太田述正コラム#5292(2012.2.10)
<ロジャー・ウィリアムズ(その3)>(2012.5.26公開)
(5)ウィリアムズの思想
「・・・バリーは、<ウィリアムズの>これらの信条が、当時いかに物議をかもすものであったかを示すとともに、このようにして、ウィリアムズが良心の自由の初期における主唱者の一人であったという標準的イメージを強固なものにする。
しかし、バリーは、この論争がイギリスの文脈の中で行われたことを強調する余り、キリスト教徒たる欧州人について言えることはインディアン等その他の人々についても言えるという、ウィリアムズの、更に大胆な固執を蔑にしてしまっている。
ニューイングランドのインディアンの<言語の>辞書兼文化人類学書である、彼の著作の『アメリカの言語に係る鍵(Key Into the Language of America)』(1643年)の中で、ウィリアムズは、自分の原住民たるホスト役で、かつ、隣人であった人々を「野蛮人」と呼んだが、彼らは、<イギリス人の>みんなと同様、敬意を抱くに値するところの、良心と権利を持っていると主張した。
彼は、インディアンに向かって説教こそしたけれど、彼らを強制的に改宗させることは、偽った信仰であって、神への冒涜である、と考えた。
アメリカには原住民が必要とし、あるいは知ってさえいるものよりも、もっと多くの土地がある、というほとんど普遍的に<イギリス人の間で>抱かれていた仮定に対して、彼は、原住民は、「これは酋長(Prince)のものだとか人々のものだとか、自分達の土地の境界についてはとても厳格できちょうめん」である、と指摘した。
この点は、<彼が提起したところの、>キリスト教徒の間での宗教の自由の教義よりもっと物議をかもした。
1500年代半ばに、カトリック神学者のバルトロメ・デ・ラス・カサス(Bartolome de Las Casas)<(注7)>は、<ウィリアムズと>同じようなことを述べている。
(注7)1484~1566年。「スペイン出身のカトリック司祭、・・・メキシコ・チャパス教区の司教<を歴任>。当時スペインが国家をあげて植民・征服事業をすすめていた「新大陸」(中南米)における数々の不正行為と先住民(インディアン、インディオ)に対する残虐行為を告発、同地におけるスペイン支配の不当性を訴えつづけた。主著に『インディアス史』、『インディアス文明誌』などがあり、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』でも有名。」1502年に中米への武力入植に参加、その後本国に戻って叙階を受け、1514年には強制的なキリスト教布教とインディアン奴隷の上に成り立っていたエンコミエンダ制(大土地所有制)を糾弾した。この時点では黒人奴隷の導入をやむなしと考えていたが、この考えも晩年自己批判している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%A1%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%B5%E3%82%B9
インディアンに対するスペイン人による残虐行為を並べ立てた上で、ラス・カサスは彼らを自分達が諸権利を持つ土地の住民であるとして擁護し、キリスト教信仰が欠如していることをもって彼らに対する虐待を正当化することはできない、と述べた。
<しかし、>その通りだと確信した者はほとんどいなかった。
18世紀のカトリック宣教師のジュニペロ・セラ(Junipero Serra)<(注8)>神父のことを考えてみよう。
(注8)1713~84年。スペインのマジョルカ島出身のフランシスコ会修道士として、当時スペイン領であった現在のカリフォルニアに宣教基地の連鎖を設置した。彼は、1988年に列福された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jun%C3%ADpero_Serra
サンフランシスコの南部から南北に走る一般道のJunipero Serra Boulevardやその延長線上にあり、サンフランシスコ郊外とサンノゼを、途中、スタンフォード大学の門前市であるパロアルトを通過して結ぶところの、高速道Junipero Serra Freeway(=Interstate 280 (California))に、彼はその名を残している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Junipero_Serra_Boulevard
http://en.wikipedia.org/wiki/Interstate_280_(California)
彼は、スペイン人はカリフォルニアで土地を取り上げる権利があり、教会はインディアンをキリスト教徒の入植地において、必要に応じて力でもって再編する義務があることを当然視していた。
プロヴィデンスから3,000マイル離れ、北カリフォルニアの<カリフォルニア>州高速道路280号(Interstate 280)のパーキング・エリアの一つに、実物大より大きなセラの像が太平洋に面して立っている。
その背中は、はるか遠方にあるウィリアムズの像とは顔を背けあっており、それはあたかも、セラがウィリアムズの新世界<たるアメリカ>の諸社会がそうあらねばならないとしたところの急進的な事例に反対しているかのようだ。
米国は、セラ的部分とウィリアムズ的部分からなる。
教会と国家との間の「分離の垣根または壁」は米国憲法によって確認されたけれど、インディアンの権利は確認されなかったのだから・・。」(B)
「・・・ウィリアムズの庇護者(mentor)は、イギリスの偉大な法学者のエドワード・コークであったが、彼は、「家は城なり」と判決を下し、人が自由である不可侵の避難所に係る大領主達の諸自由を最下層のイギリス庶民にまで拡大した。
コークは、人身保護礼状(habeas corpus)を恣意的投獄防止のために使った初めての人物でもある。
また、大法官のトマス・イーガートン(Thomas Egerton)<(注9)>が、「Rex est lex loquens=国王は物言う法なり」と語り、君主は「国家の理由に基づき、いかなる法も停止」できることに同意したところ、コークは、これに反し、法は国王を拘束すると宣旨した。
(注9)Thomas Egerton, 1st Viscount Brackley。1540~1617年。イギリスの貴族、裁判官、政治家。オックスフォード大、リンカーン・イン卒。国璽尚書(Lord Keeper)と大法官(Lord Chancellor)を21年間務めた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Egerton,_1st_Viscount_Brackley
コークは、その自由に関する見解ゆえに、告発なくして投獄されたが、同じ見解がウィリアムズの血管の中を流れていた。
ウィリアムズにとって、<自由>同様に重要だったのは聖書だった。
「カエサルのものはカエサルに」という新約聖書の文言を超えて、彼は聖書の相互に矛盾する文章や異なった聖書の翻訳の辻褄合わせが困難であることを認識していた。
彼の眼前には、政治的目的に仕えたところの新しい翻訳の事例があった。
ジェームス1世は、既存の英訳聖書が気に入らなかった。
というのは、彼の見解では、それは権威への従順を十分教えなかったからだ。
ジェームス欽定訳聖書はこれを是正できるだろうというわけだ。
(続く)
ロジャー・ウィリアムズ(その3)
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