太田述正コラム#5272(2012.1.31)
<イギリス史とロシア史が共鳴した瞬間(その5)>(2012.5.16公開)
(3)イギリスとロシアの接点
「・・・ゴーリキーとH.G. ウェルズの<二人の>伴侶であったムーラ・ブドベルグ(Moura Budberg)<(注23)>は、<かかる>強制された関係を、自分の前身を殺すことで生き延びた魔性の女だった。・・・」(B)
(注23)Moura (Maria Ignatievna) Zakrevskaya。1891?~1974年。ロシア貴族の娘でロシアの外交官たる伯爵と結婚し、エストニアに居を構えるも、この夫は暗殺され、ペトログラードに戻るが、そこで英国の外交官で諜報員であったロックハート(コラム#4633)の情婦となり、ロックハートの国外追放の後、1920~33年の間、ゴーリキーの内縁の妻となり、同時に1920年からウェルズの情婦となる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Moura_Budberg
「・・・英国とロシアを結び付ける鍵となる移行的道程において、グレイは、H.G. ウェルズの科学へのナイーブな熱情が、ゴーリキーの三番目の妻であるムーラとの交情によって、いかに覆されたかを暴露する。
彼女は、NKVD<(コラム#1990、2844、2846、3379、3381、3461、3495、3683、3776、4330、4332、4762、4834)>の犬であって、最適者が生き残るということを体現した人物だった。
1939年に、ウェルズは、「自然の秩序が魚竜類(ichthyosaur)や翼竜(pterodactyl)よりも人間の方に好意的な偏見を持っている理由など全くない。私は、宇宙が、人間に退屈し、人間に厳しい目を向け、<人間が、>退化(degradation)、苦悩と死へと運命の流れによって押し流されて行くのが見える」と記した。・・・」(D)
「・・・<霊魂不滅論者と、>見解をH.G. ウェルズは共有していたが、その彼がソ連にボルシェヴィキの指導者と会いに出かけて行った。
ウェルズにとっては、ソ連という国は、政治的実験を超える存在だった。
若い時に、ダーウィンの最も激しい使徒であったT.H. ハックスレー(Huxley)<(注24)(コラム#496、3450)>の講義に聴き入ったウェルズは、覚醒した少数者が革命のコントロール権を掌握しない限り、人類は漂流して絶滅するであろうことに確信を持っていた。
(注24)トマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley。1825~95年)。「「ダーウィンの番犬(ブルドッグ)」の異名で知られ、チャールズ・ダーウィンの進化論を弁護した。・・・<また、>「不可知論」の語を作って自らの信仰を表現した。・・・孫<に、>アルダス・ハクスリー(文筆家)、ジュリアン・ハクスリー(ユネスコの初代長官、世界野生生物基金の創設者)、そしてアンドリュー・ハクスリー(生理学者でありノーベル賞受賞者)が<いる。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC
ボルシェヴィキはまさにそれをやっているように見えた。
そこで、ウェルズは、1920年にレーニンに会い、新しいソヴィエトの指導者は「極めてすがすがしい(refreshing)、科学的人間の良きタイプである」ことを発見した。
ウェルズは、新しいソヴィエト国家が大勢の人々を殺したとしても、「全般的には、理由があって、かつ目的があって殺したのだ」と記した。
知的な少数者の一人であるレーニンは、自分の独裁的権力を新しい人類を作り上げるために用いていた、というわけだ。
レーニンを訪問するためにロシアにいた間、ウェルズは、ゴーリキーのアパートに滞在した。
そこで、彼は、このロシア人作家の伴侶であるところの、皆がムーラと呼んでいた、30歳の、以前はバルト地方の地主の妻であり、かつ、一時英国のロシアにおける非公式の代表の一人の愛人であった女性に出会った。
ウェルズが、彼の死後になって初めて公刊された、自伝の伏せられた部分の中で回想しているところによれば、「情熱の閃光」が二人の間を流れ、彼らは一夜を共に過ごした。
10年後、ムーラは、ロンドンでウェルズに合流することになり、彼と結婚することや同棲することを一貫して拒絶しつつも、<彼女は、>ウェルズの残りの人生を通じて、彼の同伴者(companion)となった。
ウェルズは、数多くの非凡な女性と関わりを持ったが、ムーラ・ブドベルグにほど惹きつけられた相手はいなかった。
彼女は、ロンドンの最もコネの多い人物の一人として名だたる存在となり、自分自身を巨大な社会的ネットワークの中心に位置づけた。
(ところで、彼女は、<現在の英国の副首相である>ニック・クレッグ(Nick Clegg)<(コラム#3965、3991、5005)>の曾曾叔母(great-great-aunt)となった。)
ウェルズにとって、ムーラは、自伝の中で、「愛人たる影(Lover-Shadow)」、すなわち、<彼の、>意識的には自覚できない人格の暗黒の部分、となった。
