太田述正コラム#0075(2002.11.14)
<パレスティナ紛争再訪>

 イラクフセイン政権ファシズム論をコラム#65で展開したところですが、実は、ヤセル・アラファトもファシストだ、と現在イスラエル国民の大多数は考えています。
 つまり、彼らは、パレスティナ紛争とは、ファシズム(パレスティナ)対自由・民主主義(イスラエル)の戦いであると考えるに至っているのです。
私も、躊躇を押し切ってあえて申し上げますが、かかる考え方にシンパシーを覚えています。

 1921年、パレステイナを委任統治していた英国の現地高等弁務官ハーバート・サミュエル(彼は英国籍のユダヤ人だった!)は致命的なミスを犯します。エルサレムのムフティ(Mufti=イスラム法典解説者)が亡くなり、古式にのっとってその後継者として推薦された三人の中から、前任者の弟ではあったけれど、ムフティとしての素養が不十分なまだ二十台の若者で、札付きの反英活動家かつ反ユダヤ主義者であったアミン・アル・フセイニ(1893-1974)を任命したことです(Paul Johnson, A History of the Jews, Harper & Row, 1988(ペーパーバック版。原著は1987年) PP437)。
 やがてフセイニはパレスティナアラブ人の代表と目されるようになり、反ユダヤ主義者たる彼の方針の下、パレスティナアラブ人は英国やユダヤ機関の働きかけに応じず、ユダヤ人との一切の話し合いを拒否し、1929年と1936年にはユダヤ人入植地襲撃事件を引き起こし、パレスティナにおいてユダヤ人がアラブ人と共存、或いは並立する道は閉ざされてしまいます(Johnson前掲PP439)。(この段落は全般的にhttp://www.wzo.org.il/home/portrait/mufti.htm(11月14日アクセス)も参照した。)

第二次世界大戦中、フセイニは、ナチスドイツを熱心に支援しました。(後にエジプトの大統領になる)アンワル・サダト等もナチスドイツを支援しています(Ian J. Bickerton & Carla L. Klausner, A Concise History of the Arab-Israeli Conflict, Prentice Hall, 1991 PP68)が、フセイニの場合は、敵(=宗主国英国)の敵(=ナチスドイツ)は味方というレベルを超えた確信犯的支援でした。
亡命してイラクにおもむいていたフセイニは、1941年4月、ナチスが計画し資金を出した反英クーデターに関与します(http://www.atimes.com/atimes/Middle_East/DK08Ak03.html。11月8日アクセス)。一旦成功したクーデターが英軍によってつぶされると、今度はローマに逃げ、同じ年の10月にムッソリーニとの間で協定を締結します。その中に、パレスティナのユダヤ人は、アラブ人の協力の下、ナチスドイツによって根絶(exterminate)されるべきものという記述があり(Bickerton等前掲PP67)、フセイニが、枢軸国勝利の暁に、ナチスによるユダヤ人ホロコーストの中東版に協力することを請け合っていたことが分かります。
その後フセイニは、大戦が終わる頃までベルリンでヒトラーの賓客として過ごし、ボスニアのイスラム教徒の名望家達をナチのSSに入隊させる等のナチへの協力活動を行います(上掲サイト)。
 1942年5月にはフセイニは、ナチスドイツのユダヤ人政策がまだまだ手ぬるいとの認識の下、ブルガリア政府に対して、ユダヤ人がブルガリアからパレスティナに脱出してきているので、ユダヤ人をポーランドに護衛付きで送り返すように抗議しています(Johnson前掲PP512)。

 1948年の第一次中東戦争は、パレスティナに戻ったフセイニの方針にのっとり、パレスティナの分割を決めた1947年の国連決議を無視し、アラブ諸国が一斉にパレスティナのユダヤ人に襲いかかり、その根絶を期して戦われたものです(Johnson前掲PP439)。ところが、あにはからんや、アラブはユダヤに返り太刀を浴び、一敗地にまみれてしまいます。

 このフセイニの一族出身で、フセイニの薫陶を受けて成長したのが、1950年代末にパレスティナ「解放」をめざして設立されたアル・ファタの創立メンバーの一人、ヤセル・アラファト(1929-)です。
 このアル・ファタは、1960年代に入ってシリアを「乗っ取った」ファシスト政党バース党シリア支部政権の支援を受けて対イスラエルテロ活動を活発に行い、1964年に(本来自由・民主主義信奉者たる)ヨルダンフセイン国王(当時)の肝いりでつくられたPLO・・アラブ諸国の意向を受けてパレスティナ解放をめざす・・の主導権を奪い、「名門」出身のアラファトは、パレスティナアラブ人の唯一の正統な代表として頭角を現して現在に至っています(Bickerton等前掲PP146-147)。
 以上のような背景の下、イスラエルの政府関係者の多くは、アラファトの中にファシスト(=反ユダヤ主義者でもある)であったフセイニの面影を見出し、疑いの念をもってアラファトに接してきました。アラファト率いるPLOないしパレスティナ当局(Palestinian Council。1996-)の形骸化した民主主義、腐敗、対イスラエル・対反対派テロ専従隠密部隊の「活用」等が疑惑の根拠でした。
そして、エフード・バラクイスラエル首相(当時)の和平提案(クリントン米大統領(当時)協賛。具体的には、http://www.gush-shalom.org/archives/barak.htm参照。ただし、このサイトの記述は、アラブ側に立ったもの)にアラファトが最終的にノーと言った2001年、ついにイスラエル国民の殆どが、アラファトはやはりファシストであったと確信し、アラファトと決別する決意を固めるに至ったのです。(バラク自身の落胆と怒りについては、上掲サイトを参照。)
(アラファトについては、http://abcnews.go.com/reference/bios/arafat.html(11月14日アクセス)も参照した。)