太田述正コラム#5168(2011.12.11)
<田中上奏文(その1)>(2012.3.28公開)
1 始めに
XXXXさん提供の、服部龍二「満州事変後の日中宣伝外交とアメリカ–「田中上奏文」を中心として–」(服部龍二・土田哲夫・後藤春美編著『戦間期の東アジア国際政治』(中央大学出版会 2007年)の第5章)(コラム#5139)(A)と服部龍二『日中歴史認識 「田中上奏文」をめぐる相剋 』(東京大学出版会 2010年)(同左)(B)の要点を紹介し、私のコメントを付したいと思います。
「「田中上奏文」とは、1927(昭和2)年7月25日に田中義一首相が昭和天皇に上奏したとされる怪文書である。・・・
成立直後の田中内閣は、6月27日から7月7日に東方会議を開催して対中国政策を討議する。
東京で開催された東方会議とは大規模な連絡会議であり、田中のほか、森恪外務政務次官、芳沢謙吉駐華公使、武藤信義関東軍司令官らが出席した。東方会議の最終日に田中は、「対支政策綱領」という包括的な方針を訓示している。東方会議を踏まえて昭和天皇に上奏したとされるのが、「田中上奏文」にほかならない。」(B1頁)
その具体的な中身は、Bの要点を紹介する際に紹介したいと思います。
2 Aより
「<1931年の>柳条湖事件から約一週間には、注目すべき記事が上海の英語雑誌『チャイナ・クリティク(China Critic)』に発表された。1931年9月24日の同誌に、「田中メモリアル(Tanaka Memorial)」が掲載されたのである。「田中メモリアル」とは、英語版の「田中上奏文」であった。この「田中メモリアル」は、中国で小冊子などに転載されただけでなく、諸外国にも浸透していった。もっとも、「田中メモリアル」の出現はこれが最初ではなく、1929年秋に「田中メモリアル」はアメリカへ流入していた。
それでも、『チャイナ・クリティク』誌の影響は大きかった。・・・
英語版「田中メモリアル」は、『チャイナ・クリティク』から大量に複製されて世界中に流布していった。・・・
ただし、アメリカ国務省極東部長のホーンベック(Stanley K.Hornbeck)が覚書に記したように、国務省極東部は数年前から「田中メモリアル」を「巧妙に偽造された文書」と見なしていた。・・・
上海日本商工会議所は、中国国民党の上海市党部が・・・「田中上奏文」の『日本田中内閣侵略満蒙積極政策』・・・の頒布に果たした役割を分析していた・・・。・・・
<そして、>国民党支部などによる「バラ撒き」によって、「田中上奏文」が「中国内のみならず、世界中の華僑在住地方にも氾濫した。・・・
<また、>東南アジアやヨーロッパにも広まった。」(202~203、206、208、212)
「<1932年1~3月の>第一次上海事変<(コラム#3969、4532、4544、4578、4614、4691)>・・・<において、>日本陸軍の第9師団が上海に踏み入れると、国民政府のスポークスマンは、「中国侵略に始まる日本の世界制覇計画は、すでに『田中上奏文』において暴露されている」と上海で発表した。そのことは、『ニューヨーク・タイムズ』紙でも報じられた。・・・
「田中メモリアル」は、アメリカの西海岸でも流布された。・・・
そこでニューヨーク総領事の堀内謙介<(注1)>は、「田中メモリアル」が偽書である<との>・・・投書を・・・1932年・・・4月中旬に・・・『ニューヨーク・タイムズ』紙に・・・載せている。・・・
(注1)1886~1979年。一高・東大法。後、外務次官、駐米大使。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%86%85%E8%AC%99%E4%BB%8B
<また、ある日本人が、著書を>1932年3月にニューヨークで刊行した<ところ、>そこに序文を寄せたのが犬養首相その人であ<り、>・・・<そ>のなかで・・・「田中メモリアル」を明らかな偽書として批判した。・・・
だが、日本の政治家<一般>は、諸外国の厳しい視線に敏感ではなかったようである。一例として、衆議院議員の久原房之助<(注2)>をみておきたい。久原は、1932年4月号の『文藝春秋』に掲載された座談会で、「要するに満蒙の事はあの時即ち昭和3年に出来ておつてよい訳であつたのです。…日本としては東亜の大勢に向つては一種の使命がある訳で、丁度その使命を果たす経路の段階に過ぎんのだろう」と語った。つまり久原は、満州事変後の対中国政策が、田中内閣期の延長線上にあるかのように論じたのであった。
(注2)1869~1965年。「東京商業学校(現一橋大学)を卒業し、<更に、>慶應義塾・・・本科を卒業する。・・・衆議院議員当選5回・・・。逓信大臣、内閣参議、大政翼賛会総務、立憲政友会(久原派)総裁を歴任。日立製作所創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。義兄の鮎川義介と共に「政界の黒幕・フィクサー」と呼ばれ、右翼に資金を提供して二・二六事件に深く関与した。戦後はA級戦犯容疑者となり、公職追放となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E5%8E%9F%E6%88%BF%E4%B9%8B%E5%8A%A9
かつて田中義一内閣の逓信大臣であった久原は、政友会の幹部でもあり、『文藝春秋』の座談会はアメリカでも報じられた。・・・やむなく堀内は、「田中メモリアル」が偽書であるという意見を『ニューヨーク・タイムズ』紙に改めて表明せねばならなかった。」(210~212)
→堀内総領事のNYタイムスへの2度にわたる投稿は、日本の外務省が、中国国民党が組織をあげて遂行していた「田中上奏文」普及運動に対抗する運動を組織をあげて遂行した、というものではないことに注意すべきでしょう。
いわんや、犬養の序文への寄稿も、日本政府が組織をあげて対抗する運動を遂行した、というものではありません。(太田)
(続く)
田中上奏文(その1)
- 公開日: