太田述正コラム#5282(2012.2.5)
<イギリス史とロシア史が共鳴した瞬間(その10)>(2012.5.21公開)
 マレヴィッチは、抽象的な幾何学的形態をより高次元の現実の体現であると見た。
 レーニンの立方形の大霊廟が、死が存在しない「四次元」を表していると信じて、彼は、レーニンの追従者達に立方形のものを自宅に置くよう示唆した。
 この提案は党によって採用され、この死亡した指導者の立方形のお宮が事務所や工場の「レーニン・コーナー」に設置された。
 シュチューセフの設計は、立方体のオカルト的諸性格に関するマレヴィッチの信条を反映したものだった。
 1924年1月の葬儀委員会の会合において、シュチューセフは、「ウラディミール・イリッチ<(=レーニン)>は永遠だ。…建築物にあって、立方体は永遠だ。この大霊廟は立方体で成っていなければならない」と宣言した。
 そして、彼は、三つの立方体からなる設計をスケッチで示し、この委員会はそれを受け容れた。
 クラーシンも積極的だった。
 レーニンの死の数年前に同僚たる革命家の葬儀において行ったスピーチで、将来は革命指導者達は永久に死ななくなる、との自分の信条を彼ははっきり言明した。
 「私は、科学が全能となり、死んだ有機体を再生させ、偉大な歴史的人物達を蘇らせることが可能になる時がやってくることを確信している。
 その時がやってくれば、偉大な人物達の中から我々の同志となる者が出ると確信している」と。
 この展望を念頭に置き、1924年1月末に、クラーシンはレーニンの死体を冷たく保つよう設計された冷蔵システムを構築した。
 驚くべきことではないが、この原始的な低温技術は機能しなかった。
 <レーニンの遺体の>顔の皮膚は黒ずみ、しわが出現し、唇は開いてしまった。
 クラーシンは、ドイツからもっと良い冷蔵庫が輸入され、二重ガラスが導入されれば冷凍を成功させることができると言って譲らなかった。
 しかし、<レーニンの遺体の>劣化過程は続き、鼻の形が崩れ始め、片方の手は緑灰色に変色し始め、両目は眼窩に沈み始め、両耳はくしゃくしゃになり始めた。
 クラーシンのこの初期の低温の実験は成功するはずがなかった。
 レーニンのこの世の遺骸からかき集められた人形のような複写品を生き返せることなどできようはずがなかったのだ。
 低温の諸手法がはるかに発達した現在においてさえ、冷凍過程は遺骸に極めて悪い影響を及ぼす。
 クラーシンは、知識の前進が人類をして死を克服することを可能ならしめたと信じたかったわけだが、科学ができる全ては、死せる替え玉をこしらえることくらいだった。
 それでも、神構成者達は、科学がいつの日か死を打ち破るという、自分達の信条を放棄することはなかった。
 クラーシンとルナチャルスキーが当初の木製の構造物<(注44)>に代わる、恒久的なお宮の設計コンペを実施する旨発表した時、彼らは、この新大霊廟<(注45)>は、レーニンの体<(注46)>を保全するために必要な装置を収める地下室が含まれていなければならないという仕様を定めた。
 (注44)写真。
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Bundesarchiv_Bild_102-01169,_Moskau,_Lenin-Mausoleum.jpg
 (注45)地上部分は、それまでの木製の廟と基本的に同じ。スケッチ。
http://lenin.ru/mas_e.htm
 写真。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Moscow_kremlin_senate_mausloleum.jpg
 (注46)写真。
http://www.esquire.com/the-side/opinion/7totalitarianwonders-4
