太田述正コラム#5270(2012.1.30)
<イギリス史とロシア史が共鳴した瞬間(その4)>(2012.5.15公開)
・オーガスタス・ヘンリー・クームテナント
 「・・・恐らく、この「研究」から発生した最も奇怪な観念は、一人の高名なる<霊魂不滅論者集団の>細胞による、「眩いばかりの光を帯びた聖なるものの偉大なる生まれ変わり」であるところの救世主たる子供を生誕させる計画だったろう。・・・」(G)
 「・・・霊魂不滅論者達(immortalists)は、バルフォアの弟のジェラルド(Gerald)<(注19)>を父として一人の既婚の女性に、我々の世界をどうにかして救うことが期待される救世主たる子供を懐妊させることを決めた。
 (注19)Gerald William Balfour, 2nd Earl of Balfour。1853~1945年。イートン、ケンブリッジ卒。1930年まで保守党の政治家。
http://en.wikipedia.org/wiki/Gerald_Balfour,_2nd_Earl_of_Balfour
 オーガスタス・ヘンリー・クームテナント(Augustus Henry Coombe-Tennant)<(注19)>は、1913年に生まれ、彼の母親の夫の苗字と同じ苗字を名乗っていたが、理論的には完璧な存在であるはずだった。
 (注20)ヘンリーは、要するに、ジェラルドの庶子、ということ。イートン、ケンブリッジ卒。第一次世界大戦に出征、捕虜となり2年後に逃走して生還。彼の1歳の時の写真を見ることができる。↓
http://bgoodscience.wordpress.com/2011/03/02/engineered-to-save-the-world-the-messianic-child/
 というのは、彼は、墓のかなたから、バルフォアのもう一人の弟であるフランシス(Francis)<(注21)>・・1882年に登山の際の事故で亡くなった、ケンブリッジの生物学者・・によって、摩訶不思議なことに、完璧(fault-free)に「設計された」存在であったからだ。
 (注21)Francis (Frank) Maitland Balfour。1851~82年。ハロー、ケンブリッジ卒。将来を嘱望された進化論学者としてケンブリッジ大学教授になったが、初講義を行う前に、モンブラン登山中に死亡した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Maitland_Balfour
 もちろん、オーガスタスはこの世界を救ったことなどないわけだが、彼は興味深い一生を送った。
 <第2次世界大>戦の軍役の後、彼はMI6に入り(、キム・フィルビー(Kim Philby)<(コラム#1152、3186)>と一緒に働き、)イラクでスパイ任務に就いていた時にカトリックに改宗し、1960年には僧侶になり、修道院でその29年後に亡くなった。・・・」(I)
 「・・・バルフォアはよそよそしい孤立でもって褒め称えられた人物だ。
 そんな元首相<たるバルフォア>が、元保守党の大臣で超常的なものを研究するために政治から足を洗ったところの、弟のジェラルドを通じて、バルフォアがかつて愛したと多くの人々が信じたところの、ずっと以前に亡くなった一人の女性との交信と称されたものへと導かれたのだ。
 自動筆記によって、もっともらしく交信され<て書かれ>た文章は、誰か他の人の頭脳がペンを導いているように見え、<霊媒によって>無意識のうちに生み出されたものであり、それは、未解決の個人的離別や秘密の恋愛<を処理する>ための手段となった。・・・
 <興味深いのは、>「向こう側」に渡った科学者達は並外れた存在となったことだ。
 すなわち、彼らは、人類を混沌から救い出し世界に平和をもたらすであろう、死後に設計された救世主たる子供へと生まれ変わったのだ。
 一人の子供が実際生まれた。
 この子は、バルフォアの弟と、文章を筆記した霊媒たる、ずっと年配の男の妻で彼女の娘が幼児のうちに亡くなった後、偽名で自動筆記をやり始めた女性との間にできた子供だった。
 しかし、この子は、自分に課された任務について、その人生の末期に至るまで何も知らなかったように見えるし、知ってからも真実の全体は多分知ることがなかったと思われる。
 <いずれにせよ、>彼は、この世界全般にいかなるインパクトも与えなかった。
 世界は、紛争と漂流という通常の道程を辿り続けたのだ。・・・」(F)
 「・・・女性参政権者で国際連盟の英国代表になったウィニフレッド・クームテナント(Winifred Coombe-Tennant)<(注22)>とバルフォアの弟たる保守党の政治家、ジェラルドは、<自動筆記された>文章の指示するところに従って行動し、2人の間の婚外子として、新しい救世主が懐妊されることとなったのだ。・・・」(A)
 (注22)1874~1956年。1895年にチャールス・クームテナント(Charles Coombe Tennant)と結婚。ウェールズ人たる女性参政権者、政治家、慈善家、芸術家と降霊術者のパトロン。「ウィレット(Willet)夫人」という名前で霊媒師としての活動も行い、1875年に亡くなっていたところの、メアリー・キャサリン・リットルトン(Mary Catherine Lyttleton)のメッセージを、自動筆記を通じて、その愛人、アーサー・バルフォアに伝達したと称される霊媒達の一人となった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Winifred_Coombe_Tennant
 メアリー・キャサリン・リットルトンは1875年にアーサー・バルフォアに恋を告白したものの、バルフォアがそれに返事をする前に、復活祭直前の日曜日(しゅろの主日=Palm Sunday)に急死し、爾後、30年間にわたって、霊界からバルフォアにメッセージを伝え続けたと信じられた。この事件をパーム・サンデー事件(Palm Sunday Case)という。
http://en.wikipedia.org/wiki/Palm_Sunday_Case
(続く)