太田述正コラム#5308(2012.2.18)
<大英帝国再論(その5)>(2012.6.3公開)
「・・・要するに、大英帝国の地上におけるエージェント達に自治が与えられ過ぎていたのだ。
「<その結果、>役人達が一つの政策の方向を打ち出すとその後継者達がそれを覆して全く異なったアプローチをとるということがしばしば起こった。
これは、大英帝国における恒常的な不安定の原因となった」というのだ。・・・
<また、>何度も何度も、英国の役人達は帝国形成の際にも非植民地化の際にも、肝心な瞬間瞬間に誤った選択を行ったため、ひどい長期的結果がもたらされたのだ。・・・
それは、デイヴィッド・キャナダイン(David Cannadine)<(注25)>の著作の<タイトルである>『装飾主義(ornamentalism)』<(注26)>、及び、英帝国主義における社会的階級の役割によって大きく影響されていた総督達や植民地担当相達によるところの、上意下達物語だ。
(注25)1950年~。ケンブリッジ大卒、オックスフォード大博士。「コロンビア大学教授を経て、現在、ロンドン大学歴史学研究所所長。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%8A%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%B3
(注26)Ornamentalism: How the British Saw Their Empire(2001)→『虚飾の帝国・・オリエンタリズムからオーナメンタリズムヘ』(日本経済評論社 2004年)。
大英帝国の歴史及び英国自身の歴史を相互に切り離すことはできず、一体のものとしてその全体を研究しなければならないとし、1850年頃から1950年頃の英帝国主義全盛期においては、英国において存在したとキャナダインが信じるところの、階統社会的なものを海外において再生産することへの英国のコミットメントによって英帝国と英国のそれぞれの歴史は一つのものとなった、と主張している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ornamentalism
物にひどく憑りつかれたように、クワルテングは、大英帝国の偉大なる人物達の所属階級と出身学校とを視覚的に描き出す。
カーゾン卿<(注27)(コラム#4386、4532、4651、4717、4954、5300)>は、イートン校<時代>を、オッピダン(Oppidans)の組長(captain)たる、すなわち、相対的に落ちる社会的出自だが一般に学業成績がより良かったところのキングズ・スカラー(King’s Scholars)<(注28)>の一人ではなき、同校の最上級生として、終えた。
(注27)ジョージ・ナサニエル・カーゾン(George Nathaniel Curzon, 1st Marquess Curzon of Kedleston。1859~1925年)。イギリスの保守党政治家。イートン、オックスフォード大卒。
「1895年、カーゾンは・・・シカゴの百万長者・・・の娘で美人の誉れ高いメアリー・ヴィクトリア・レイターと結婚した<(1895年~1906年) >。・・・<その>メアリーの死はカーゾンの生涯において、私生活上の最もつらい出来事だった。・・・
カーゾンの<インド>副王在任中<(1899年~1905年)>にインドで起きた飢饉は、610万人から900万人の命を奪ったといわれる。・・・<また、>カーゾンは女性参政権に反対し続け<た。>・・・
恋愛小説家エリナー・グリンとの長年にわたる関係の後、カーゾンは1917年にアラバマ出身の裕福な未亡人・・・と再婚した。・・・
カーゾン<が>・・・外務大臣(1919年~1924年)<の時に>イギリス政府が・・・1919年12月に提案したソ連・ポーランド間の国境線は、カーゾンの名前に因んでカーゾン線と名付けられた。・・・。カーゾン線は現在もポーランドと東側の近隣国とのおおよその国境線となっている。・・・
1923年5月にアンドリュー・ボナ・ローが首相を引退した時、カーゾンは後継指名を受けることが出来ず、スタンリー・ボールドウィン内閣で外相留任を言い渡された<が、これは、アイルランド貴族以外の英国貴族は下院議員になれなかったところ、この時代、>貴族院議員が首相となることは、<下>院における最大野党で爵位貴族を少数しか抱えていない労働党の攻撃材料になりかねず、また民主主義の時代に富裕な貴族が保守党を指導することが危険と見なされた<ためであるとされる。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%BE%E3%83%B3_(%E5%88%9D%E4%BB%A3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%BE%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%B4%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%89%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E4%BE%AF%E7%88%B5)
なお、カーゾンもオックスフォード・ユニオンの会長(コラム#5300)を務めている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Presidents_of_the_Oxford_Union
(注28)キングズ・スカラー/オッピダン制度は、パブリックスクールのイートン(Eton College)、キングズ(The King’s School)、カンタベリー(Canterbury School)、ウェストミンスター(Westminster School)の4校にあった。(ただし、ウェストミンスターだけは、女王の時代にはクイーンズ・スカラーと呼称。)この4校は男子校である。
イートンの場合、全校生徒を学内試験によって70人のキングズ・スカラーと1200人のオッピダンに分け、前者は特別の寮で寝起きした。
http://en.wikipedia.org/wiki/King’s_Scholar
<クワルテングは、>もし<シリアの最後の国王となった>ファイサル2世<(前出)>が「ハローではなくイートン」に行っておれば、イラクにおいて、はるかにうまくいったのではないか、ということを強く示唆している。・・・」(B)
「・・・一体、大英帝国とは何だったのか?
