それ以外の(イーストウッドの)ケースにおいては、自分達の世界観の反動的部分はよりぼかされている(nuanced)。
しかし、彼らの政治に係るブランドは同じだ。
実際、アクション映画では、その筋の中から、道徳的考え方(idea)や政治的考え方を見つけるのは簡単だ。
その後のCGIの時代に登場したところの、娯楽映画・・やたらカネをかけた、より架空のごちそうであるところの映画である、例えば、明らかに無数のコミック本のシリーズ由来の『バットマン』、『スパイダーマン』、『アイアンマン』、『デアデビル』、『ファンタスティック・フォー』、『Xメン』、『キャプテン・アメリカ』等々・・はどうだろうか。
これらのケースでは、作品の道徳的枠組みは、アクション映画のそれよりも、とは言わないが、アクション映画とちょうど同じくらい単純であり、社会秩序の勝利は、ちょうど同じくらい暴力的であり、ちょうど同じくらい情け容赦がない。
ただし、これらの映画は、イデオロギー的ブランドから目を逸らさせるところの、グラフィックスの甘ったるい釉(うわぐすり)と、<見る者に>累次の感動を与える瞬間に包まれているが・・。・・・
<単純な道徳的枠組みとは、>力は正義であり、全球的経済は回復するであろうし、米国は特別な存在であり、一般大衆(homely people)は公民権を剥奪されても止むをえない、等々だ。
これらの映画は、その多くの場合、子供を標的にしていることにも言及しておくべきだろう。
私が子供の頃は、『ダーティーハリー(Dirty Harry)』<(1971年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC
>や『フレンチコネクション(The French Connection)』<(1971年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%8D%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3
>といった映画を見に行くことはできなかった。
しかし、今では、若者達は、PG-13に指定されたバットマンの『ダークナイト(The Dark Knight)』<(2008年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%88
>を、さしたる困難なくして見に行くことができる。
ザック・スナイダー監督の映画『300』<(2007年)(コラム#4794、4796、4798、4800、4802)>は、フランク・ミラーの同名の絵入り小説が原作であり、9.11後の時期に、右翼的な盛り沢山な(heavily freighted)プロパガンダ映画をつくれば、どんなものができるかを如実に示すものだ。
我々の仮想の(putative)民主主義諸国家がその承継者であるところのギリシャは、巨大だが無能なペルシャ軍(中東の大群)に対して死ぬまで戦わなければならない。
ペルシャ軍要員は個性を描くに値しないと考えられていて、実際、この映画に登場する人物の個性は描かれていないのに対し、気高きスパルタ人(要するにギリシャ人)は、その信条体系と彼らの比類なき勇気という道徳的優位のおかげで、テルモピレー(Thermopylae)の野での壮麗なる死にもかかわらず、その英雄的行為を顕彰されることとなる。
容赦なき敵! 中東から! 英雄的でむき出しの個人主義者達! 大きくセンチメンタルな楽譜(score)! 山のようなブルー・スクリーン! 演劇的血潮をまき散らす人肉片の果てることなき山!・・・
・・・<要するに、米国の人気娯楽映画は、>容赦なき敵に対する果てしなき戦争は善であり、軍事役務は善であり、殺人は人を一人前の男にし、資本主義は勝利し、お前は仕事・・それは企業での仕事であるにこしたことはない。なぜならあらゆる誠実な仕事は企業の仕事だからだ・・にさえありつけば不平を並べ立てるのを止めるだろう<、と言い続けているわけだ。>・・・
ということは、米国映画は、非公然(crypto)ファシスト的であるのだろうか?
果たして、「非公然ファシスト的」などという言葉をこの種のコラムの中で使っていいのだろうか?
私は、・・・「プロパガンダ的」と「非公然ファシスト的」の間に若干の距離を置くことにしているところだが・・。」
http://www.guardian.co.uk/culture/2011/nov/24/frank-miller-hollywood-fascism
(11月25日アクセス)
(続く)
映画評論30:時計じかけのオレンジ(その2)
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