太田述正コラム#5246(2012.1.19)
<スチュアート王族の歴史(その3)>(2012.5.6公開)
(4)イングランド/英国王時代
「知的に秀でていて、恐らくはその曾祖父の、スコットランドのルネッサンスを喚起したところの、ジェームス4世<(注23)>に次いで頭の良い(sharp)スチュアートだった<のがジェームス6世/1世だが、>彼は、個人としてはかわいげのない、嫌悪感を催させるとさえ言える、「感傷的な衒学者」だった。
そして、その人生のうち、仰天するほどの割合を(時間を節約するために馬上で放尿する(relieve oneself)ことさえやってのけたところの、)狩猟に費やした。
また、彼は、国王道に一定程度熟達していたけれど、イギリス王座に登った途端、権力を振るう商売に対する関心を喪失した。
更に、彼は、自分の諸トラウマから逃れることはできなくても、それらを乗り越えることができたところの、被虐待児童の古典的な事例だった。・・・」(C)
(注23)「ジェームス4世は、エディンバラ外科単科大学に勅許を1506年に与え、エディンバラ城をスコットランドの主要な火砲鋳造所に変え、スコットランドの最初の印刷所の1507年の開設を歓迎した。・・・
彼は、<文学を含む>諸芸術のパトロンとなった・・・。
彼は教育程度が高く、何か国語も流暢に話すことができた。
1498年7月に、<駐スコットランド>スペイン大使・・・は、フェルディナンドとイサベラ<共同国王>に以下のように報告している。
「この国王は25歳数カ月の年齢だ。
彼は気高い体躯をしており、高からず低からず、外観も形も男性としてこの上もなくハンサムだ。
彼の言葉は極めて感じがよい。
彼は、以下のような外国語をしゃべる。
ラテン語(大変上手)、フランス語、ドイツ語、フラマン語、イタリア語、スペイン語。
スペイン語に関しては、<スペインの>侯爵と同じくらい<流暢だ。>しかも、発音がより明晰だ。
彼はスペイン語の手紙を受け取ることを大層好む。
彼自身の<国の言葉である>スコットランド語は、アラゴン語がカスティリア語と異なるくらい英語と異なる。
この国王は、それに加えて、スコットランドのいくつかの部分と諸島に住む野蛮人達の言葉をしゃべる。
これらの言葉とスコットランド語の違いだが、ビスケー語(Biscayan)とカスティリア語くらいも違う。
また、彼は、聖書やその他の宗教書をよく読みこんでいる。
彼は良い歴史家でもある。
そして、彼は、ラテン語やフランス語の歴史書をたくさん読んでおり、記憶力が極めて良いので、それにより大いに裨益している。・・・」
http://en.wikipedia.org/wiki/James_IV_of_Scotland
「・・・<ジェームス6世がイギリスのジェームス1世となってからの>1世紀半にわたって、スチュアート一家は、自分達の複合的王国のコントロールを維持すべく努力するところの君臨する・・チャールス1世の場合はものの見事にそれに失敗した・・君主達として、或いは、カトリック教徒のジェームス7世/2世<(コラム#1136、1794、1797、2812、2321、3375、3462、3559)>が、カトリック教徒に王位を継承させようとするのではないかとの恐れのさ中に、1688年に追放された以降はジェームス2世派(Jacobite)たる「詐称者(pretender)」として、英国とアイルランドの政治を支配した。・・・」(F)
「・・・マッシーは、ジェームス6世/1世に対する「ガウリー陰謀(Gowrie Conspiracy)」<(注24)>では、ガウリー伯爵の弟との午後のセックスを伴う、KGBが呼ぶところのハニートラップが用いられた、ということを劇的に示唆する。・・・」(B)
(注24)ガウリー伯爵(John Ruthven, 3rd Earl of Gowrie。1577?~1600年)は、スコットランド貴族だが、ガウリー陰謀の真相については3つの説がある。一番新しい説によれば、この伯爵が彼の弟と共に(当時はまだスコットランドだけの国王であった)ジェームスを自宅に招き寄せて誘拐しようと企て、逆にジェームスの家来たちに殺された事件。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Ruthven,_3rd_Earl_of_Gowrie#Gowrie_conspiracy
「・・・マッシーは、チャールス1世があれほど頑なでなければ、事態は内戦にまで発展しなかっただろうと無批判に事実に反する主張を行っている。
しかし、これは社会的、経済的な諸要因を軽視するものだ。・・・」(D)
(5)エピローグ
「・・・ジェームス5世は、「女の子が現れて我々を襲うだろう(It cam wi’ a lass and it will gang wi’ a lass)」という陰鬱な予言を行ったが、スチュアートの家系は、少女によってではなく、同性愛の男にして、老詐称者(Old Pretender)の息子にして、チャールス・エドワード・スチュアートの弟にして、暫時、ジェームス2世派の夢物語における「枢機卿国王(Cardinal King)」であった人物によって、最終的に途絶えることとなった。・・・」(C)