要するに、それは、英国が欧州の外で力を行使した、ということだったのか。
自分達自身たる白人が非白人の人々を統治した、と描写した人々にその本質が存するのか。
それは、単に、世界地図上で一度は赤く塗られたことのある部分の総和なのか。
それは、容赦なく近代化させる創造的な力だったのか。
はたまたそれは、硬直的で階統的で否定的で先祖返り的なものだったのか。・・・
ある程度、大英帝国はこれらすべてのものであり、どれか一つが排他的ないし絶対的なものとなったことはなかった、というのがその答えだ。
<そもそも、>英国の死活的な前哨地点は実は欧州にあった。
ミノルカ(Menorca)<(注29)>、ジブラルタル(Gibraltar)<(注30)>、キプロス(Cyprus)<(注31)>、そしてマルタ(Malta)<(注32)>は、それぞれが異なった時期において、英海軍に地中海において優越的地位を占めさせることを可能にしたのだ。
(注29)=Minorca。スペイン継承戦争中の1708年に英海軍が占領し、1713年に英領となり、7年戦争中の1756年にスペインが奪還したが、この戦争に英国が勝利したことで1763年に再び英領となるも、米独立戦争中の1782年にフランス・スペイン連合軍が奪還し、1802年にスペイン領となり、現在に至る。
http://en.wikipedia.org/wiki/Minorca
(注30)「スペイン継承戦争<中の>・・・1704年・・・、ジョージ・ルーク提督率いるイギリスとオランダの<連合>艦隊の支援の下、<オーストリアの>ヘッセン=ダルムシュタット公ジョージ指揮下の海兵隊がジブラルタルに上陸した。交渉の末、住民は自主退去を選択し、海兵隊はジブラルタルを占領した。1713年にユトレヒト条約の締結によって戦争が終結するものの、その条約でジブラルタルはイギリス領として認められ、<現在に至る。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%AB
(注31)「エジプトの植民地化を進めていたイギリスはこの島の戦略的価値に目をつけ、1878年、露土戦争後のベルリン会議でオスマン側に便宜を図った代償にキプロス島の統治権を獲得。さらに1914年、同年勃発した第一次世界大戦でオスマン帝国が敵対したのを理由に正式に併合した。
第二次世界大戦後、ギリシャ併合派、トルコ併合派による反イギリス運動が高まったため、1960年にイギリスから独立<し、現在に至る、>」英連邦加盟国。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B9
(注32)「エジプト遠征途上のナポレオンによって<聖ヨハネ騎士団→マルタ騎士団の所領であったマルタが>占領されるが、」1800年に英海軍が占領すると、同島の指導者達は英領となるとの宣言を行った。1814年のパリ条約で正式に英領となり、英国は、「地中海を経由してインドにいたるルート上に位置することから<マルタを>重要視<し>た。特に第二次世界大戦中にはエジプトへの連合国側の輸送路の途上にあり、またイギリス海軍の拠点としてイタリアと北アフリカとを結ぶ枢軸国側の輸送路を脅かす存在となったために空襲に晒されたが(第二次マルタ包囲戦)、ついに陥落することはなかった。」1964年に独立し、現在英連邦加盟国。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BF
http://en.wikipedia.org/wiki/Malta (「」外の部分)
(続く)
大英帝国再論(その5)
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