太田述正コラム#5152(2011.12.3)
<映画評論31:ニュルンベルグ軍事裁判(その4)>(2012.3.20公開)
4 インターローグ(その2)・・その他の欠陥
(1)弁護士以外はすべて戦勝国人
ア 指摘
「ニュルンベルク裁判の判事を務めたが、裁判の手続きを批判して辞任したアメリカのウェナストラム・アイオワ州最高裁判事(Charles F. Wennerstrum, 和訳ではヴェンナーストラムとも表記されている)は、こう述べている。
「・・・明らかに、戦争の勝者は、戦争犯罪の最良の判事ではなかった。法廷は、そのメンバーを任命した国よりもあらゆる種類の人類を代表するように努めるべきであった。ここでは、戦争犯罪はアメリカ人、ロシア人、イギリス人、フランス人によって起訴され、裁かれた。・・・
裁判の民族的な偏りについて私が述べたことは、検事側にも当てはまる。・・・」・・・
これに対して、東京裁判では比較的中立的な立場に立てたインドからも判事が召請されており、・・・パール判事が個別意見として全被告人の無罪判決を言い渡している。・・・
<また、>法律家、書記、通訳、調査官<についても、>つい最近にアメリカ人となった人々(亡命したユダヤ系住民のこと)が雇われていた。これらの人々<は、ドイツに対する>・・・憎悪に満ちていた。」(E)
イ 反論
「理論的にはこの議論はもっともだと映るかもしれないが、そんな議論はすべての国における法の運用に反しているという事実を無視している。
もしこの議論が本当だとすれば、スパイに対する裁判はすべて違法だと言うことになってしまう。
なぜなら、スパイ事件は、敵国を代表する裁判官達によって裁かれるからだ。
こういうケースにおいて、中立国から裁判官達を呼ばなければならないという議論をしたものなど一人もいない。・・・
同じ原則が通常の刑法<に係る裁判>の場合にも適用される。
つまり、泥棒は誠実な市民達の陪審員によって裁判をされたいなどと不平を言うことはできないわけだ。」(F)
(2)戦勝国側は対象外
「ドイツ側の(戦勝国の憶測によるものも含む)「犯罪」を一方的に断罪したが、戦勝国側の「犯罪」は完全に免責<され>た・・・。
そもそも大戦の原因となったポーランドによるダンツィヒ領の占有問題<は不問に付された。>」(E)
「カイテル(Keitel)、ヨードル(Jodl)、及びリッベントロップ(Ribbentrop)の罪状の一つは、1939年のポーランドに対する侵略に関する謀議を行ったことだった。
1939年8月23日の独ソ不可侵条約の秘密議定書は、ドイツとソ連によるポーランドの分割を予定していた。(その後、これは1939年9月に実施された。)
ところが、ソ連の指導者達は、ドイツとともにこの陰謀の一味だったというのに裁判にはかけられなかった。
それどころか、ニュルンベルグ裁判は、この不可侵条約の秘密議定書は偽造であると誤って断定した。
しかも、連合国たる英国とソ連は、英ソがイランの侵略を準備し実施した<(注3)>こと・・・についても裁判にかけられなかった。」(F)
(注3)「第二次世界大戦中のイラン進駐は、1941年8月25日から9月17日まで行われたイギリスとソビエト連邦によるものである。・・・この・・・目的は、イギリスの油田の安全確保と、東部戦線でナチス・ドイツに対して戦っているソビエト連邦に対する補給線の確保である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E9%80%B2%E9%A7%90_(1941%E5%B9%B4)
「ソ連は北部を占領し、英国は南部を占領した。中央部はイラン政府が両国の指示と要望に応えることを条件にイラン政府のもとに委ねられていた。・・・
最初、英国とソ連はイランの占領は一時的であると表明した。また、イランの要求に応えて両国は「英・ソ・イラン軍事同盟協定」を締結した(1942年1月29日)。この協定では英ソがイランの主権と領土保全を尊重すること、また、戦争終結から6カ月以内に撤兵すること、加えて、戦争に起因する損失や困窮に対してイラン国民の経済生活を保証することが約束されていた。これは1943年12月1日に行われた英・米・ソ首脳のテヘラン会談でも再確認された。
しかし、英国・ソ連両国は・・・イラン占領を果たすと、・・・やがてソ連はイランの占領地区を封鎖し、そのソヴィエト化を開始した。クルド人やアーゼルバーイジャーニー人の分布域はイラン・ソ連両国にまたがっている。ソ連はイラン国内のクルド人やアーゼルバーイジャーニー人と手を結び、かれらの自治権獲得闘争を支援した。また、ソ連は・・・非合法化(1937年)され<てい>たイラン共産党を新しい名称ツゥーデのもとで再生させ、・・・活動をおこなわせた。こうしてアーゼルバーイジャーンで自治政権が創られた。・・・
英国はドイツがイラン内に浸透することを懸念したが、同時にソ連の動きにも疑念を抱き自らの勢力圏を固めようとした。分割して統治するという政策にのっとり、国王に率いられる保守勢力と遊牧部族民を支援し、もって変革を求める反英・親ソの分子に対抗させた。こうして英国は親英派・・・を党首とする親西欧政党エラーデイェ・メッリー党( 国民の意思党) を創らせた。
