太田述正コラム#5172(2011.12.13)
<田中上奏文(その3)>(2012.3.30公開)
「蒋介石は・・・1939年1月22日・・・中国の必勝を講じた。このなかで蒋介石は、「ひそかに日本で定められた非公開の伝統的政策、および公開された田中上奏文にかんがみるなら、いわゆる大陸政策とはまず満蒙を占拠してから我が中国全部を侵略して、アジアに覇を唱えたうえで世界を征服しようとするものである」と熱弁をふるった。その後も蒋介石は、「田中上奏文」を引用しながら講話を施している。
アメリカ上院海軍委員会では1940年4月に、タウシッグ(J.K.Tausig)海軍少将が「田中メモリアル」を本物だと発言し・・・日本の野望について証言し・・・た。・・・ただし、アメリカ海軍省は、タウシッグの発言を個人的見解と位置付けており、海軍省の政策を反映したものではないと発表した。タウシッグ発言について駐米日本大使館は、・・・6つの誤りを挙げて「田中メモリアル」が偽書であると反論した。・・・
「田中メモリアル」がアメリカで議論となると、メキシコに亡命していた革命家のトロツキーがこれに反応した。トロツキーは、1940年5月の未定稿で「田中メモリアル」の信憑性を強く主張した。・・・
1940年・・・日本軍は、9月にフランス領インドシナの北部に進駐した。・・・同じく9月に日本は、日独伊三国同盟に調印した。
このころ『ロサンゼルス・タイムス』紙は、「田中メモリアル」を「日本の『我が闘争』」と報じて注意を喚起した。・・・同様に『ワシントンポスト』紙も、「田中メモリアル」を「日本の青写真」と報じた。
さらに日本軍は、1941年7月にフランス領インドシナの南部に進駐した。すると重慶政府では、行政院副院長と財政部長を兼任する孔祥熙<(コラム#178、4978)>は抗日戦の勝利に自信を示し、アメリカと「共通の敵」に対峙していると語り、「田中上奏文」については「歴史がこれをあまねく証明している」と断じた。」(244~247)
→この間、日本の外務省は大した反論活動を行っていません。しかも、やったことと言えば、「田中メモリアル」が偽書であることの指摘にとどまっています。(244~245)
この時点で、外務省、というより日本政府は、遅きに失したきらいがありますが、「田中メモリアル」への反論という埒を超えて政府をあげて、日本の対東アジア政策が、赤露抑止を図るものである旨を宣伝すべきだったのです。
これをやっていたとて成果をあげた保証はありませんが、戦後、日本の戦前史に対する諸外国の認識を再考察する強力な材料になっていたであろうことは間違いないでしょう。(太田)
「1941年12月の真珠湾攻撃によって、日本は太平洋戦争に突入した。そのころアメリカに帰国した者に、中国で取材を続けていたアメリカ人ジャーナリストのスメドレー(Agnes Smedley)<(コラム4722)>がいた。スメドレーはアメリカで、「『田中メモリアル』は日本による世界征服の青写真であり…その系統的な方針はドイツ人ではなく日本人によって発案された」と演説した。戦時下のアメリカでは「田中メモリアル」が、各紙の記事や投書欄で本物として論及されがちとなった。
とりわけ、ジャーナリストのクロウ(Carl Crow)<(注5)>は、『世界帝国という日本の野望–「田中メモリアル」(Japan’s Dream of World Empire: The Tanaka Memorial)』という本を1942年にニューヨークの出版社から刊行し、「田中メモリアル」の全文を掲載した。これについてアメリカの各紙は、「日本の『我が闘争』」であり「日本の青写真」だとして紹介した。『ニューヨーク・タイムズ』紙の記事が論じたように、「田中メモリアル」は「真珠湾攻撃以降さらに広く信じられている」のであった。ラジオでも「田中メモリアル」は放送されており、これにはラティモア(Owen Lattimore)<(注6)>が関与したようである、かつて蒋介石の政治顧問であったラティモアは、戦時情報局(Office of War Information)で太平洋方面を担当していた。
(注5)1884~1945年。「上海で、当時としては珍しい西洋式広告代理店を25年以上営み、上海イブニングポストの編集者もつとめた。・・・第二次世界大戦中にはオーエン・ラティモアに協力して、アメリカ諜報員として中国の抗日運動に協力した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%A6
(注6)1900~89年。米国の東洋学者。1942年~45年、OWI(The United States Office of War Information)サンフランシスコ局長を務める。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%A2%E3%82%A2
http://en.wikipedia.org/wiki/United_States_Office_of_War_Information
日米開戦から1942年3月にかけて、アメリカ国務省ではホーンベック<(コラム#4392、4464、5168)>顧問らが、「田中メモリアル」の真偽を再検討した。その際には、『第4インターナショナル』のトロツキー論文なども精査された。その結果は、「田中メモリアル」の信憑性を疑問視するものであった。このため、「田中メモリアル」をプロパガンダに利用するのは不適切だと判断されたのである。国務次官を辞した直後のウェルズ(Sumner Welles)<(注7)>も、1944年の著作で微妙な言い回しを用いた。ウェルズによると、「『田中メモリアル』は実際に日本の公的な政策の聖典ではなかったかもしれないが」、日本政府はあらゆる機会をとらえてこの計画を推し進めてきたという。
(注7)1892~1961年。ハーバード大卒。国務次官(Under Secretary of State):1937~43年。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sumner_Welles
にもかかわらず、アメリカでは「田中メモリアル」が戦時中のプロパガンダ映画に利用された。プロパガンダ映画をアメリカで推進したのは、国務省ではなく陸軍省であった。マーシャル(George C. Marshall)陸軍参謀総長が、ハリウッドの映画監督フランク・キャプラ(Frank Capra)<(コラム#4358)>に自ら宣伝映画の政策を依頼したのである。キャプラ監督は、『スミス都へ行く(Mr.Smith Goes to Wasgubgtib)』<(同上)>などの映画で広く知られていた。キャプラによる一連の宣伝映画は、「なぜ戦うのか(Why We Fight)」というシリーズ名のもとに7本制作された。このシリーズは、数百万のアメリカ兵に見せられ、ローズヴェルト大統領の意向によって一般の劇場でも公開された。のみならず海外へも、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、中国語の各国語版で配給された。シリーズの第一作は、1943年のプロパガンダ映画『戦争への序曲』であり、そこには「田中メモリアル」が何度も登場した。
(続く)
田中上奏文(その3)
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