太田述正コラム#5226(2012.1.9)
<ビスマルク(その2)>(2012.4.26公開)
4 ビスマルクの人となり
「・・・ビスマルクの政治的上昇は、ステインバーグが呼ぶところの「君主的意思(sovereign will)」に依ったものだ。
それは、彼の周りの人々を彼の諸政策に向けてまとめあげる個人的磁力を使う能力だ。・・・」(I)
「彼は、鼓吹的演説者であったことはないが、明らかに大変な大食いの大男であり、とりわけ食事の際に、彼の周りの人々を魅了する生来の能力を明確に持っていた。・・・」(H)
「ビスマルクの制御できない怒りと大志の燃料となったものは何だったのだろうか。
ステインバーグは、いささか問題なしとしない答えを提供する。
それは、母親の愛情の欠如だったというのだ。
こんな発想は単純すぎると退ける前に、ステインバーグが証拠として引用する事例を見て欲しい。
1883年に、ビスマルクの次男は、父親が病気がちであるのを何とかしようとして、異例の医者を紹介した。
この医者、エルンスト・シュヴェニンゲル(Ernst Schweninger)<(注6)>の治療法は、実際的なものであると同時に、親切さに立脚していた。
(注6)1850~1924年。ドイツの内科医。ビスマルク「治療」の功により、1884年にベルリン大学医学部教授に、教授達の反対を押し切って任命された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ernst_Schweninger
燻っていてイラついているビスマルクが、薬を服用してから寝ようと悪戦苦闘していると、この医者は、単に彼の手を握りしめた。
ビスマルクが数時間後に目覚めると、手は依然として握りしめられていた。
こうして彼の気分は改善された。
こういうわけで、その結果、ビスマルクの健康も改善されたのだ。
シュヴェニンゲルは、ビスマルクの同僚達のように解雇されるようなことは決してなかった。
ヘルベルト・ビスマルク(Herbert Bismarck)<(注7)>の報告によれば、高齢のビスマルクの生命の火が消えつつあった時、「彼は私に話かけ、手を私の方にさし伸ばしたので、彼が眠るまで私はその手をとっていた」ところ、これが<父ビスマルクの>優しさへの渇望を示唆する第二の事例だ。・・・
(注7)1849~1904年。ビスマルクの長男。外交官。1886~90年:ドイツ外相。父親が宰相職を解任された数日後に彼も外相職を解任された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Herbert_von_Bismarck
優しさは与えるよりも与えられる方が容易であるということだ。・・・
・・・ステインバーグは、ビスマルクの暗い側面を、彼を尊敬する人々を惹きつけたところの、ビスマルクの魅力と対照させ、バランスをとることに注意を払う。
ビスマルクが学生時代、親しみやすい赤毛の大男で流暢なフランス語と英語を話し、決闘を好み、ビールとシャンパンをがぶ飲みし、自分の友人達をもてなすことを楽しんだといった<ステインバーグの>記述は堪えられない。
若きビスマルクがいくつかの不運な恋愛沙汰に見舞われたことにはつい同情さえしてしまう。
本の後の方で、ビスマルクが、非社交的であったためにこの鉄血宰相の成功に何の貢献もなさなかった一人の家庭的な女性の献身的な夫であったことに対し、若干の敬意が払われる。
招かれて、このドイツの政治家の家族とたった一人で夕食を共にした政治家は、後にも先にもディズレーリただ一人だ。
彼は、ビスマルクがしぶしぶ敬意を表明した、ほぼ唯一の政治家でもある。
ディズレーリのビスマルクへの気持ちは、畏怖(unease)と不安(unease)が入り混じった<複雑な>ものだった。
ビスマルクが三か国語を操って一人で切り盛りしていたところの、ドイツ議会に出席するために1878年にベルリンを訪れたディズレーリは、1871年のドイツ統一法が、欧州、とりわけイギリスに及ぼす影響を心配していた。・・・」(C)
「ビスマルクは、愛情を込めた素晴らしい手紙を書いたが、すこぶる付きに厳しい父親だった。
彼は、自分の長男の本当の恋の成就を妨害した。<(注8)>
