太田述正コラム#5156(2011.12.5)
<映画評論32:初恋のきた道(その1)>(2012.3.22公開)
1 始めに
『ニュルンベルグ軍事裁判』の映画評シリーズの途中ですが、『初恋のきた道』(原題:我的父親母親。英語タイトル:The Road Home)(1999年中共映画)の映画評をお送りします。
A:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E6%81%8B%E3%81%AE%E3%81%8D%E3%81%9F%E9%81%93
B:http://en.wikipedia.org/wiki/The_Road_Home_(1999_film)
C:http://www.sakawa-lawoffice.gr.jp/sub5-2-a-196hatukoinokitamiti.htm
D:http://www.1101.com/hatsukoi/index.html 以下
E:http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2001/06/08/DD13394.DTL
F:http://www.usatoday.com/life/movies/2001-05-25-road-home-review.htm
G:http://www.variety.com/review/VE1117778683?refcatid=31
この映画についての、日本語のある対談形式の長編の映画評が余りにお粗末なので、私の怒りをとるものもとりあえず文章にしておこうと思い立ったのです。
なお、この映画は、「鮑十(パオ・シー[。Bao Shi])<が自分の>・・・小説[(Remembrance)に基づいて脚本化したもの]を張芸謀(チャン・イーモウ[。Zhang Yimou])監督が映画化した。主演は本作が映画デビューの章子怡(チャン・ツィイー[。Zhang Ziyi])で、語り手である青年の母の若い頃を演じ彼女の出世作となった。西安出身で、『紅いコーリャン』『菊豆(チュイトウ)』など農村映画を撮り続けてきた張芸謀のこだわりが感じられ、また鞏俐(コン・リー)に代わってコンビを組める主演女優を発掘した作品といえる。・・・第50回ベルリン国際映画祭:銀熊賞審査員グランプリ部門[(2等賞)とPrize of the Ecumenical Jury を]受賞・・・。」
(以上、Aによる。ただし、[]内はBによる。)
なお、筋は、Cが見事にまとめているので、ほとんどそのままを紹介させていただきます。
「物語は父の急死の知らせを受けたルオ・ユーシェン(孫紅蕾/スン・ホンレイ)が、その故郷である中国華北部の小さな山村、三合屯(サンヘチュン)へ帰郷するところからスタートする。老いた母は悲嘆にくれるばかり。そして遺体は町の病院に安置されたまま。遺体を担いで帰る昔ながらの葬式をあげようにも、村は老人と子供ばかりで、遺体の担ぎ手がいない。母はまた、棺にかける布も自分が織ると言い張った。・・・
この映画で設定された1958年という時代は、まだ文化大革命の嵐は吹き荒れていなかったものの、どうもチャンユー先生は「右派」らしい・・・?
父の死を聞いて、ユーシェンが村へ帰り、母親や村長と話をする場面はモノクロ映像。しかしディとチャンユー先生との初恋のストーリーが始まると、スクリーンは突然美しいカラー映像に。・・・2人の初恋の物語が終わると、スクリーンは再び現実の世界に。そしてまたカラーからモノクロの映像に逆戻りだ。・・・
父が生命をかけて実現しようとした学校の建替え計画もやっと現実に。・・・
「一緒に行こう」と母に呼びかけても、母は「お父さんと一緒に」というだけ。そして父親のお墓は、水道が敷かれた今はもう使われていない昔水を汲んだ井戸の側に建てられた。・・・
そして、今日はユーシェンが都会へ出発する日。この日ユーシェンははじめて古い学校の教壇に立ち、父がはじめてこの教壇に立った時に読んだ文章と同じ文章を子供たちに朗読した。わずか1時間だけの授業だが、実はそれが父の希望であり、母の願いだった。
そして、いつしかその姿はユーシェンから若き日の父の姿に。そしてこれを見守る母の姿も、また母からディに・・・。教壇に立つ父とチャンユーそして学校の側でこの姿を見守り朗読を聞く母とディの姿が、モノクロ画面とカラー画面でダブりながら交差する張藝謀監督らしい印象的なラストシーンだ。」
2 困った映画評
(1)序
さて、件の対談形式の映画評とは、吉本由美(年齢不詳。日本の作詞家、小説家、エッセイスト)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%85%83%E7%94%B1%E7%BE%8E
と糸井重里(1948年~。コピーライター、エッセイスト、タレント、作詞家)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%B8%E4%BA%95%E9%87%8D%E9%87%8C
の対談であり、2008.2.18から3.3にかけて、計7回に分けてアップロードされています。
(2)「旗」か「機(はた)」か
まず、一見些末なことから行きましょうか。
糸井が、「旗も自分で織ってるじゃないですか」、「旗を織ることになってる」、と「旗を織る」という表現を2回使っている(ことになっている)のには首をひねりました。
この映画を見ていない人間がこの対談の録音から書き起こしを行った場合にはありうる間違いですが、この「旗」はいずれも「機」でなければなりません。だって、「旗」を織る話などこの映画には出てこないのですから・・。(出てくるのは、梁に巻きつける魔よけの布、そして棺桶にかける布を機織りする話です。)もちろん、読みは同じですがね・・。
