太田述正コラム#5164(2011.12.9)
<大英帝国論再訪(その1)>(2012.3.26公開)
1 始めに
書評類だけでは具体的な蛮行の事例が余り拾えなかったのですが、リチャード・ゴット(Richard Gott)の ‘Britain’s Empire: Resistance, Repression and Revolt’ をご紹介したいと思います。
A:http://www.guardian.co.uk/books/2011/dec/07/britains-empire-richard-gott-review
(12月8日アクセス)
B:http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/reviews/britains-empire-resistance-repression-and-revolt-by-richard-gottbr-empire-what-ruling-the-world-did-to-the-british-by-jeremy-paxman-2369976.html
(12月9日アクセス。以下同じ)
C:http://www.counterfire.org/index.php/articles/book-reviews/15144-britains-empire-resistance-repression-and-revolt
D:http://www.versobooks.com/books/1017-britains-empire
E:http://www.scotsman.com/scotland-on-sunday/review/books/book_review_britain_s_empire_resistance_repression_and_revolt_1_1930941
F:http://www.ft.com/intl/cms/s/2/3b56dac0-f992-11e0-bf8f-00144feab49a.html#axzz1g1Pz7WuP
(この本を含む3冊の書評)
なお、ゴットは、1938年生まれでガーディアン紙の中南米特派員や編集者を務め、現在はロンドン大学の南北アメリカ研究所の研究フェロー、という人物です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Gott
2 大英帝国論再訪
(1)大英帝国の蛮行
「<この本は、>1750年代から1857~8年のインド大暴動までの期間をカバーしており、その双子の主題は、反植民地抵抗運動と叛乱の遍在的でほとんど連続的な特性、及び同様に、野蛮で暴虐的で、時にジェノサイド的な英国による抑圧の一貫したパターンだ。」(B)
「<大英帝国の植民地は、>1750年から1860年の期間、平和であったことは全くなかった。
紛争、大小の戦争、蜂起、抑圧、そして驚くほど暴虐的な報復なくしてただの一年も過ぎることはなかったのだ。」(A)
「ゴットは、英帝国主義を、その前進に対する抵抗を通じて描くことによって、ニール・ファーガソン的な、それは全てが悪くなかったという執拗なる主張を一蹴する。」(C)
「ゴットは、蜂起したセポイ達への連続砲撃、カブールの報復的略奪、叛乱を起こした奴隷達の虐殺、そしてアイルランドの反体制派の不毛の海岸への移送、が単により非文明的な時代の産物ではないことを見せてくれる。」(C)
「諸帝国というものは、いつも暴力に依存していた。
殺人、拷問、そして財産の破壊は、あらゆる征服につきものの、抵抗運動の破壊、情報と協力の引き出し、支配の誇示、の諸任務にとって本質的なものだ。
ところが、自分達の過去について得意に思える話を語ることが征服者達の特権なのだ。・・・
ゴットの成果は、いかなる歴史家も今までやったことがないのだが、大英帝国をつくり、維持する中心的にして恒常的かつ遍在的な部分に暴力が存したことを示したところにある。」(A)
「ゴットはまた、いかに英国が20世紀の欧州におけるジェノサイドの青写真を提供したかを示し、英国の過去の指導者達は、20世紀の独裁者達と、不名誉の規模において、人道に対する罪の下手人達としていい勝負である、と主張する。・・・
ゴットは、いかに大英帝国が「被支配者たる人々の物理的かつ文化的絶滅を伴うところの、軍事的征服と暴虐的戦争の果実」であるかに光をあてる。」(D)
「1823年のデメララ(Demerara)<(注1)>と1831年のジャマイカ(Jamaica)の叛乱奴隷達の首は、彼らの体から切り取られて道路際の杭の上に載せられた。」(A)
(注1)現在の南米のガイアナの一地方。1815年に蘭領から英領になった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Demerara
デメララの叛乱とは、その地方で1823年に約1000人の砂糖プランテーションの奴隷が叛乱を起こし、うち100~250人が死亡し、英国人牧師も1人死亡した事件。
http://en.wikipedia.org/wiki/Demerara_rebellion_of_1823
「英国の支配に反旗を翻した白人の植民者達も、決して自由の徳のお手本とは言えなかった。
北米の植民者達が独立を欲したのは、英植民地当局が、植民者達の原住民の領域を占拠しようという野心を妨げたからだ。
グレート・トレック(Great Trek)<(注2)>が終わった時点で、オレンジ自由国(Orange Free State)で自由だったのはボーア(Boer)人だけだった。
(注2)1830年代から40年代にかけて、英国のケープ植民地から逃れるべく、オランダ系のボーア人達が東方ないし東北方に逃げて、オレンジ自由国等をつくった過程を指す。
http://en.wikipedia.org/wiki/Great_Trek
「豪州強制収容所(Australian gulag)への流刑者達の自己憐憫的子孫達はと言えば、アボリジンのための小麦粉の中にストリキニーネ(strychnine)<(注3)>を入れたものだし、同時代の記録によれば、「<アボリジンの>赤ん坊達は殺害され乙女たちは強姦された」。」(E)
(注3)「インドールアルカロイドの一種。非常に毒性が強い。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%AD%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%8D
(2)支配者側の証言
「「我々は、黒んぼを爆撃する権利を保持することに固執した」とデーヴィッド・ロイド・ジョージ(David Lloyd George)<(コラム#597、2305、2410、3222、3770、4669、4954)>は「遠く離れた所における警察目的での」爆撃の権利を維持すべく、1932年の世界軍縮会議で英国政府の要求を説明した。
空軍力は、ウィンストン・チャーチルが「非文明的種族達」に対して毒ガスを1919年に使用する際に「真に迫った(lively)恐怖の種(terror)」と呼んだ<(注4)>ところのものをふりまくことで、その価値を示した。」(A)
(注4)実際に英軍は1920年にイラクで毒ガスを用いたとされている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Alleged_British_use_of_gas_in_Mesopotamia_in_1920
(続く)
大英帝国論再訪(その1)
- 公開日: