太田述正コラム#5268(2012.1.29)
<第一次性革命はあったのか(その4)>(2012.5.14公開)
 ダボイワラは、放蕩者の文学を読むことに時間を費やし過ぎて、16~18世紀の英語圏の世界で最も大量の出版物が宗教的な性格のものであったことに注意を止めない。
 ポルノ文学は、それを求めた者は常に入手することができた。・・・
 1612年に姦淫の咎で鞭打ち刑に処せられることとされた男女のケースを彼は引用するが、そこから、彼は、「欧米史の大部分において」係る非違行為を仕出かした者が公に罰せられることは「ごく普通の出来事」であったことが分かると言う。
 <しかし、>シェークスピアの弟のエドマンド(Edmund)<(注14)>は、ヘタクソな俳優だったところ、庶子の子の父となり、認知し、洗礼を受けさせ、彼の教区の教会に埋葬したけれど、彼やこの子の母親が鞭打たれたという話は、寡聞にして聞かない。
 (注14)Edmund Shakespeare。1580~1607年。この子はEdward Shakespeare(1600?~1607年)。なお、教区の教会は、サザーク(Southwark)の聖救世主(St Saviour’s)教会。
http://en.wikipedia.org/wiki/Edmund_Shakespeare
 <それどころか、>シェークスピアの教区の教会で1560年代に結婚した女性の実に3分の1近くは妊娠していた。
 ダボイワラが「イギリス文明の曙以来、宮廷と教会は、禁制のセックスはコミュニティによって許されないという原則を遵守させてきた」と言うのは、要するに本当ではないのだ。
 本当であったのは、しばしば、隠されたひどい動機に基づき、禁制のセックスに係る諸法を遵守させる発作的な試み、が<時たま>宗教的及び世俗的諸当局によってなされたことだ。
 サザークの雑多な人々から、何年もの間、地代を集めていた地主はウィンチェスター(Winchester)の司祭だった<ことを想起して欲しい>。
 <もとより、>姦淫に対する非難は、いつの時代においても見出すことができる。
 しかし、それが実際の慣行とどう関わっていたかを見極めることは事実上不可能だ。
 それなのに、ダボイワラは、<単純に、公式の非難がなされていたこと>を証拠として扱う。
 教会の神父達は、結婚前の妊娠を痛烈に非難するかもしれないが、しばしば、その両親の結婚式の数か月後、いや、数週間後にさえ、幼児達に洗礼が授けられたという教会記録を調べれば、そんな非難に耳を貸した者が果たしていたのかどうか分かったものではなかろう。
 確かに、イギリスでは16世紀になるかならないかの頃に、人々が<、このような公式の>非難に耳を貸し始めたけれど、それこそ、どうしてそうなったかを説明することが求められる。
 金持ちの男は、いつも、カネさえ支払えば、庶子をつくることで咎められることはなかった。
 庶子づくりへの非難は、庶子連中を「教区のカネで」育てなければならないことへの懸念が、通常、その背景にあった。
 経済的利害が怒りと同期した場合に限って、その結果が、体系的迫害となったのだ。
 町の人々の半数が貧民救済の対象になっていたような場合、教会と町(corporation)が未婚の母達に対する迫害の一群に加わる立派な理由が生じた。・・・
→まことにもって、イギリスは大昔から福祉社会だったのですね。(太田)
 ダボイワラにとっては、「欧米史の全て」は中世のどこかで始まるのだが、あらゆる紳士は、その感じやすい青春期において、悪徳をペトロニウス(Petronius)<(注15)>、オヴィディウス、マルティアリス(Martial)<(注16)>、そしてヴェルギリウス(Virgil)<(注17)(コラム#3444、3926)>から学んだものなのだ。
 (注15)20?~66年。「ローマ帝国ユリウス・クラウディウス朝期の政治家、文筆家である。第5代皇帝ネロの側近であった人物として知られ、小説「サテュリコン」の作者と考えられている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%82%B9
 『サテュリコン(Satyricon) 』は、「ネロ期の堕落した古代ローマを描いた小説。その内容の退廃性や登場人物の悪徳ぶりからピカレスク小説にも分類されるが、風刺的な内容もふんだんに含まれている。現在には完全な形では残っていない。その中でも比較的分量の残っている「トルマルキオの饗宴」の場面は有名。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%86%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%B3
 (注16)Marcus Valerius Martialis。40年~102…104年。イベリア半島出身のラテン語詩人。「86年から103年の間に発表された12巻のエピグラム(エピグラムマタ、警句)の本で知られている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9
 「古代ギリシアのエピグラム・・・(警句、寸鉄詩、epigram)・・・は、神聖な場所に奉納する運動選手の像などの捧げもの、および墓碑に刻む詩として始まった。・・・古代ローマのエピグラムは、多くをギリシアのものに負ってはいるものの、より風刺的で、効果を狙って猥褻な言葉が使われることも多かった。・・・ラテン語のエピグラムの巨匠といえば、マルクス・ウァレリウス・マルティアリスだろう。マルティアリスは最終行にジョークを置く風刺詩は現代の、ジャンルとしてのエピグラムの概念にかなり近いものである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0
