太田述正コラム#5224(2012.1.8)
<ビスマルク(その1)>(2012.4.25公開)
1 始めに
昨年の3月に初めてジョナサン・ステインバーグ(Jonathan Steinberg)の ‘Bismarck: A Life;Jonathan Steinberg’ の書評を目にしながら、かくも長く放置していたのは、それだけ、他に取り上げるべき題材が多かったからです。
遅ればせながら、この本を取り上げたいと思います。
A:http://www.guardian.co.uk/books/2011/mar/19/bismarck-life-jonathan-steinberg-review
(3月20日アクセス)
B:http://www.nytimes.com/2011/04/03/books/review/book-review-bismarck-by-jonathan-steinberg.html?_r=1&hpw=&pagewanted=print (書評子はキッシンジャー)
(4月3日アクセス)
C:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/8418498/Bismarck-a-Life-by-Jonathan-Steinberg-review.html
(1月6日アクセス。以下同じ)
D:http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/reviews/bismarck-a-life-by-jonathan-steinberg-2292237.html
E:http://www.literaryreview.co.uk/blanning_02_11.html
F:http://www.newstatesman.com/books/2011/03/bismarck-germany-europe-hitler
G:http://www.bloomberg.com/news/2011-04-13/bismarck-spat-blood-and-iron-had-huge-chamber-pots-books.html
H:http://bookhampton.typepad.com/blog/2011/09/jeremy-is-reading-bismarck-a-life.html
I:http://www.forward.com/articles/138986/#
なお、ステインバーグは、米ペンシルヴァニア大学の近代欧州史の教授です。(G)
2 序
「・・・オットー・フォン・ビスマルク(Otto von Bismarck)<(注1)>は、プロイセンの首相(Minister-President)(後に北ドイツ連邦<(注2)>、更にはドイツの宰相(Chancellor)と兼務)を1862年から90年まで務めた。・・・
(注1)1702年から1947年まで存在したところの、プロイセン王国の筆頭閣僚ポスト。ドイツが統一された1871年から第一次世界大戦でドイツが敗北した1918年までは、通常、ドイツ宰相が兼務した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Minister_President_of_Prussia
(注2)1867年に北ドイツ連邦(North German Confederation)が成立すると、ビスマルクがその宰相(Bundeskanzler=federal chancellor)に就任した。そして、1871年にドイツ帝国が成立すると、ビスマルクがその初代の宰相(Reichskanzler=Imperial Chancellor)に就任した。ドイツが第一次世界大戦に敗北した1918年に一旦、とだえるが、1919年のワイマール共和国成立とともに復活。1933年から45年までヒットラーがその職に就いた。1949年に当時の西独で、北ドイツ連邦当時の呼称の宰相(Bundeskanzler=federal chancellor)が復活し、ドイツ再統一後も存続して現在に至っている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Chancellor_of_Germany
<ビスマルクの同時代人にリンカーンがいる。>
リンカーンは1809年に生まれ、ビスマルクは1815年に生まれた。
リンカーンは1861年に米大統領になったのに対し、ビスマルクは1862年にプロイセンの首相になった。
そして最も顕著なことに、両者とも自国を統一したとされている。
もちろん、両者の違いはたくさんある。
リンカーンは、何が何でも、米国の統一を維持しようとし、次いで統一を回復しようとしていただけに、恐ろしいほど困難な試みではあったものの、米国で奴隷制を終わらせなければならない、という立場に到達するに至る道徳的上昇弧を前進して行ったように見える。
これに対して、ビスマルクは、自分の君主と国に対する奉仕を超えた固定的な諸原則といったものを何も持っていなかったように見える。・・・」(H)
「オットー・フォン・ビスマルクは、<時代的に>ナポレオンとレーニンの間に位置するところの、欧州政治における最も強力な人物だが、この二人のどちらよりも少ない害しかもたらしていない。
彼の指導の下で、普仏戦争におけるフランスの敗北の後、1871年にドイツ統一が達成された。
「この戦争はドイツ革命と言える。これは、前世紀のフランス革命よりも大きな政治的出来事だ。勢力均衡は完全に破壊され、この大きな変化によって最も苦しめられていて、その諸々の影響(effects)を最も感じさせられているのはイギリスだ」とディズレーリは先見の明をもって、この年、英下院で喝破した。・・・」(F)
「<ビスマルクがプロイセンの首相に就任してから>9年ないし三つの戦争<(注3)>の後、オーストリアはドイツ問題から除外されるに至り、フランスは敗北させられ、プロイセンが支配的となったドイツ民族国家がウィルヘルム1世をその皇帝として成立した。
(注3)1864年のデンマークとの第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争、1866年のオーストリアとの普墺戦争、1870~71年のフランスとの普仏戦争。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF
(1月8日アクセス)
プロイセンがオーストリアに勝利した1866年にはまだビスマルクを非難していた<ドイツの>リベラル達は、今や彼の政治的天才ぶりを祝福するに至った。
彼らは、ビスマルクが以前に犯した憲法違反の諸行為を遡及的に免責する法案を可決したほどだ。・・・」(A)
3 ビスマルクの残した言葉
「・・・ビスマルク・・・が行った、最も悪名高い議会に対する主張は・・・「今日における大きな諸問題は、演説や多数決によってではなく、鉄と血でもって解決されることとなろう」と<いう>宣言<だ。>・・・」(注4)(G)
(注4)「1862年、新国王ヴィルヘルム1世によってプロイセン王国の首相・・・兼外相に任命される。この時、ヴィルヘルム1世と議会は兵役期間を2年にするか3年にするかで対立し、ドイツ統一を目標とするヴィルヘルム1世は議会を説得するためにビスマルクを起用したのである。期待に応え、ビスマルクは軍事費の追加予算を議会に認めさせた。この時にビスマルク<が行ったいわゆる鉄血演説中の一節。>・・・以後<彼は>「鉄血宰相」の異名をとるようになった。」
「今日における大きな諸問題」はドイツ統一を、「鉄」は大砲を、「血」は兵隊を意味しているとされる。(ウィキペディア上掲)
「・・・オットー・フォン・ビスマルクは、かつて「銃剣で何でもできるが、その上に座ることだけはできない」と語った。・・・」(I)
「・・・ビスマルクは、「物事が同じであり続けるためには、すべてが変わらなければならない」という見解を持っていた。・・・」(A)(注5)
(注5)このほか、「賢者は歴史から学び愚者は経験からしか学ばない」が有名。(ウィキペディア上掲)
(続く)
ビスマルク(その1)
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