太田述正コラム#5304(2012.2.16)
<大英帝国再論(その3)>(2012.6.1公開)
(6)ナイジェリア
「・・・社会的背景がビアフラ戦争<(注16)>の時も一定の役割を演じた。
分離運動の指導者であったオジュク(Ojukwu。後出)中佐は、パブリックスクール、オックスフォード大出身で自分の才能に大いなる自負心を持っていた。
(注16)「ナイジェリアには北部のイスラム教徒主体のハウサ族、西部のイスラム/キリスト教混合のヨルバ族、東部のキリスト教主体のイボ族の三大部族が、その他の多くの少数民族ともに存在した。イギリス植民地時代には、イボ族は比較的教育レベルが高く、下級の官吏や軍人を多く輩出し、また商才もあり「黒いユダヤ人」と呼ばれることもあった。
1960年にナイジェリア連邦として独立後は、東部に原油が発見され、イボ族地域は工業化が進み他地域との経済格差は広がっていた。北部のハウサ族はヨルバ族の一部と連携し、連邦を支配しようとした。
1966年、軍のイボ族主体の中堅将校が、クーデターを起こし、北部系の政治家、高級軍人を殺害したが、同じイボ族出身の軍司令官である・・・イロンシ将軍に鎮圧された。イロンシ将軍は、臨時政府を作<っ>・・・た。しかし、臨時政府が連邦制廃止を打ち出した後、北部ではイボ族に対する反発が強まり、数千人のイボ族が殺害され、イロンシ将軍も、ハウサ族の下級将校の襲撃を受けて殺害された。北部出身のゴウォン中佐が軍事政権を握り、イボ族出身の軍人を殺害・追放した。北部におけるイボ族への迫害は一層強くなり、1万を越えるイボ族が殺害され、100万人近い難民が東部州に逃れてきた。東部州の軍政知事だったチュクエメカ・・・オジュク中佐は・・・1967年5月30日・・・、「ビアフラ共和国」として東部州の独立を宣言した。
直ちに、連邦軍は攻撃を開始したが、・・・戦況は膠着状態を示した。ビアフラにはフランスと南アフリカ等が支援したが、大部分の国はビアフラに同情する一方で消極的ながら正規政府である連邦を支持。特に旧植民地の分割化を望まないイギリスとアフリカへの影響力強化を狙うソ連は積極的に連邦を支援した。また、少数の白人傭兵がビアフラ側で戦っている。
1968年に入ると、・・・ビアフラは飢餓に苦しむことになった。・・・
弾薬、装備の不足も深刻になり、1970年1月9日、ついにオジュク将軍はコートジボワールに亡命し、ビアフラは・・・崩壊<し>た。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%A9%E6%88%A6%E4%BA%89
英国の支援者たちがあか抜けているオジュクに魅かれたのは、古の植民地問題の現代的顕現であったとクワルテングは信じている。
すなわち、「より初期の世代の英国の帝国行政官達の衒学性が[ナイジェリアの]北部の太守(emir)達を魅力的だと思わせたように、若干の評論家達の生来の衒学性がビアフラの大義に同情的にさせた」というのだ。・・・」(D)
「ナイジェリアの風土的な問題はかつてと同様、三つ巴の問題だった。
人口の50%を占めるイスラム教の北部の<ハウサ族>、そして更に二つに分かれるところの、西部のヨルバ(Yoruba)族と東部のイボ(Igbo)族からなるキリスト教と多神教の南部だ。
英国首相のソールズベリー(Salisbury)<(コラム#305、3533、3566、3581、4018、4458、4870、5034、5040、5302)>卿が言ったように、1892年に英国とフランスの間で西アフリカの分割について合意が成立してから、白人が足跡を残したことのない場所について、地図上に線を引く作業を行ってきたが、山や川や湖がどこにあるのか正確に知らないまま、山や川や湖を互いにやりとりしてきた」というわけだ。・・・
チュクエメカ・オジュク(Chukwuemeka Ojukwu)<(注17)>は、イボ族の指導者でビアフラ戦争の時にナイジェリアから分離しようとしたが、オックスフォード大の学生であった時が「自分の生涯で最も幸せな日々」だったと追想している。・・・」(G)
(注17)チュクエメカ・オドメグ・オジュク(Chukwuemeka Odumegwu-Ojukwu。1933~2011年)。イボ族出身の軍人、政治家。オックスフォード大卒。ビアフラ共和国時代に陸軍大将に昇進。恩赦になった1982年にナイジェリアに帰国。2003年と2007年に行なわれた大統領選挙に出馬したが、いずれも落選。イギリスで病死。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%AF%E3%82%A8%E3%83%A1%E3%82%AB%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%AF
クワルテングは、チヌア・アチェベ(Chinua Achebe)<(注18)>の素晴らしい小説である『崩れゆく絆(Things Fall Apart)』を高く評価しているが、それは、後にナイジェリアとなる地域への宣教師達と交易者達の到来、及び、アフリカ人達が自分達自身の地域と事柄(affairs)の行政を「より高い文明」の指導の下で行うことが認められるところの、「二重委任(Dual Mandate)」を創り出すという、植民地行政官のルガード(Lugard)<(注19)>卿と彼の妻であるロンドンタイムスのジャーナリストのフローラ・ショー(Flora Shaw)<(注20)>の意思決定とを描いている。
(注18)1930年~。イボ族の小説家。「当時ロンドン大学のカレッジであった現在のイバダン大学で、英語と、歴史、神学を学<ぶ>。・・・ビアフラ戦争時にはビアフラ共和国の大使を務めた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%8C%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%99
(注19)Frederick John Dealtry Lugard, 1st Baron Lugard。1858~1945年。英陸軍士官学校卒の英陸軍将校、傭兵、アフリカ探検家、植民地行政官。香港総督(Govenor:1907~12年)、ナイジェリア総督(Govbenor-General。1914~19年)を歴任。件の理論を著書『The Dual Mandate in British Tropical Africa 』(1922年)で展開した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_Lugard,_1st_Baron_Lugard
(注20)Dame Flora Louisa Shaw, Lady Lugard。1852~1929年。マンチェスター・ガーディアンの記者、ロンドンタイムスの英植民地担当編集者を歴任。1902年にルガードと結婚。ナイジェリアの名付け親。
http://en.wikipedia.org/wiki/Flora_Shaw
問題は、ルガードの、彼が好んだ部族の長達を擁立すると言う家父長的システムが、とりわけこの国の南東部においては、後の累次の内戦の火種になったことだ。・・・」(H)
(続く)
大英帝国再論(その3)
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