 (注17)Publius Vergilius Maro。BC70~BC19年。古代ローマのガリア出身の詩人。「。『牧歌』、『農耕詩』、『アエネイス』という3つの叙情詩及び叙事詩・・・を残した。・・・遺稿として残された『アエネイス』(「アエネアースの物語」の意)はウェルギリウスの最大の作品であり、ラテン文学の最高傑作とされる。・・・『アエネイス』は十二巻からなり、ホメーロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』に範を取った叙事詩である。・・・トロイアの王子でウェヌスの息子であるアエネアースが、トロイア陥落後、地中海を遍歴し、保護者となったカルタゴの女王ディードー<(コラム#2789、3269)と>の恋愛を棄て(第4巻)、イタリアにたどり着く。ティベリス川を遡り、パラティヌス丘にのちにローマ市となるパッランテウム市を建設したエウァンデルと同盟を結び、土着勢力ルトゥリ族の首長トゥルヌスを倒して、ラウィニウム市を建設する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9
 また、<あらゆる紳士>は、自分の政治的敵対者達を、胸糞が悪くなるような好色漢として描くことによって中傷する、という方法を身に着けたものだ。
 ダボイワラは、ロチェスター(Rochester)<(注18)>による、チャールズ2世に関する有名な風刺文を引用する。
 (注18)John Wilmot, 2nd Earl of Rochester。1647~80年。イギリスの放蕩詩人、チャールス2世の友人、風刺的かつ卑猥な詩を多く書いた。金持ちの家督相続人たる妻を持ちながら、当時の有名女優のエリザベス・バリー(Elizabeth Barry)を始めとする大勢の情婦を抱えた。ロチェスターの生涯を映画化したのが、ジョニー・デッブ主演の映画『リバティーン(The Libertine)』(2004年)だ。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Wilmot,_2nd_Earl_of_Rochester
 この国王の笏(sceptre)とペニスの長さが同じであったとする風刺文を・・。
 しかし、ダボイワラは、この詩の中で、この国王のフィクション的な持続勃起症(priapism)が、その絶対権力への欲望を意味していることに、明らかに気付いていない。
少なくとも、ジュヴェナル(Juvenal)<(注19)>以来、猥褻性は、政治的風刺の本質的道具であり続けた。
 (注19)デキムス・ユーニウス ユウェナーリス(Decimus Iunius Iuvenalis)。古代ローマの1世紀末から2世紀初にかけて活躍した詩人。サトゥラェ―諷刺詩(Satires)の著者。
http://en.wikipedia.org/wiki/Juvenal
http://www.amazon.co.jp/s?_encoding=UTF8&search-alias=books-jp&field-author=Decimus%20Iunius%20Iuvenalis
 政治的敵対者の評判を悪くする一つの方法として、性的逸脱の汚名を着せることは、常にそうだったけれど、<とりわけ、>苦労して息をしなければならない(pursy)病的状態(fatness)の時代にあっては、効果的だった。
 <例えば、>野心的な同性愛の男性政治家達は、それでも、女性と結婚する必要があった<ところ、彼らの評判を悪くする効果的な方法と言えば、自ずから明らかだろう。>・・・」
http://www.guardian.co.uk/books/2012/jan/22/origins-of-sex-review
(1月23日アクセス)
3 終わりに
 改めて、セックスが芸術活動の原動力になってきたこと、かつ、セックスが芸術活動の重要なテーマとなってきたことを痛感させられました。
 もう一点。
 ダボイワラ言うところの、(少なくともイギリスにおける)第一次性革命なるものは存在しなかった、という批判に私は与します。
 というのは、私は、特定の社会における性意識は、その社会が抱懐している文明の基本に関わるが故に、変わりにくいと考えているからです。
 ところで、英ヨークシャー州立大学のジョージ・ポットマン教授が、欧米は、キリスト教の贖罪の思想から、押しなべて一貫してマゾ文化の社会であったのに対し、日本は、男性の女性遍歴を描いた源氏物語からも分かるように、昔から一貫してサド文化の社会であったのが、平成に入ってから急速にマゾ文化の社会に変貌しつつある、と主張しています
http://www.pideo.net/video/youku/e80ec82dfcc5cecb/
(コラム#5267参照)が、これも同様の早とちりではないでしょうか。
 ご存じのように、私は日本文明の基底は手弱女振りの縄文モードであり、この基底の上に薄く乗っているだけの、益荒男振りの弥生モードへと時々振れる(逸脱する)、というサイクルを繰り返してきたのが日本の歴史である、と考えており、昭和期から平成期というのは、日本が縄文モードへどんどん回帰して行っている時代である、という認識です。
 すなわち、平成に入ってから、日本の手弱女振り化、すなわち日本人、とりわけ日本人男性の中性化、が顕著になってきていることは事実であるものの、それを日本のサド文化からマゾ文化の社会への変化ととらえること、いわんや、それを日本における初めての変化ととらえることは、早とちりだと私は思うのです。
 この話は、機会があれば、改めて取り上げたいですね。
 
(完)