太田述正コラム#5192(2011.12.23)
<リベラルなイスラムは可能か(その1)>(2012.4.9公開)
1 始めに
 トルコ人のムスタファ・アキョール(Mustafa Akyol)の著書 ‘Islam Without Extremes: A Muslim Case for Liberty’ の書評や著者へのインタビュー記事を通して、果たして、「リベラルなイスラムは可能か」を探ってみましょう。
A:http://www.ft.com/intl/cms/s/2/460f2f26-24d0-11e1-ac4b-00144feabdc0.html#axzz1h86DDMOr
(12月21日アクセス。以下同じ)
B:http://online.wsj.com/article/SB10001424053111903554904576458563543798724.html
C:http://blog.acton.org/archives/25281-book-review-islam-without-extremes-a-muslim-case-for-liberty.html
D:http://www.reuters.com/article/2011/07/14/us-books-islam-idUSTRE76D5JP20110714
E:http://www.nationalreview.com/articles/272669/liberating-islam-interview
F:http://www.npr.org/2011/07/25/138617226/a-writer-argues-for-an-islam-without-extremes
G:http://www.todayszaman.com/news-252202-problems-attributed-to-islam-may-not-really-be-islamic.html
 なお、アキョールは、1972年生まれのトルコの英字紙のコラムニストです。
 [トルコでイスタンブールの英国系の高校を卒業してから、トルコの大学の国際関係学科を卒業。]
 「彼はイスラム過激主義とトルコ世俗主義の双方を批判し、この二つをジャコバン主義と原理主義に準える。彼の記事はしばしば現与党の正義開発党(Justice and Development Party)に対して友好的だ。・・・彼は、かつてインテリジェント・デザイン(Intelligent Design)(注1)の推進者でもあった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mustafa_Akyol
 ただし、[]内は(G)による。
 (注1)「『宇宙自然界に起こっていることは機械的・非人称的な自然的要因だけではすべての説明はできず、そこには「デザイン」すなわち構想、意図、意志、目的といったものが働いていることを科学として認めよう』という理論・運動で、1990年代にアメリカの反進化論団体などが提唱し始めたものである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3
2 リベラルなイスラムは可能か
 (1)「リベラルなイスラム」滅亡史
 「イスラムは、その最も初期の日々においては、「ビジネス友好的な」信仰だった。
 ムハンマド自身、裕福なビジネス・ウーマンと結婚し、財産権、相続法、交易における公正さ、の全てがイスラムの教えによって強化された。・・・
 ハディス(Hadiths)<(注2)(コラム#205、387、389、1069、1081、1150、4220)>は、必要に迫られて生まれたものだが、必ずしも理性を伴ってはいなかった。
 (注2)ハディース。8~9世紀に集大成されたムハンマドの言行録。スンニ派とシーア派のハディスは異なっている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Hadith
 日本語のウィキペディアが、まだないとはさびしいことだ。
 実際、・・・イスラムの初期の歴史において、二つの基本的な思想があった。
 それは理性の人々<の思想>と伝統の人々<の思想>であり、ハディスの創造に関する限り、伝統の<人々の思想の>方が勝利を収めた。・・・
 ある男がスイカを決して食べなかったのは、預言者ムハンマドがそうしたという記録を発見することができなかったからだとした、という挿話がある。・・・
 ハディスとシャリア(Shariah)<(注3)(コラム#164、318、483、500、679、793、816、1048、1080、1087、1150、1183、1847、2032、2376、2818、2972、3010、3236、3238、3369、3858、3922、4222)>法の多くは(宗教的確信ではなく政治的確信に立脚して、)特定の時と場所において、そしてしばしばコーランに立脚せずして、或いはムハンマドの実際の事例に根差さずして形成された。
 (注3)シャリーア。「イスラーム教における宗教に基づく法体系。・・・その内容は宗教的規定にとどまらず民法、刑法、訴訟法、行政法、支配者論、国家論、国際法(スィヤル)、戦争法にまでおよぶ幅広いものである。・・・このように経典が六法全書と国際法を合わせたような性格を持つようになったのは教祖であるムハマンド自身が軍の指揮官であり国家元首であったことが大きく関わっている。・・・<シャリーアの>主な法源(ウスール・ル=フィクフ)は、クルアーン、預言者の言行(スンナ、それを知るために用いられるのがハディース)、合意(イジュマー)、類推(キヤース)・・・シーア派法学では歴代イマームの言行も重要な法源(ハディース)として扱われる。実際の裁判においては、過去の判例や法学者の見解(ファトワー)、条理なども補助法源として用いられている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%A2
 ハディスとシャリア法は、・・・良くて典拠が定かではなく(apocryphal)、悪くて政治的かつ個人的動機によるものなのだ。
 だから、ハディスとシャリア法は、現代のイスラム教信者にとって妥当性(relevancy)を失っているのだ。
 しかし、ムハンマドの死後それほど時を置かず、・・・伝統派が、若きイスラム・コミュニティをアラビア半島において流れていた経済的主潮流から切り離してしまった結果、イスラム教徒は非イスラム教徒と交易を行うことから孤立させられてしまったのだ。
 この種の孤立は、経済だけでなく、芸術、語学、科学、そして様々な資源に<悪い>影響を与えた。」(C)
 「コーランは、多くの自由・・例えば、「生命、財産、プライバシー、移動、正義、個人の尊厳、そして法の前の平等」・・を導入したのに対し、「古典的イスラム文学は義務に焦点をあてた」。
 シャリアそれ自体も、少なからず被治者を支配者から守ることを意図したところの、動的な法の体系を孕んではいた。
 <なお、>石打ちの刑はコーランに立脚したものではなく、恐らくはユダヤ教から来たものだし、女性のヴェールかけと隔離は、ほぼ確実にペルシャと(キリスト教の)ビザンツ帝国の慣行に由来する。
 しかも、ムハンマドの頃のメディナのもともとの政体は、世俗的であり、その憲章は一緒にウンマ(umma)またはコミュニティを作り上げていたところのイスラム教徒と非イスラム教徒を平等に守っていた。
 ところが、今日では、ウンマという言葉はもっぱらイスラム教徒からなる共同体(commonwealth)を意味するものへと突然変異している。」(A)
 「イスラム支配下の宗教的寛容の歴史を振り返ってみよう。・・・
 例えば、7世紀のメディナでは、彼らのイスラム支配者達の保護の下に、ユダヤ教徒達は自分達の宗教儀式を公然と執り行うことが認められていた。」(D)
→ハディスやシャリアの過去コラムへの登場回数の多さを見るだけでも、太田コラムが中東に関するコラムでもある、という感を深くします。(太田)
(続く)