太田述正コラム#5188(2011.12.21)
<田中上奏文(その10)>(2012.4.7公開)
 「<前出の>バランタインが、戦犯起訴状公表後の1945年5月に日本を訪れ、国際検察局と接触し<ている。>
 ・・・国際検察局は、「外務省や参謀本部でそれ(「田中メモリアル」のこと–引用者注)を見つけ出せずにおり、原文書をくまなく探していた」。そこでバランタインが、「探すのをやめた方がいい。そんなことはできない。存在しないのだから」と述べたところ、「ようやく彼らは探すのをあきらめた」という。
 つまり、国際検察局は当初、「田中上奏文」を信じていたことになる。」(213)
 「1946年7月22日には、国民政府国防部次長の秦徳純<(注17)(コラム#4008)>が検察側証人として現れた。
 (注17)1893~1963年。「中華民国の軍人。北京政府、直隷派、国民軍、国民政府(国民革命軍)に属した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E5%BE%B3%E7%B4%94
 1935年6月27日の土肥原・秦徳純協定で知られている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E8%82%A5%E5%8E%9F%E3%83%BB%E7%A7%A6%E5%BE%B3%E7%B4%94%E5%8D%94%E5%AE%9A
 秦徳純は、日中戦争の発端となった盧溝橋事件のときに第29軍の副軍長であり、北平市長でもあった。・・・
 東京裁判で朗読された秦徳純の「『七七』事変紀実」に<おいて、>・・・<彼>は、「田中上奏文」に基づく世界制覇の第二段階として、盧溝橋事件を位置づけたのである。 <日本人たる土肥原賢二被告弁護人や橋元欣五郎被告弁護士に引き続き、>平沼騏一郎被告の弁護人クライマン(Samuel J. Kleiman)<(注18)>が、「田中上奏文」について秦を追及した。
 (注18)当時captain(陸空軍なら大尉、海軍なら大佐)であったことしか分からなかった。
http://books.google.co.jp/books?id=7r7VLQd5olEC&pg=PA73&lpg=PA73&dq=Samuel+J.+Kleiman&source=bl&ots=fxz4l6VjMA&sig=BVgb-V1NKFkvolruivKpnf8wGgg&hl=ja&sa=X&ei=uDzvTqeUDuPfmAW2r-yICg&ved=0CGUQ6AEwBw#v=onepage&q=Samuel%20J.%20Kleiman&f=false
 私ノ質問ノ目的ハ、中国ニ於ケル共産党ノ宣伝活動ヲ示スコトデアリマス、ソレニ依ツテ更ニ所謂田中計画ト云フモノハ、中国ノ共産党ニ依ツテ作ラレタモノデアルコトヲ証明シ、中国共産党ガ、他国ノ共産党ノ協力ヲ得テナシテ居タ諸活動ヲ暴露スル目的デアリマス
 クライマンは、「田中上奏文」を中国共産党による宣伝活動の一環だと論じたのである。
 しかし、ウェッブ<(注19)(コラム#2367、4580)>裁判長が、「何ノ関連性ガアルカ私ニハ分りマセヌ」と遮ったため、やむなくクライマンは質問を打ち切った。「田中上奏文」が中国共産党によって作成されたという主張は退けられたものの、7月25日付け『シカゴ・デイリー・トリビューン』紙は、その模様を簡潔に報じていた。」(216、218、220)
 (注19)Sir William Flood Webb。1887~1972年。クイーンズランド大卒。東京裁判当時はオーストラリア最高裁判所裁判官。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96
→クライマンの質問を全部聞いてみたかったですね。何らかの根拠があったはずだからです。
 前にも記したように、私もクライマンと同じ考えです。
 誰か掘り下げた研究をしてくれるといいのですが・・。(太田)
 「1946年10月8日、ソ連代表検察官ゴルンスキー(S. A. Golunsky)<(注20)>が日ソ関係について冒頭陳述を行った。・・・<彼>は、裁判の対象外であるにもかかわらず日露戦争やシベリア出兵から説き起こし、日本が一貫してソ連に敵対的だったと糾弾した。
 (注20)Sergei Alexandorovich Golunsky。その後、国際司法裁判所判事に就任したようだ。
http://www.issue.net/~sun/sc/1953/0099.html
→全くもってそのとおり。まさにそれこそ共同謀議、とは言っても日本国民のコンセンサスという意味での共同謀議ですが、の中身です。(太田)
 ここで、もう一人のソ連代表検察官であるローゼンブリット(S. Y. Rosenblit)が、セミョーノフ(Grigorii Mikhailovich Semenov)<(コラム#4643、4647、4649、4655)>の宣誓口供書を提出した。コサック首長のセミョーノフは、ロシア革命後に日本の支援を得て反革命政権をチタに樹立したものの、やがて亡命し、ソ連軍に逮捕されて1946年8月に銃殺されていた。・・・口供書の日付は、処刑4ヵ月前の4月11日になっていた。・・・
