太田述正コラム#5314(2012.2.21)
<大英帝国再論(その8)>(2012.6.7公開)
別の書評からも、かなり重複はあるが、引用しておきましょう。
「・・・事実及び論理的諸仮定からして、「この世界の不安定性は、[大英帝国の]個人主義とでたらめな(haphazard)政策形成の産物なのだ。
彼は、帝国の戦略計画が策定されたことや被治者達への諸指示が発出されたことなど一度もない、と記す。
「交易を促進せよ(encourage)」というのが唯一の指示だったのだ。
ロンドンによって政策が逆転させられた例はあったとしても極めて少ない。
植民地における<英国人たる>指導者達は、何の監督も受けることなく、裁判官、法律授与者、及び警官として統治した。
英国の植民地の大部分の行政官達は、見事なる不活動という原則に従った。
一人の植民地統治者によって行われた諸決定はしばしばその次の者によって覆された。
イギリス人によって任命されたところの、部族の指導者達、原住民たる行政官達、そして君主達は、そこの人々にとっては嘆かわしいことに、何の干渉を受けることもなく、若干の者は賢明に、大部分の者は専制的に統治した。
これら諸国の大部分は、自分のアイデンティティーを見出すための苦闘を続けている。
クワルテングは、大英帝国に仕えたこれらの人々は、出身階級によってではなく、受けた教育と運動能力によって任命された、と主張する。
ウェリントン公爵は、そのことを「ウォータールーの戦いはイートン校の校庭で勝利された」と述べることで最も良く表現している。
この著者は、<イギリス>は階級志向的な社会ではなかったが、諸植民地で<大英帝国に>仕えた<英国の>人々の過半は、まず最良のパブリックスクールの一つ望むらくはイートンに行き、次いでオックスフォードかケンブリッジで古典を学んだ、と記す。
諸植民地における階統的社会は、英本国において見出されるそれよりもはるかに拘束的なもの(restrictive)だったが、それでもなお、それもまたやはり、<英本国におけるもの同様、>カネではなく、教育と地位に立脚したものだったのだ。
<植民地における>ルールは大変結構なものであり、現地の人々は、彼らが交易を妨害しない限り、効果的に無視され(ignored)、放任された(left to their own devices)のだ。・・・」(I)
(9)クワルティング批判
「・・・<この本は、>大英帝国の食物連鎖の底辺についての調査が欠如している。・・・
しかし、<この本の>より興味深い欠落はイデオロギーの不在だ。・・・
フランスとスペインを出し抜こうとする地政学的試みとか、自由市場資本主義とか、キリスト教とか、人種主義とか、人権の観念とかさえも<欠落している>。・・・
同様イライラさせられるのだが、クワルテングは本国に帰還した大英帝国の幽霊達を追求しようとしない。
20世紀の英国の文化は、ミュージック・ホールから大量移民からチキン・チッカ・マサラ(chicken tikka masala)<(注38)>まで、計りがたいほど大英帝国によって影響を受けた。・・・
(注38)要するに、我々の言う、インド・チキンカレーだ。↓
http://en.wikipedia.org/wiki/File:CTM.jpg
同様、この本は<大英帝国崩壊の>国際的な後日談に手心を加えている。・・・
<そもそも、>クワルテング<描くところ>の大英帝国の過去は現在について教えてくれるところがほとんどない。
それは保守党的(Tpry)歴史がそうあるべきもの、すなわち、きらきら輝く物語、階級に支配された、そして容赦なく、かつ心地よく斬新で悲観的だ。・・・」(B)
→この書評子は、労働党の下院議員です(B)から、そのことだけで、若干割り引いてこの批判に耳を傾ける必要があります。(太田)
「・・・クワルテングは、大英帝国を<本国や現地におけるイギリス指導者>個々人の性格や癖を通して吟味し過ぎている。
これが、一つのレベルにおいては、彼をして、この全球的な権力システムを形作った国際的かつ経済的諸圧力を過小評価させる結果となっている。
もう一つのレベルでは、我々は、排他性や頻繁な衒学性とは明確に区別されるところの、これらの人々が抱いていた諸観念について、<この本では>ほとんど学ばせてもらえない。
政治的、法的及び宗教的な諸観念に依拠するところの、安定的な政府が自治よりも重要である、との多くの植民地の役人達の確信は、英国それ自身の中においても強い影響を持っていた<考え方だ>。
