太田述正コラム#5182(2011.12.18)
<田中上奏文(その8)>(2012.4.4公開)
 「幣原喜重郎内閣の成立に際してGHQは、1945年10月に幣原の個人調書を作成した。そこに含まれたGHQのメモによると、・・・幣原の外交は「男爵田中首相によって打ち消され、1927年には悪名高い『田中メモリアル』が立案された」という。つまり、幣原の調書には「田中メモリアル」が実存するものとして出てきており、そのGHQメモは<東京裁判の>国際検察局にも渡された。・・・
 1946年・・・4月には戦後初の総選挙が行われ、鳩山率いる自由党が第一党に躍り出た。しかし、意外にも鳩山が5月4日に公職追放となったため、自由党後継総裁の吉田茂が首相に就任した。第一次公職審査委員会は鳩山を公職追放に該当しないと判断していたにもかかわらず、GHQが強権を発動して鳩山を追放したのである。・・・
 GHQが鳩山を公職追放にした論拠はいくつもある。
 すなわち、田中義一内閣の内閣書記官長として治安維持法改正による言論弾圧を進めたこと、斎藤実内閣の文部大臣として京都大学法学部教授滝川幸辰<(注12)>を罷免したこと<(注13)>、労農団体の解体に関与してヒトラー・・・を礼賛したこと、日中戦争開始直後に近衛文麿首相の私的使節として「日本の侵略計画を正当化するため」アメリカや西欧を旅行したこと、1942年に選挙運動の挨拶状で「田中内閣によつて樹てられた世界政策は着々として実現されつつある」と豪語し、「悪名高き田中の世界征服政策(ntorious Tanaka policy of world conquest)」と一体化したこと、などである。・・・
 (注12)1891~1962年。京大法卒。専門は刑法。「瀧<(滝は厳密には誤り(太田)>川の刑法理論は、当時の左翼的・マルクス主義的な思想を背景に、階級対立社会では、罪刑法定主義が厳守されなければ、刑法が階級抑圧の手段とされてしまうとして客観主義を強調するもの<だった。>」いわゆる滝川事件(注13)で京大を去るが、戦後同大に復帰、総長も務める。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%A7%E5%B7%9D%E5%B9%B8%E8%BE%B0
 (注13)「蓑田胸喜ら・・・右翼、および菊池武夫(貴族院)や宮澤裕(衆議院・政友会所属)らの国会議員は、司法官赤化の元凶として帝国大学法学部の「赤化教授」の追放を主張、司法試験委員であった滝川を非難した。1933年4月、内務省は滝川の著書『刑法講義』『刑法読本』に対し、その中の内乱罪、姦通罪に関する見解(後者については妻にだけ適用されることを批判した)などを理由として発売禁止処分を下した。翌5月には斎藤内閣の鳩山一郎文相が小西重直京大総長に滝川の罷免を要求した。京大法学部教授会および小西総長は文相の要求を拒絶したが、同月26日、文部省は文官分限令により滝川の休職処分を強行した。・・・<そして、京大>総長は、<抗議の>辞表を提出し<てい>た教官のうち滝川および佐々木惣一(のちに立命館大学学長)、宮本英雄、森口繁治、末川博(のちに立命館名誉総長)、宮本英脩の6教授のみを免官とし<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 滝川事件は、不幸な事件だったが、治安維持法改正もそうだが、いかに当時の日本にマルクス主義的なものへの嫌悪感が充満していたかを示している。米国におけるマッカーシー旋風(1950~53年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%BC
に先立つこと、約20年である。
 従来、鳩山の公職追放に際してGHQが重視した田中内閣の対外政策とは、「田中上奏文」ではなく東方会議を意味すると解されてきた。・・・
 翌5月5日の『ニューヨーク・タイムズ』紙は、鳩山に対するインタビューを掲載している。自宅で取材に応じた鳩山は、悲しげな笑みを浮かべながら、「<GHQの>指令には事実関係の誤りが多く含まれている」と答えた。「1938年の拙著『外遊日記 世界の顔』では、ファシストの指導者たちを称賛してなどいない」。
 鳩山による、たしかに1942年の選挙用パンフレットには「田中内閣の世界政策を支持する」という公約が含まれていたものの、それは「世界征服政策」などではない。「マッカーサー将軍は、『田中メモリアル』なるものが正規文書だという『虚構』を採用するというのか」と鳩山は訴えた。・・・
 さらに鳩山は、「田中上奏文」を「中国の偽造文書」だと主張し、GHQが「『疑わしい(alleged)』文書を本物だと証明しようとするとは面白い」と皮肉を述べた。そのうえで鳩山は、「田中内閣の内閣書記官長として、そんなものを聞いたこともなかった」と取材を締めくくった。このように鳩山は、「田中上奏文」に対するGHQの誤認が公職追放の一因であると見なし、これに強く反発したのである。インタビューに東方会議のことは出てこない。
 これらの報道や鳩山の反応から判断して、GHQ令の「悪名高き田中の世界征服政策」は「田中上奏文」を含むと解するのが自然だろう。GHQに鳩山への判断を誤らせるほどに、「田中上奏文」の影響は根強かったのである。」(192、194~197)
→この時の鳩山の公職追放に「田中上奏文」が大きく関わっていたとすれば、それがこの偽書が日本に与えた最大の害悪であったと言えるでしょう。
 この結果、鳩山に代わって首相の座に就いた吉田茂によって、戦後日本の属国化の礎が築かれるのですから・・。(太田)
 「占領下の日本で大衆に「田中上奏文」の像をもたらしたのは、亀井文夫<(注14)>監督の映画『日本の悲劇』である。レニングラードで映画を学んだ亀井は、反戦映画を制作したとの理由で戦時中に投獄されていた。1946・・・年5月に亀井監督は、復帰第一作として『日本の悲劇』を完成させた。・・・
 (注14)1908~87年。「文化学院大学部を中退後、ソビエト美術を学ぶため1929年にソビエトへ渡る。ソビエトで見た映画に感動し、映画の道を志し、レニングラード映画技術専門学校の聴講生になったのが映画監督になるきっかけ。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E4%BA%95%E6%96%87%E5%A4%AB
 <それは、>次のナレーションで開幕する。
 
 侵略戦争は日本の支配階級が終始一貫してとってきた政策である。ここに田中覚書と呼ばれる怪文書がある。これは昭和三(ママ)年、ときの総理大臣田中義一大将がいまの天皇陛下に上奏したものだと言い伝えられている。ことの真偽はともかくとして、太平洋戦争に至るまでの日本の支配階級の歩みが、まったくこの覚書の通りになってきていることは驚くべき事実だ。
 このナレーションに続けて映画の冒頭では、「支那を征服せんと欲せば、先づ満蒙を征せざるべからず」という「田中上奏文」の文言が用いられた。・・・」(197~199)
→こういう人物には、ソ連崩壊(1991年)まで生き延びて欲しかったと痛切に思う。(太田)
(続く)