 <それによれば、>シベリア出兵が失敗した後に日本は、「田中上奏文」という新たな侵略計画を策定して満州を占領し、ノモンハン事件後も対ソ戦の計画を断念しなかったという。
 セミョーノフの口供書は、「田中上奏文」をこう論じていた。
 1927年世界ノ新聞紙上ニ所謂「田中覚書(メモランダム)」ナルモノガ掲載サレタ、而シテソノ真実ナルコトヲ日本側ハ日本ノ新聞ヲ通ジ否定セント企ミタガ私ハ斯ル計画ガ実在シタコトヲ当ノ田中男<爵>カラ直接聞知シテヰタ
 このようにセミョーノフの口供書は、「田中上奏文」が実在すると田中自身から聞いたと主張する。いかにも荒唐無稽な内容といわねばなるまい。しかも、当のセミョーノフは処刑されていた。にもかかわらず、その口供書は裁判所に受理されたのである。・・・
 後年にソ連次席検察官スミルノーフ(Lev Nikolaevich Smirnof)も、「田中メモリアル」が侵略の第一歩を満州に求めたのは、満州がソ連領に食い込んでおり、対ソ戦略の中心的位置を占めるからだと論じている。」(224~227)
→セミョーノフの口供書は、(恐らくは「田中上奏文」ともども、広義の)赤露による偽造文書でしょうが、スミルノーフの言は、「侵略」を「抑止」と読み替えれば、そのとおりです。(太田)
 「検察側立証が終わると、弁護側による反証が1947年2月24日から開始された。・・・
 冒頭陳述で清瀬は、日本が世界征服のために共同謀議したことはないとして、太平洋戦争を「自衛権の行使」と位置付けた。太平洋戦争を正当化した清瀬の陳述に対して、重光葵<(コラム#763、4116、4276、4348、4350、4366、4376、4378、4390、4689、4699、4732、4740、4754、5004、5180)>、土肥原賢二<(コラム#4548、4616、4903)>、平沼騏一郎<(コラム#877、2441、3921、4274、4454、4754、4982、5004、5028、5186)>、広田弘毅<(コラム#1820、4378、4618、4833、4855、4963、4968、4998)>の4被告は不参加を表明した。4被告のうち広田は、「自分はこれらの戦争の防止に全努力をあぐべきであったが、それを果たしえなかった、従って重大責任を感じているので今日これを肯定せんとする陳述には参加しえない」と漏らしている。」(227)
→この4名は、法的議論の何たるかを全く理解していないと言わざるをえません。戦争に敗北したこと、或いは敗北必至の戦争に「全努力をあ」げて反対しなかったことと、この戦争が「自衛権の行使」であったかどうか、とは全く関係のない話だからです。(太田)
 「<結局、>共同謀議については訴因一が認定されたものの、「田中上奏文」への言及はなく、意外にも大川周明<(注21)(コラム#211、219、221、4376、4952)>が中心的な役割を果たしたと判決はいう。「田中上奏文」については曖昧となり、判決にも「田中上奏文」は出てこなかったが、それでも共同謀議は認定されたのである。
 (注21)1886~1957年。東大文卒。思想家。「近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した。晩年、コーラン全文を翻訳するなどイスラーム研究でも知られる。・・・<東京裁判で奇行を繰り返したため、>ウェッブ裁判長は大川周明を精神異常と判断し、・・・大川を正式に裁判から除外した。大川は・・・、梅毒による精神障害と診断された。その後の精神鑑定で異常なしとされたが、裁判には戻されず、・・・入院中、・・・コーラン全文の翻訳を完成する。・・・東京裁判で起訴された被告人の中では、裁判終了時に存命していて有罪にならなかった唯一の人物となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%91%A8%E6%98%8E
 東京裁判は「田中上奏文」をめぐって迷走した末に、判決では大川周明の言動が共同謀議の根拠に用いられた。精神状態を理由に裁判から除外された大川に、裁判所は共同謀議の計画を求めたのである。その意味で「田中上奏文」は、直接には判決にあまり影響しなかったといえよう。
 そして判決は、「1927年から1929年まで、田中が総理大臣であったときすでに、軍人の一派は、大川やその他の官民の支持者とともに、日本は武力の行使によつて進出しなければならないという、大川のこの政策を唱道していた。ここにおいて、共同謀議が存在した」という。
 荒木貞夫弁護人の菅原裕は、「日本人の常識では実に滑稽極まる認定」とこれを批判している。」(233)
→ニュルンベルグ裁判に比べても、東京裁判(極東裁判)のいいかげんさは際立っていますね。(太田)
(完)