「・・・1804年に、法王が、彼の年長の友人たる、オスティア(Ostia)<(注25)>の枢機卿司教(Cardinal-Bishop)<(注26)>を、一緒にナポレオンの戴冠式のためにパリに行かないかと誘った時、この枢機卿司教はにべもなくこの誘いを拒絶した。
(注25)「ティレニア海沿いにある古代ローマの港町として栄えた。そして恐らくはローマの最初の植民地であったであろう。現在はローマ市の一部となっている。・・・テヴェレ川による堆積により、海岸線から離れ内陸となり、港町の面影はない。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2
(注26)ローマ州における、要となる複数の司教管区のうちの一つの司教。
http://ejje.weblio.jp/content/Cardinal-Bishop
彼はフランス人を嫌う十分な理由があった。
彼らが、<フランス革命後、>彼の財産の多くを没収したこともその一つだ。
しかし、何よりも、彼としては、正当なる国王の場所を奪った簒奪者はそれが誰であれ、そんな者を戴冠させる式に参列することは耐え難いことだったのだ。
というのも、この枢機卿は、少なくとも彼の立場からすれば、自分の祖先の王座がまずオレンジ公ウィリアムによって簒奪され、また、その後、成り上がり者のハノーヴァー家の人々によって簒奪されたところの、イギリスの本当の国王たるヘンリー9世だったからだ。
ボニー・プリンス・チャーリー(Bonnie Prince Charlie)の弟のヘンリー・スチュアートは、スチュアートの直系の家系の最後の人間だった。
枢機卿司教にふさわしく、彼は子供なしに死んだ。
(熱烈なカトリック教への帰依者としての彼の前任者達の多くと似ているが、その大部分と違うのは、彼が一人の庶子も残さなかった点だ。)
それ以降は、ジェームス2世派の大義は、浪漫的な懐旧と系図的な居間でのゲームに過ぎなくなってしまった。・・・」(B)
「しかし、<スチュアート>神話は抗しがたいものがあった。
最もドイツと関係が深く、最もドイツ的なものの考え方をした英国の君主であったところの、ヴィクトリア女王ですら、彼女にとって最も輝かしい先祖(forbear)であるエリザベス1世を、「私の女性たる先祖(ancestress)のスコットランド女王メアリーに対して行った残虐行為」に関して弾劾したのだから・・。
バルモラル城<(注27)>、タータン<(注28)>とバグパイプ<(注29)>は、ヴィクトリアに対して、最も強力なる魔力をかけることができたわけだ。・・・」(A)
(注27)「スコットランド・アバディーン<の郊外>にある広大な城。周囲を森や荘園に囲まれた・・・建物である。・・・ディー川沿いの風光明媚な地域<に>ある。城と周囲の荘園は、ヴィクトリア女王の王配アルバートにより購入された。現在も、イギリス王室の夏の休暇地として使用されている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%83%A9%E3%83%AB%E5%9F%8E
(注28)「スコットランドのハイランド地方で発達した特徴のある格子柄のこと。・・・日本ではタータン・チェックとも呼ばれている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%B3
(注29)「日本ではスコットランドのものが有名であるが、この他にも独自のバグパイプがアイルランド、スペイン、ポーランド、トルコ、バルカン半島といった広い範囲に存在している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B0%E3%83%91%E3%82%A4%E3%83%97
3 終わりに
軽い読み物としてこのシリーズを提供させていただきました。
軽いとは言えど、知らない王様の名前がやたら出てきて混乱されたかもしれませんが、18世紀頃までは、スコットランドやイギリスに限らず、地理的意味での欧州における国王は、男性、女性を問わず、知力も精力も抜きん出た超人的人物でないと務まらなかったところ、そんな国王達でさえ、非業の最期を遂げた者が多いことがお分かりいただけたのではないでしょうか。
まことに驚嘆と同情の念を禁じ得ません。
しかし、摂関政治が始まってからの日本の歴代天皇や、現在の英国のエリザベス2世のように、抜きん出た能力を秘めつつも、国民のことを慮りながら、時代に先んじず遅れ過ぎず、考え抜いた抑制的発言だけを行い、ひたすら皇統や王統を維持することに心がける国王の方が、はるかに大変だし尊敬に値すると私は思います。
それにしても、歴史って本当に面白いですね。
(完)
スチュアート王族の歴史(その3)
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