太田述正コラム#0087(2002.12.21)
<中東アラブ世界>
千夜一夜物語の原典をひもといてみると、子供向けに書き直されたシンドバットの冒険等を以前読んだときの印象とは違って、何とまあ暗く殺伐とした話ばかりかと思われることでしょう。色欲と物欲の塊のような人物が続々と登場し、その欲と欲とが激しくぶつかりあい、せめぎあいます。油断をすれば、あっと言う間に身ぐるみをはがれ、命もとられてしまいます。
こういう社会では、人々は明日の我が身に何が起こるか分からないという不安を抱きながら生きなければなりません。
これは決して物語の中だけの話でも大昔の中東の話でもないのであって、現在でもなお中東の人々は多かれ少なかれこのような無常の世界に生きているのです。
エジプトの経済学者ガラール・アミンは、その評論集『エジプト人に何が起こったのか?――1945-95年のエジプト社会の発展』の中で、近年のエジプト社会について、「腐敗の横行、規律の無視あるいは規律そのものの不在、暴力事件の増加、新たな種類の犯罪の出現、家族の解体、物質的価値観の広まりによる、浮利の追及の優先、生産労働の軽視。社会の相互協力・連帯の精神の弱まり、都市と農村の双方での生活様式の沈滞・・」と描写しています。(池内恵『現代アラブの社会思想――終末論とイスラーム主義』講談社現代新書2002年、34頁から孫引き)
アミンも、そしてこの文章を引用している池内氏も、エジプト(あるいはアラブ世界)がこんな風になってしまったのは、1967年の第三次中東戦争によるナセル大統領(当時)の敗北及び70年ナセルの死のショックの後遺症だと考えておられるようです(池内 前掲書、40-41頁)。しかしエジプトで少年時代を過ごした私は、エジプト社会が、英国保護領時代のメッキがはげて元に戻っただけだと見ています。
歴史始まって以来、次々に襲来する外来勢力による情け容赦ない支配と収奪に晒されて来た社会はこのような姿になってしまうのです。
つまり中東は、法や制度によって個人や(血縁・地縁等の)集団が保護されてきた欧米や日本と異なるのはもちろん、(支配者たる天子(=皇帝)に最低限の自己抑制を強いる)易姓革命思想(天命思想)を奉じる歴代中華帝国の支配下にあった中国とも異なる、万人が万人に対してあい争う苛烈にして索漠たるホッブス的世界なのです。
イスラム教がこのような中東に生まれ、中東と歴史的環境が似通った北アフリカ、中央アジア、南アジア、東南アジアに急速に普及し、今でも中部アフリカ等へ普及しつつある理由は明らかです。イスラム教に帰依すれば、バラバラの個人や集団の間で、共通の神アラーをいただき、共通のイスラム教的生活規制に従うことを通じた擬似的な連帯感が生まれ、イスラム教が「喜捨」による相互扶助を勧めていることともあいまって、人々が抱く根元的な不安が多少なりとも軽減されるからです。
この中東世界は、イギリスに端を発する世界の近代化(ヨーロッパ化)のうねりに決定的に乗り遅れてしまいました。
中東のようなホッブス的社会においては、共通の世俗的利益のために私益を犠牲にするという発想がないため、社会全体を近代化するといった、社会の成員各層による長期にわたる協同的かつ献身的な努力が要請される大事業を推進することは至難のわざなのです。
さまざまな対応が試みられてはきました。
19世紀前半、オスマントルコ帝国内のエジプトの太守モハメッド・アリ(マケドニア人。1952年の革命まで続くエジプト最後の「王朝」の創始者)は、技術や制度を西側から直輸入して軍事の近代化をなしとげ、ヨーロッパに対抗しようとしたのですが、部分的近代化という方法論の限界とヨーロッパ勢力の「予防的」介入により、アリの改革は挫折してしまいます(Ch. 4 ‘The Egyptian Army of Muhammad Ali and His Successors, David B. Ralston, Importing the European Army, The University of Chicago Press, 1990).
20世紀以降を見てみましょう。
イスラム精神を作興することでヨーロッパの挑戦を克服しようとイスラム復古運動が盛んになり、アラビア半島に原理主義的なワハブ派を奉じるサウディアラビアという国が生まれ、エジプトにも原理主義的なムスリム同胞団が出現しますが、それぞれ中東アラブ世界全体を揺り動かすには至りませんでした。(この系譜から生まれた鬼子がアルカイダ等のイスラム過激派です。)
さりとて、いきなりアングロサクソン流の自由・民主主義を導入することによって中東社会の根底からの近代化を図ろうとしてもそうは問屋がおろしません。イラクの立憲王制はものの見事に失敗しますし、ヨルダンの立憲王制もまだ事実上停止されたままです。
西欧化の試みはどうだったでしょうか。(アングロサクソン文明と西欧文明は全く違うという話はここでは繰り返しません。)
西欧ゆずりのナショナリズムについては、イスラム圏内の中東地域中、イラン高原やアナトリア半島(トルコ)といった、アラブ世界以外でかつ地域的にまとまりあるところではともかく、アラブ世界では機能しないことが次第に明らかになりました。アラブ世界全体を一括りにしたアラブナショナリズムを展開するのは地域的に広すぎて無理がある一方、エジプトを除けば、ナショナリズムの前提となるところの、住民が歴史的体験を共有するような明確な「地域」、が存在しないからです。(そのエジプトにおいても、ナショナリズムは英国からの完全独立と外来の王家の追放を達成したものの、ついに国民を近代化に向けて動員することには成功しませんでした。)
西欧に淵源を持つマルクスレーニン主義は、無神論である以上、イスラム教的なものを「必要」とする中東世界に浸透するのは困難でした。
最後に残されたのが西欧由来のファシズムです。
そのファシズムの導入を試みた二つの国がイラクとシリアであり、それぞれの国において、独裁者が国民への世俗的単一イデオロギー(バース党イデオロギー)の注入と疑似民主的政治過程への国民各層の動員に成功したことに英米は注目しています。彼らは、かねてからこの両国が中東アラブ諸国の中で最も近代化に成功する可能性が高いと見てきたのです。
既にイラクについては、何度もコラムで取り上げてきました。
そろそろシリアを取り上げる時期かもしれませんね。