実際、彼女との出会いが、ウェルズの自分自身への見方を変貌させたことは事実だ。
彼女は、彼に対し、逮捕される惧れがあるので、もはやソ連に入国することはできない、戻れば自分の自由を、いや生命すら危険にさらすかもしれない、と語った。
しかし、ウェルズが、今度はスターリンと話をするために、ソ連を1934年に再訪した時、ムーラがその前年に少なくとも3回ソ連に滞在していたことを知った。
彼女の生まれたエストニアに旅行した時、彼は、彼女に自分が知ったことを突き付けて対決した。
最初のうちは、ムーラは全てを否定した。
しかし、やがて彼女は、自分はその前にゴーリキーに仕向けられたように、秘密警察によってウェルズに仕向けられた(planted on)のだ、と話した。
自分はそうするしかなかった、と彼女は説明した。命と引き換えに秘密警察のために働いたのだ、と。
ウェルズは、その説明を受け容れなかった。
いかなる事情があろうとも、人として絶対やってはいけないことがあるのではないか。
それをやることが余りに恥ずべきことなのでやるくらいなら死んだ方がいいものがあるのではないか、と。
ウェルズのこの挑戦に動じることなく、ムーラは、彼女自身が問い返すことでこれに応えた。
あなた、生物学を勉強したんじゃなかったの? 生存することこそ、生なるものの第一法則だと教わらなかったの? と。
ウェルズは、<人間以外の>種にとってはそうだが、意識ある個々人<たる人間>に関してはそうではない、と。
今度はムーラは笑って、やり過ごした。
ムーラの秘められた人生を知ったことで、ウェルズは精神的危機状態に陥り、それから二度と完全に恢復することはなかった。
→これぞ、まさに、理想主義者たる男と現実主義者たる女が、永遠に架橋することのできない深淵ですね。(太田)
絶え間ないプロパガンダの流れの中では<←意味不明(太田)>、彼は、一貫して、科学が、その中に生きる<こととなる、自己変革を成し遂げた>より高度な種<たる人間>達と共に、科学が新しい世界を建設することができる、と執拗に主張し続けた。
しかし、彼のSF物語群は、全く異なった話を展開する。
『タイム・マシン(The Time Machine)』<(注25)>の中で、 時間旅行者が未来に旅する時、彼は、人肉食に立脚して構築された世界、すなわち、暴虐的なモーロック達(Morlocks)のための食物として飼育されることに満足しているように見えるところの、繊細なるエロイ(Floi)がいる世界を発見する。
(注25)「1894年から1895年にかけて、<英>『ニュー・レビュー』誌に連載読物として掲載された。・・・時間旅行者は、現代(彼自身の時代)の階級制度が持続した結果、人類の種族が2種に分岐した事を知る。裕福な有閑階級は無能で知性に欠けたエロイへと進化した。抑圧された労働階級は地下に追いやられ、最初はエロイに支配されて彼らの生活を支えるために機械を操作して生産労働に従事していたが、しだいに地下の暗黒世界に適応し、夜の闇に乗じて地上に出ては、知的にも肉体的にも衰えたエロイを捕らえて食肉とする、アルビノの類人猿を思わせる獰猛な食人種族モーロック・・・へと進化したのである。・・・彼が見た未来の世界は資本主義における階級構造の結果であると時間旅行者に語らせている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%B3_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)
そして、この時間旅行者は、遠い将来に旅し、生物といえば緑のヘドロ(slime)だけの、暗闇に閉ざされつつある地球を発見する。
『モロー博士の島(The Island of Dr Moreau)』<(注26)>の中では、想像力のある生体解剖者が、動物達に人間へと改造するための悪しき実験を行う。
(注26)1896年に発表した小説。「1887年・・・帆船・・・に乗り組んでいたプレンディックは、漂流船との衝突事故の際に小型ボートで脱出する。のちに別の船に救助されるが、そこには多数の動物が積まれ、異様な外見の人間が乗っていた。やがてプレンディックは船の目的地である島に上陸し、白髪の男<(モロー博士)>に会う。・・・やがて・・・博士が手術中の獣人に殺害され、この事件をきっかけに獣人たちは人間らしさを失ってゆく。博士の助手であるモンゴメリーも死亡し、<この島での>ただ1人の人間となったプレンディックは命の危険を感じて島を脱出する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AD%E3%83%BC%E5%8D%9A%E5%A3%AB%E3%81%AE%E5%B3%B6
その結果は、醜い、ひどい苦痛に苛まれる「獣人(beast-folk)』・・人類の戯画(travesty)だった。
ウェルズのかかる寓話群は、彼の意識的頭脳が捨て去ったところの、彼の意識下の自身一種の自動筆記だった。
(続く)
イギリス史とロシア史が共鳴した瞬間(その5)
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