(注8)ヘルベルトは、ドイツの領邦の一つの王女と1881年に結婚しようとしたが、父親のビスマルクは、彼女が<新教のプロイセンの「敵」である>カトリックの教徒で、しかも離婚者であり、おまけに、息子よりも10歳も年上であったことから、あらゆる手段を弄してこの結婚に反対し、断念させた。(ヘルベルトに関するウィキペディア上掲)
ドイツにおける最も強力な男であったにもかかわらず、彼は非寛容と言えるほど孤独に徹し、権力の虜になることを嫌った。
彼は、大葬儀の壮麗さを拒否し、静かな送別と素朴な墓碑銘とを選んだ。
「ここにドイツ皇帝の愚僕横たわれり」という・・。・・・
<ビスマルク評については、>「邪悪(unease)」という、ヴィクトリア女王によるビスマルクの要約で終えることも、あるいはまた、ジョン・ラッセル(John Russell)<(コラム#2561、3533)>卿による「私が知っているあらゆる男の中で悪魔的なものが最も強いのが彼だ。」で終えることも、更にはまた、ディズレーリによる、もう少し穏健な、「彼はモンテーニュが書いたように語った。」で終えることもできよう。・・・」(D)
「1870年の秋、フランスの敗北の後、<旧仏領でドイツが占領した>ロレーヌ地方を馬で通っていたオットー・フォン・ビスマルクは、プロイセンの軽騎兵を踏みすき(spade)で攻撃して拘束されたばかりの男の妻に声をかけられた。
彼女の涙ながらの嘆願に対して、彼は、考えうるもっとも親切な風情で、「さて、善きご婦人よ、あなたのご主人は間違いなく」とこの時点で彼の首の周りに指で線を引きつつ、「すぐに吊るされることだろうよ」と答えたものだ。・・・
例えば、ディズレーリは、ビスマルクの「甘く優しい声」と彼の「独特の洗練された発音」に感銘を受けたが、それだけに、彼が実際に言った様々なひどいことは、一層私をぞっとさせる、と付け加えた。
ビスマルクは、人を怒らせることを好んだだけでなく、最初の最初から、攻撃性を政治的戦術として用いた。
すなわち、彼は、プロイセン議会での彼の同僚たる保守主義者達を、自分が「最も極端な極端主義者で、最も野性的な反動主義者で、最も野蛮な議論者」であると誇示(present)することによって抑え込んだ。
自己中心的で神経症的で腐敗的で復讐的で裏切り的で無原則的で専制的で大食漢の恩知らずで、おまけに常習的嘘つきであったところの、ビスマルクは、何ともはや、とんでもない食わせ者だった(spectacularly nasty piece of work)。・・・
ステインバーグが説得力をもって主張するように、彼の主人公の、しばしば病気に罹った身体とその恒常的に病んだ心の間には、密接な因果関係があった。
彼の国王がほんのちょっと彼に対して批判めいたことを口にした途端、ビスマルクは寝台に潜り込み、謝罪がなされるまで呻き苦しむ。
その典型が1869年の手紙だ。
「私は死に至る病であり、胆嚢に問題がある…。私は36時間眠れず一晩中吐きながら過ごした。私の頭は、冷湿布をしているというのに燃え盛るオーブンのような感じだ」と。 そう思ったのは彼だけではなかった。
彼の同時代人達の多くは、ビスマルクはいつも狂気へと誘われており、時々、実際に狂気に陥る、と考えていた。・・・」(E)
「・・・ビスマルクは、大いなる心気症(hypochondriac)<(注9)>疾患者の一人だった。・・・」(A)
(注9)「器質的身体疾患がないにもかかわらず、自身の身体状態に対して、実際以上に過度に悲観的な悩み・心配・思い込みを抱え続け、その結果、身体・精神・日常生活に支障を来たしてしまう精神疾患の一つ。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E6%B0%97%E7%97%87
「ビスマルク自身について言えば、彼は矛盾の塊だった。
ステインバーグはこう主張する。
この巨人にしていじめっ子は、一生ものの心気症疾患者だった。
この常習的嘘つきの陰謀家は、個人的魅力を発揮するとともに、散文の名手だった。
彼は巨万の富を成したが、つつましく生き、エレガントな生活をしようなどとはほとんど考えなかった。
彼の妻は、料理女のように見えたにもかからわず、晩餐をふるまう方法を知らなかった、と評されている。・・・」(G)
(続く)
ビスマルク(その2)
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