互いに相手を出し抜こうとして競い合う英・ソ二国にとって、イランの主権と領土保全を保証した約束はもはや顧みるに値しなかった。英国とソ連は対ドイツ戦のレベルでは協調政策を採りながら、他方、地域レベルでは冷戦下にあった。」
http://homepage3.nifty.com/kenjitomita-iran/newpagephlv-3.html
「1939年9月3日のフランス、イギリスによるドイツへの一方的な宣戦布告は断罪されなかった。
また、1939年9月<、独ソ不可侵条約の秘密議定書に従い、>ドイツが西からポーランドへ侵攻した一方で、同じ時期にソ連も東からポーランドに侵攻しており、さらに1939年11月のフィンランドとソ連の冬戦争<(注4)>では、ソ連は侵略の罪状で国際連盟から追放されているにもかかわらず、ニュルンベルク裁判では、ドイツが<事後法たる>「平和に対する罪」で告発された一方で、ソ連の「平和に対する罪」は不問に付された。」(E)
(注4)1939年11月30日~1940年3月13日。「ソ連はフィンランドに傀儡政権の共産政府を立てて社会主義化しようとしていた<という見方が有力>である。
<これを>第1次ソ・芬(ソ連・フィンランド)戦争とも言うが、これは両国間の戦争が1941年6月に再開されたからである。後続の戦争は第2次ソ・芬戦争、あるいは継続戦争と称される。・・・
当時、第二次世界大戦は「いかさま戦争」と呼ばれる小康状態にあった為、実際に戦闘が行われている冬戦争に注目が集まった。イギリスでは労働党がソ連の行為を非難し、アメリカ合衆国はフィンランドに対し1000万ドルの借款を提供する一方で、ソ連に対しては、同国向けの軍需物資の供給を遅らせる行為(“精神的”禁輸)を開始した。・・・隣国スウェーデンからは軍事物資、資金、人道支援の他に、9千人余りの義勇兵が派遣された。・・・
フランス<の>ダラディエ首相はカフカース地方からソ連を攻撃し、フィンランド軍と連合軍でソ連を挟撃する計画をイギリスに提案し<たが、>英仏両国は対独戦の最中であり、イギリスはこの提案を拒否した。・・・
<また、>スペインやイギリス、フランス等は、北欧の鉄鉱石を抑えるための名目として、フィンランドに対する支援をノルウェーなどスカンジナヴィア半島北部を経由して行おうとしたが、この計画に対しノルウェーは中立の立場を取り、通行を拒否したために計画は難航し、結局これらの支援が本格的にフィンランドに到達することはなかった。・・・
フィンランドは・・・最終的に国土の10%(工業生産の20%が集中する地域)をソ連に譲り渡すという屈辱的な条件の下に講和条約を結び、戦争を終結させた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%AC%E6%88%A6%E4%BA%89
「<なお、ドイツとともに戦った継続戦争において、>フィンランドは一時は旧領を回復したが、ソ連軍の反抗によって再度領土を奪還される。継続戦争への参戦によってフィンランドは第二次世界大戦の枢軸国側であったとされ、現在でも日本やドイツ等と一緒に国際連合の敵国条項に含まれうるとの解釈が可能である。皮肉にも、ソ連の侵略から国土を守るために『敵(ソビエト連邦)の敵(ナチスドイツ)は味方』の理屈で、枢軸国の一員としてナチスドイツと手を組んだフィンランドが敗戦国となり、逆にアメリカとイギリスが『敵(ナチスドイツ)の敵(ソビエト連邦)は味方』の理屈で、侵略行為で<国際連盟>から追放されたソ連と連合国として手を組み、連合国が戦勝国となったおかげでソ連が国連の常任理事国になり、フィンランドから賠償金を取<った。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%99%E7%B6%9A%E6%88%A6%E4%BA%89
「<ソ連によるバルト諸国の併合も不問に付された。>・・・
<なお、>ソ連から「<自国のニュルンベルグ裁判からの>除外要請」がなされ、その後、ニュルンベルグ裁判の管理部門によってこの要請が受け入れられたという経緯がある。」(F)
「連合軍によるドイツへの無差別爆撃(ドレスデン爆撃などをはじめとして、日本本土への爆弾投下量の10倍にも当たる150万トンもの爆弾がドイツ本土に投下され、少なくとも30万人の非戦闘員が犠牲になった)や、ソ連軍の侵攻によってドイツのソ連占領地区で起きた、ソ連兵による強姦・暴行・殺人事件も裁判では不問とされた。
終戦前後のアメリカ軍によるドイツ人捕虜への虐待による大量死問題も闇に葬られた。・・・
戦争終結直前の1945年4月以降、野ざらし、不衛生な環境、病気、飢餓がもとで、膨大な数のあらゆる年齢層の男たちに加えて、女子供までが、ドイツのフランスの収容所で死んだ。その数は、確実に80万を超えたし、90万以上であったこともほぼ確実であり、100万を越えた可能性すら十分にある。捕虜の生命を維持する手段を持ちながら、あえて座視した軍によってこの惨事は引き起こされた。救恤団体の救援の手は米軍によって阻まれた。
他に連合軍、ソ連の戦争犯罪には、戦時国際法に違反したレジスタンス(パルチザン)活動の積極的な支援がある。」(E)
(続く)
映画評論31:ニュルンベルグ軍事裁判(その4)
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