http://www.google.co.jp/imgres?imgurl=http://www.ochi-office.jp/image/3120(71).JPG&imgrefurl=http://www.ochi-office.jp/article/13287772.html&h=480&w=640&sz=139&tbnid=9UDrhc1eGmTI_M:&tbnh=90&tbnw=120&prev=/search%3Fq%3D%25E3%2583%25AC%25E3%2583%25BC%25E3%2583%258B%25E3%2583%25B3%25E5%25BB%259F%26tbm%3Disch%26tbo%3Du&zoom=1&q=%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3%E5%BB%9F&docid=xdT4WXU24yOqmM&hl=ja&sa=X&ei=82EuT_GhBorEmQX1zJn6Dw&ved=0CE8Q9QEwBA&dur=3047
 繰り返し再ミイラ化されることで、レーニンの神聖な場所に安置された死体はソ連体制崩壊後も生き延びた。
 その安全を確保するために極端な注意が払われた。
 1941年にナチス軍がモスクワに接近した時、この体は同市の生きていた住民達よりも早く疎開させられた。
 1973年に、党政治局が党員証を再発行することを決定した時、最初に発行された党員証はレーニン用のものだった。
 共産主義時代の最後まで、彼の背広は18カ月ごとに変更された。
 <遺体の>若返り措置は共産主義崩壊後も続けられ、2004年には、レーニンがそれまでの何十年よりも若く見えるようになったと発表された。
 レーニンの不死化にはそれなりの理屈があった。
 レーニンは、ボルシェヴィズムが新しい宗教であるとのいかなる示唆にも猛烈に反対したものであり、1913年に[いわゆる神構成者達と密接な関係を有した]ゴーリキーに送った手紙で、新しい神を構成しようとすることは死体嗜好症(necrophilia)の励行である、と記した。
 これは鋭い観察だったが、レーニンは、神構成者達と、レーニン自身が思っていたほど違ってはいなかった。
 彼もまた、科学の力を不可能な事柄・・初期キリスト教が約束した地上の楽園の唯物論者版・・を達成するために用いようとしたからだ。
 <しかも、>ソ連の実験は、新しい社会を実現するだけでなく、新しい種類の人間も実現しよう<(生誕させよう)>としたのだ。・・・」(F)(ただし、[]内はAによる。)
 「・・・最も初期の弁証法的唯物論者達のうちの多くがこのような超自然的な(transcendental)諸展開の可能性、というよりも不可避性を固く信じていたという話は、多くの読者の眉を顰めさせることだろう。
 しかし、この発見にまで至る以前に、彼らの眉は、髪の生え際のあたりまで既につり上がっていたことだろう。
 というのは、彼の研究を通じて、ジョン・グレイは、死亡学的(thanatological)幻想と心霊論的陰謀が、ヴィクトリア期末のイギリスの上流社会層から始まり、ロシア革命とスターリン主義恐怖時代を経由して今日のコンピューター時代におけるネオ心霊論(neo-spiritualism)に至るところの縫い目(seam)、を既に暴露していたからだ。・・・
 ウェルズは、楽観主義的なダーウィン主義者として出発したが、次第に将来に対する幻滅が募って行った。
 しかし、ゴーリキーはそうはならなかった。
 彼は、「個人的には、私は、人間は機械のようなもので、「死んだもの」がそれ自体で心霊的エネルギーに変わり、遠い将来のいつかの時点で、全世界を純粋に心霊的なもの・・すべてが消滅し、純粋な想念へと変わり、人間全ての心を化身させつつ、この純粋な想念だけが存在し続ける・・へと変貌させる、と想像することを好む」と記した。
 このような目的論的な非現実的なあこがれは、レーニンの体をミイラ化するだけでなくいつの日にか彼という人間自身が死から呼び戻されるという企画を温めた碩学達の集団の狂気の夢に比べたら、取るに足らなかったと言えよう。
 しかも、この狂気の夢は出発点に過ぎなかった。
 これらの夢想家達の一人であったニコライ・フョードロフ(Nikolai Federov/Fyodorov)<(前出)>は、「我々の義務、我々の任務は、既に死亡した者全員を生に呼び戻すことにある。…」と記した。
 換言すれば、ボルシェヴィキ達のこの事業は、未来においてのみならず、過去においても死を廃止する<という途方もない>ものだったのだ。・・・」(A)
(続く)