<また、>これら6つの海外での「所有地群」を<英国が>奪取した時期が、英国の欧州における領土ないし保護地(franchise)が最も少なくなった時期であったことは、完全な偶然の一致とは思えない。
大英帝国の各所における民主主義の不在(deficit)・・いやそもそも、19世紀末から20世紀初にかけては英本国自身において不在だったわけだが・・は、近代性の欠如の証明では必ずしもない。
クワルテングは、大英帝国が「近代世界をつくった」と主張するニール・ファーガソンのような人々に挑戦することを欲した。
<すなわち、彼は、>大英帝国は、「我々が今住んでいる世界から」どんなに「遠く離れている」ことか、と執拗に唱える。
しかし、いかに政治的専制主義が極端な経済的かつ技術的前進と手を携えて機能できるかは、例えば、シンガポールを訪問さえすれば分かろうというものだ。
同様の理由で、各種鉱物や交易路に対する統制権を確保するために腐敗した支配者達を擁立し助けるといった、最も古い大英帝国的諸装置の幾ばくかは、米国や支那の影響下ないし投資下にある諸地域で、今日においてもなお用いられている。
つまり、近代性なるものは、<刻々>変遷する代物なのであって簡単には定義できないのだ。
全く同じことが帝国についても言える。・・・」(C)
「・・・余りにもしばしば、クワルテングは、英国人は、「地位、小衒学性、そして英本国自身に遍く見られた序列と特権の微妙な陰翳を<植民地に>移植した」と記す。
この慣行(practice)は現地の反動的な階統制を補強した可能性がある、と。
これは、我々がアフガニスタンやパキスタンのような国々の腐敗と社会的な遅れを嘆く時に念頭に置くべきことだ。・・・」(D)
「・・・<この本では、>ナイジェリアにおけるルガード卿の二重委任と間接統治の教義といった豊富な分析こそ提供されているが、<例えば、>中央アフリカ連邦(Central African Federation)<(注39)>の苦悩に満ちた生涯と死について語られることは全くない。
(注39)=ローデシア・ニヤサランド連邦(Federation of Rhodesia and Nyasaland)。「第二次世界大戦後の南ローデシアでは白人の移民が増え、農業や製造業が盛んとなった。加えて・・・銅鉱山で潤っていた北ローデシア・黒人の労働者の供給元となっていたニアサランド(現在のマラウイ)との結びつきが強まり、南北ローデシアにニアサランドを含めて統一した国家を樹立しようとする動きが白人を中心に活発化した。当初反対していた<英本国>も<最終的に>同意<し、>1953年に[植民地でも自治領でもないところの、総督のいる半独立国たる]連邦が成立した。
形式上は全ての人種に参政権が認められていたが、有権者登録で白人が絶対的に有利な立場に立ち、実質アパルトヘイト政策と変わらなかった。加えて諸政策が南ローデシア中心で行われていたため圧倒的多数を占めた黒人の反発は激しく、1959年にはニアサランドで反乱が勃発(程なく鎮圧)。北ローデシアでは鉱山労働者のストライキが頻発し、1960年代にアフリカ諸国が相次いで独立する様になると北ローデシアとニアサランドは連邦離脱の動きを強める。
このため、南ローデシアの白人層も連邦制を諦めて白人の利権確保に専念すべしと言う意見が大勢となり、1963年に連邦は解体。翌年には北ローデシアがザンビアとして、ニアサランドがマラウイとして夫々独立を果たす。残った南ローデシアは白人政権によるローデシア共和国を経て、1980年にジンバブエとして独立する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%A4%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E9%80%A3%E9%82%A6
http://en.wikipedia.org/wiki/Federation_of_Rhodesia_and_Nyasaland (ただし[]内)
1950年代と60年代に保守党を震撼させた累次の抗議活動が行われたが、結局、その全体計画(scheme)は決定的に敗北して終わった。・・・」(F)
「・・・しかし、もちろん、大英帝国がもたらした良いことが一つある。
それは我々に、イートン、ケンブリッジ卒、保守党陣笠議員、そして自他ともに認める「黒いボリス」たるクワルテング博士を与えてくれたのだから。・・・」(E)
(続く)
大英帝国再論(その8)
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