これは、文筆業のプロであるはずの吉本と糸井が(、さすがに読んで見落としたとは思いたくないので)、どちらも、できあがった原稿に目を通していないことを意味します。
そんな杜撰な映画評を読まされる側はたまったものではありません。
(3)文化大革命か反右派闘争か
次に、もう少し深刻な問題は、糸井が、「文化大革命を、一本、筋にして、僻地に来た若者が呼び戻されて」、「取り立てて文化大革命の大げさな、いやなところを匂わせなかったのも救いですね」と思い付きの出鱈目を口走っていることです。
糸井は、この映画を、DVD化されたばかりの頃に見ており、この対談の直前にも思い出すために見ているのですが、少しは調べた上で対談に臨まないんですかねえ。
いや、本来は調べるまでもないのです。
これは糸井が支那の現代史について全く無知であることを物語っています。
この映画は、「現在」とその「40年前」のシーンでできています。
「現在」の場面で走っている四輪駆動車の型式からすると、まさにこの映画の脚本が書かれたであろう1998年頃が「現在」であることが分かり、そうだとすると、その「40年前」は1958年頃、ということになります。
そんな頃には文化大革命はまだ起こっておらず、まさに反右派闘争の頃、ということになります。
映画の中で、ルオ・ユーシェンが右派として弾劾される、という話が出てきますが、文化大革命の時に使われたレッテルは実権派ないし走資派であり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD
これだけでも、「40年前」が文化大革命の頃ではないことが、糸井には分かってしかるべきなのです。
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<参考>
・百花斉放百家争鳴:1956年から1957年に中華人民共和国で行われた政治運動・・・。「中国共産党に対する批判を歓迎する」という主旨の内容であり、これを受けて国民は様々な意見を発表したものの、百花運動の方針は間もなく撤回され、共産党を批判した者はその後の反右派闘争で激しく弾圧された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E8%8A%B1%E6%96%89%E6%94%BE%E7%99%BE%E5%AE%B6%E4%BA%89%E9%B3%B4
・反右派闘争:1957年に毛沢東が発動した反体制狩りを・・・10月15日、党中央は「右派分子を決める基準」通知を出し、1958年には55万人の右派が辺境への労働改造や失職などの憂き目に遭い、あるいは死亡した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E5%8F%B3%E6%B4%BE%E9%97%98%E4%BA%89
・大躍進政策:1958年から1960年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%BA%8D%E9%80%B2%E6%94%BF%E7%AD%96
・文化大革命:1966年から1976年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD 前掲
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それでいて、糸井は、聞きかじりの知識を使って、「文化大革命を、一本、筋にして、僻地に来た若者が」と、文革の時の若者たちの農村への下放の話を仄めかしているのですから笑っちゃいます。
大体からして、文革の時の下放は半ば強制でしたが、ユーシェンは、あくまでも自分の意思で三合屯にやってきたのですからね・・。
ちなみに、この映画に関する英語ウィキペディア(B)は、「何人かの映画評家達は、この映画のフラッシュバック部分が反右派闘争(Anti-Rightist Campaign)の期間中に措定されていて、ルオ<・ユーシェン>が<町に>呼び戻されたのは、調査と尋問のためであると推定している」と記しています。
(4)最も深刻な問題:この映画のテーマ
以上は、呆れた部分ですが、私が怒ったのは、糸井がこの映画のテーマについて語った部分です。
糸井は、支那の現代史だけでなく、支那の歴史全般について無知なのでしょう。
支那の歴史において、表現の自由などなかったに等しく、それは中共下においても同様であり、その中で表現に携わる人々がどんなに苦労を重ねてきたか、彼は知らないのでしょう。
唯一例外に近いのが春秋戦国時代ですが、そんな時代においてすら、孔子(ということに一応されている)は、いわゆる春秋の筆法を用いざるをえませんでした。(注1)
(注1)「『春秋』は、魯国の年次によって記録された、中国春秋時代<中の>・・・紀元前722年・・・から・・・紀元前481年・・・<の>編年体の歴史書である。儒教では、孔子の手が加わった、もしくは孔子が作ったとされ、その聖典である経書(五経または六経)の一つとされている。・・・『春秋』は極めて簡潔な年表のような文体で書かれており、一見そこに特段の思想は入っていないかのように見える。
しかし後世、孔子の思想が本文の様々な所に隠されているとする見方が一般的になった(春秋の筆法)。例えば、「宋の子爵(襄公の事)が桓公の呼びかけに応じ会盟にやってきた。」というような文章がある。しかし実際は宋は公爵の国であった。これに対して後世の学者は「襄公は父の喪中にも拘らず会盟にやってきた。不孝であるので位を下げて書いたのだ。」と解釈している。
このような考え方によって、『春秋』から孔子の思想を読みとろうとする春秋学が起こった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B
(続く)
映画評論32:初恋のきた道(その1)
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